外伝1.臆病姫と皮肉屋な魔導士(エメラルド姫視点)
主な登場人物
ノア: 魔王討伐勇者パーティーの一人。青い髪と漆黒の瞳の、無口で冷静な魔導士。いつもどこか人を見下すような生意気な態度をとる。でも実は凄く仲間思いな面もある。
エメラルド姫:美しい金糸の様な長い髪と、深い黄金の瞳、滑らかな白い肌の美貌をもつ。聡明で優しい姫という理想の姿を頑張って作っている、少し自分に自身が無い、臆病な所のある姫。ノアとは同い年。
これは、皮肉屋で不器用で、そしてとても優しい魔導士ノアと、臆病な自分を叱咤しながら強くあろうともがいていた私、エメラルドの出会いの話。
王城の庭園の奥には、蔦に覆われた古い東屋がある。
ここには人が寄り付かず、もう誰も手入れをしていない。そのせいで、屋根の一部は崩れ、白い石造りの柱にはひびが入っている様な有様だった。
でも、だからこそ、ここはとても静かな場所で、私はこの静けさが好きだった。
人の声も、格式ばった礼儀もない、この場所だけが、私にとっての自由だったから。
初めてここに来たのは、五歳の頃。
私は、森とともに生きる国、シルヴェーヌ王国の王女として生まれ、育った。
人々が望む“聡明で優しい姫”であろうと毎日必死だった。けれど、どうしても上手くいかず、心が押しつぶされそうになる日もあった。
そんな時、この東屋で隠れるようにして、涙が出そうになるのをひっそりと堪えていたあの日のことを、私は今でも覚えている。
「姫らしくいなさい」
「いつも笑顔を絶やさないで」
「あなたは国の宝なのだから」
そんな言葉が、幼い私には重すぎた。本当は、泣きたい時もあったのに。怒りたい日もあったのに。そんな私自身の身勝手な感情は、誰にも言うことが出来なかった。
だから泣きたくなった時には、誰も来ないこの東屋で、心が落ち着くまで一人静かに涙を堪えて過ごしていたのだ。
「そんな顔もするんですね」
ある日のこと、不意に聞こえた声に、私ははっとして顔を上げた。東屋の入口に、同い年くらいに見える一人の少年が立っていた。
青い髪が光を受けて淡く揺れ、夜のように深い黒い瞳がこちらを見ている。
知らない顔だった。けれど、不思議と目を離せなかった。
「……誰ですか?」
「城下の魔導士の子です。迷っていたら、ここに着きました」
その言い方がどこか気取っていて、少しだけ腹が立った。
「……泣いてるんですか?」
そう問われ、慌てて首を振る。
「泣いてなんて……いません」
「へえ。じゃあ、その顔はどうしたんですか?」
皮肉っぽい声。けれど、目の奥に浮かんだ小さな憂いに気づいて、胸が少しざわめいた。
「あなたなんかに、関係ありません!」
怒りで声を上げたのは、生まれて初めてだった。すると少年は、少しだけ驚いたように目を丸くして、それからふっと笑った。
「なんだ。ちゃんと怒れるじゃないですか、姫様」
泣いていた心が、不思議と温かくなっていくのを感じた。それがノアとの、最初の出会いだった。
その日から、ノアはよくここへ来るようになった。
「魔法の練習にちょうどいいんです」
と言いながら、いつも私の到着を待っていた気がする。
彼はどこか皮肉屋なくせに、誰よりも優しかった。
吹き抜けの東屋は風が通りやすい。冷たい風が吹くと、彼は何も言わずに自分の外套を私の肩にかけてくれた。
