10.食堂での一幕(カイル視点)
主な登場人物
ミラ・リース
十八歳。薄茶の髪と空のような青い瞳を持つ魔道具屋の娘。幼くして父を亡くし、最愛の母も十五歳で亡くし、今は一人で魔道具屋を切り盛りしている。芯の強い優しい性格。
カイル・ベイン
二十歳。黒髪短髪、鋭い金の瞳、鍛えられた体躯の勇者。一度魔王討伐に失敗し、幼児化と昏睡を経験し、その時にミラに命と心を救われ、恋に落ちた。不器用な性格だが、ミラを想う気持ちは誰よりも強い。
勇者パーティーメンバー
リサ:二十六歳。長い黒髪、黒い瞳の、大胆で茶目っ気のある弓使いの女性。髪は後ろで一つに縛っている。
メル:二十四歳。金髪ボブヘア、黄緑の瞳の、真面目で清楚な僧侶の女性。
アーロン:二十八歳。鳶色の髪、焦茶の瞳の、冗談好きで素直な剣士の男性。
ノア:二十五歳。青い髪、漆黒の瞳の、冷静で無口で、意外と仲間思いな魔導士の男性。
昼をとうに過ぎた王城の中庭は、穏やかな風が吹いていた。衛兵たちが交代で昼休憩をとる時間帯も過ぎ、今は静けさが戻りつつある。
俺は、警備の持ち場を離れ、兵舎の食堂で遅めの昼食を取っていた。
王城にはいくつか食堂がある。
侍従や文官は、窓の大きな中庭脇の食堂で昼を取ることが多い。白いテーブルクロスに並ぶ料理は見た目にも華やかで、そこでは礼儀正しい会話と食器の音だけが響く。俺が所属している近衛隊も、そこで食事をとることが許されている。
だが俺は、その落ち着いた雰囲気よりも、兵舎の食堂のざっくばらんな空気の方が性に合っていた。
ここでは、木製の長テーブルが何列も並び、大鍋で煮込まれたスープ、焼き立てのパン、塩気の強い干し肉が並ぶ。
セルフで皿に盛り、好きな席に座って食べるだけ。
誰も格式ばったことは言わない。皆、鎧のまま腰を下ろし、笑いながら食べている。
そういう場所が、落ち着いた。かつて仲間たちと旅の途中で食べた焚き火の食事を、どこか思い出させるからかもしれない。
俺はスープをひと口啜り、まだ少し熱いそれを喉に流し込む。薄味だが、胃にしみる温かさがある。
干し肉を噛み切っていると、カツン、と足音が近づいた。
「お、カイル。お前も遅飯か」
顔を上げると、アーロンがトレーを片手に立っていた。
勇者パーティーのメンバーであり、そして親友でもある男だ。そして今は、共に近衛隊の仕事をする仲間でもある。
鳶色の髪は少し乱れ、焦茶の瞳には穏やかな笑みが浮かんでいる。相変わらずの明るい笑みを浮かべているが、目の下にはうっすらと隈が見えた。昨晩も警備の交代が遅かったらしい。
「よう、アーロン。珍しいな、お前がこの時間に来るのは」
「リサのやつに付き合って訓練してたら、昼を逃した。腹減って死にそうだ」
そう言いながら、アーロンは向かいの席に腰を下ろす。
大皿に山盛りのパンをのせ、スープをなみなみと注いでいるあたり、相変わらず豪快だ。
軽く挨拶を交わし、しばらくは無言で食べた。
スープの湯気と、食器の音。外の風の音が、時折窓から忍び込む。
そんな中で、ふとアーロンが口を開いた。
「なあ、カイル」
「ん?」
「最近、ミラちゃんとはどうよ?」
スプーンを持っていた手が、ピタリと止まった。
「この前、家に行ったんだろ?どうだった」
不意打ちの質問に、思わずゴホッと咳き込んだ。喉に干し肉が引っかかり、慌ててスープを流し込む。アーロンが「おいおい大丈夫かよ」と笑った。
「……お前な、いきなりそういうこと聞くなよ」
「何だよ、親友に報告のひとつくらいしてくれてもいいだろ?」
アーロンはにやにやと笑っている。からかい半分で言っているのは分かっているが、心臓の鼓動が少しだけ早くなるのを感じた。