でもそれだと彼が寒いだろうと思って、
「一緒に入りますか?」
外套の端を手に取って少し広げながらそう聞くと、彼は驚いて目を見開いた後、顔を真っ赤に染めた。
「馬鹿なこと、言わないでください」
そう言ってそっぽを向いた彼の、初めて見る焦った表情に、私は思わず胸をくすぐられた。
私が重圧に耐えきれなくて、ここに来て泣きそうになる自分をぐっと堪えていた時。
「王女は泣いてはいけないんですよね」
彼が、まるで世間話でも言う様に普段通りの声で聞いてきた。
「ええ、そうです。王女が泣くと、民が不安になりますから。ですから私は、強くなければなりません」
そう言う私に、彼はふっと笑った。
「……でも、ここにいるのは、あなたと俺だけですよ。ここでくらい、自分を許してあげてもいいんじゃないですか」
いつもと変わらないトーンで、そんな事を言ってくれる。
じんわりと、心に染みてくるような優しさに、私は思わず、涙と笑顔が同時に溢れてしまった。
私は知ってしまった。
その無愛想な顔の奥には、誰よりも温かい心があることを。誰かの痛みに気づいてしまうほど、優しすぎる人だということを。
そんな彼と過ごす時間は、私にとって何よりも穏やかで、安らげるものだった。
彼の優しさが、どんな言葉よりも真っ直ぐに胸に届いて、いつしか彼の事を誰より特別に想っている私がいた。
けれど、王女としての立場がある以上、その気持ちを誰にも知られる訳にはいかなかった。それは彼も、同じことで。
だから、私たちはいつも東屋で会った。
ここでだけは、私は“エメラルド姫”ではなく、“ひとりの私”に戻ることができた。
そんな風に、私たちの密やかな関係は続いた。
そして、私たちが十二歳になった頃。
ノアは異例の速さで王国の正式な魔導士となり、私は年若くしてデビュタントを終え、王女としての務めが本格的に始まった。
歳を重ねるにつれて、東屋へ行ける時間も徐々に少なくなり、彼と会う機会も減っていったけれど、それでもあの場所は、いつも私の心の支えだった。
子どもの頃はただ楽しかっただけの時間が、いつの間にか、切なくて息が詰まるほどに恋しい思い出に変わっていった。
公務で彼を見かけることは時々あったけれど、彼は一度も私に話しかけてくる事は無かったし、私から、彼に話しかける事もできなかった。
本当は、彼に触れ、その腕の中に飛び込みたかった。
けれど王女である私は、人目を気にせず会うことも、名前を呼ぶことも許されなかった。
それに誰よりも、それが叶わないことを、私自身が分かっていた。
年を重ねるほどに、彼への想いは深くなる。けれど、近づこうとすればするほど、その距離は残酷に開いていった。
もしも、身分などなかったら。
たった一度だけでも、身分の関係無い世界で、彼の名を呼びたかった。
その想いが、胸の奥で、静かに痛み続けていた。
月日は過ぎ去っていき、私達が十五歳の時。
ついに、勇者カイル・ベインを中心とした勇者パーティーが結成される日が訪れた。
ノアはその仲間の一人として、旅立つことになった。
国中が祈りと期待に包まれる中、私の心だけが静かに凍りついていた。
国のために、彼を笑顔で送り出さなければならない。そう分かっているのに。
もし、彼が二度と帰ってこなかったら……?もし、もう二度と会えなかったら……?
討伐に行く前から考えるのは絶対に間違っているとは思いながらも、最悪の事態が頭を過ぎってしまった。
この秘めた恋心が叶わないのは、悲しくはあるけれどまだ耐えられる。けれど、彼が帰って来れない事態を想像してしまうと、もう、耐えられるはずも無かった。
夜、寝室の窓辺に立ち、月を見上げる。月光が金の髪を照らし、涙をこぼしそうになるのを堪える。
泣かないで、姫らしく。
小さい頃から刷り込まれた言葉が、頭をよぎる。
けれど、胸の中ではもう一人の私が叫んでいた。
ーー行かないで、ノア。
その日の夜。
私は城の警備を抜け、足早に庭園の奥へ向かった。東屋の入り口に立つと、懐かしい風の匂いが胸を撫でた。
あの頃と変わらない。けれど、あの頃よりも、ずっと寂しい。
「……来ると思っていました」
聞こえた低い声に、心臓が跳ねる。
ノアは、東屋の崩れかけた柱に寄りかかっていた。
風が吹き抜け、彼の青い髪が揺れる。その姿を見ただけで、胸が熱くなる。
「……行ってしまうのですね」
「……選ばれてしまったからには、断るわけにはいきませんから」
「……そう……、ですよね」
彼が討伐に行くことを止めることは出来ない。
だからせめて笑顔で見送ろうと、微笑みを作ろうとしたけれど、全くうまくできなかった。胸の奥から涙が込み上げてくるのを、必死で堪える。
私は一度息を吸う。
そして。彼に向かって、声を震わせながらも、決意を込める様に言った。
「ねえ、ノア。王女としては、何よりもこの国に暮らす人々の平和を願って、あなたたちを送り出すのが正しいですよね」
「……ええ。国民の生活を守る事こそ、王族の責務ですね。そして、その為に俺たちは、魔王討伐に選ばれたんです」
「……そうですね。でも、今は、ただのエメラルドとして、あなたに伝えたいです」
その一言に、彼がハッと息を飲むのが分かった。
「……エメラルドは、誰よりもあなたが生きて帰ってくることを願っています。……誰よりも、願っていますから」
絞り出すように言った瞬間、ノアの瞳が柔らかく細められた。その微笑が、痛いほど優しい。
「……俺は、姫の幸せだけを願って戦います。今日もあなたは元気だろうか、幸せだろうか。以前みたいに泣いてはいないか。旅の間、きっと、あなたのことばかり考えてしまうと思います。……そして、あなたの今と、未来を守るために、戦ってきます」
空気が震え、胸の奥が熱くなる。風が頬をなでる。
ノアの言葉はまるで魔法みたいに、私の心の奥に刻まれていった。
「……もう。そんなこと言われたら、送り出したくなくなってしまいます」
「……だったら、ずっと、俺のことを思っていてください。あなたが俺を思い出してくれているんだと思えたら、俺はそれを糧にして、戦うことが出来るから」
そう言ってから、彼は眉をグッと潜めて、苦しそうな顔をした。
「……すみません、やっぱり、今のは忘れてください。……こんなこと、姫に言うべきことじゃない」
私は小さく首を横に振った。
「嫌よ、絶対に忘れない。……私は、ずっとあなたのことを思っているわ」
はっきりとそう言うと、彼が一瞬とても驚いた顔をして、私に一歩近づいた。
足音が静かに石床に響き、距離が縮まる。頬が触れそうなほど近く、息が混じる。
彼の吐息が、かすかに頬を掠めて、全身が震えた。
けれど、ノアは触れなかった。
ただ、その瞳には、焦がれるほどの想いと、抑えきれない決意があった。
「……行ってきます」
それだけ言って、彼は私の横をすり抜けた。
すれ違う瞬間、彼の外套の裾が指先をかすめる。たったそれだけの触れ合いなのに、心が焼けるほど熱くなった。
振り返ると、彼は東屋の出口で立ち止まり、ほんの少しだけこちらを見た。
光の中、青い髪が揺れる。その瞳が、微かに笑ったように見えた。
次の瞬間、彼は背を向け、光の向こうへ歩き出した。
その姿が蔦の影に消えるまで、私は動けなかった。
風が吹き抜ける。蔦が揺れ、古びた石柱の影がゆらめく。私はそっと目を閉じた。
あの頃、泣いていた小さな自分に語りかけるように。
「もう大丈夫。今は、泣かないわ」
だって泣いている私を許してくれる人が、この世にひとり、確かにいるから。彼が帰って来るまでは絶対に泣かない。
遠く離れた空の下で、彼も同じ風を感じているのだと思うだけで、胸が温かくなる。
王女としての私は、今日も国のために祈る。
けれど、“エメラルド”はただひとりの魔導士の帰りを待っている。
「……あなたが無事に帰る日を、何度でも夢に見ます。ノア」
呟いた唇からこぼれた声が、光の粒となって空へ溶けていった。
ーーそして、きっと叶う事はないと諦めていたこの想いは、十年後、魔王討伐を終え、勇者パーティーの全員が無事に帰還した喜びに包まれたその日、勇者カイル・ベインの進言によって、叶うことになる。