周囲を見渡す。幸い、この時間帯のせいか、他の兵士の姿はほとんど見当たらない。声を潜めて、小さく返した。
「……楽しかったよ」
それだけを言うのが精一杯だった。
アーロンは少し驚いたように目を瞬かせ、それからふっと柔らかく笑った。
「へえ、素直じゃねぇか。……そうか、良かったな」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
アーロンは昔から、誰かをからかうようでいて、最後は必ず、真っ直ぐな一言をくれる。だからこそ、こいつにはつい本音をこぼしてしまう。
スープの湯気の向こうに、あの日の光景が浮かんだ。
ミラの家。木の扉を開けた瞬間に漂った、懐かしいミラの手作りのスープの香り、あの時の彼女の笑顔。
俺は無意識に、胸元に手をやった。服の下で、彼女を抱きしめた時の感触が、まだそこに残っている気がした。
あの時間は、俺にとって特別だった。
念願だったミラの手料理、あの温かなスープを口にした時、心の底から幸せだと思った。ただのスープだというに、どんなご馳走よりも美味かった。
あの一杯に、彼女の優しさが詰まっていた。
それに…。その後の事は、思い出すだけで少し息が詰まる。
あの日、ミラは俺が彼女を抱きしめることを許してくれた。
抱きしめたミラの体温が温かくて、柔らかくて、小さくて。胸がギュッと締め付けられて、そのままずっと、腕の中に閉じ込めてしまいたくなった。
一番最初に再会した時、強引にキスまで奪ってしまったから、きちんと彼女の許可を得たら、一体どこまで許してもらえるのか不安だった。
正直なところ、ハグすらさせてもらえないかもしれないと思っていたから、今の彼女の反応が、ただ、ものすごく嬉しかった。
やっぱりキスは、まださせてもらえなかったけれど、いつかそれも、彼女から許してもらいたいと、そう思った。
あの日、彼女が褒めてくれた青い宝石が付いたワンポイントピアスは、今も耳に付けている。
これまではピアスなんて、“防御用の魔道具”くらいにしか思っていなかった。だけど、この青いピアスだけは、意味が違って、どうしても身につけていたかった。
晩餐会の時に、ミラが俺の瞳と同じ色のアクセサリーを付けて現れた瞬間、嬉しさと照れくささで、どうしようもなく胸が熱くなった。
晩餐会など関係なく、今後もいつも着けていて欲しいと思ったが、ミラは普段、アクセサリーなんてほとんど付けない。華やかなものよりも、質素で、実用的なものを好む人だ。
だからこそ、せめて俺は彼女の瞳の色のピアスを、普段から身につけておこうと思ったのだ。護符のように、彼女の存在をいつも感じていたかった。
それが、まさかあの食事の席で、ミラに褒められるとは思ってもみなかった。
ーー『そのピアス、晩餐会の時にも思ったけど、とっても似合っているわね。あなたの黒い髪と金色の瞳に、よく映えるわ』
あの時の彼女の笑顔は、今でも鮮明に思い出せる。
けれど彼女は、その青が自分の瞳の色と同じだということには、まだ気づいていない様子だった。
気づいてしまったら、きっと照れてしまうだろう。……いや、下手をすれば、外すように言われるかもしれない。だから、あえて黙っておくことにした。
ただ、彼女の言葉の余韻だけを胸に残して……。
スープをひと口飲んでから、俺は少しだけ考えて、アーロンに声をかけた。
「なあ、アーロン……好きな人を振り向かせるには、どうすればいいんだと思う?」
言ってから、自分で驚いた。普段、こういう話を持ち出すことなんてまずない。
けれど、今の俺には、どうしても知りたい事だった。
どうすればミラにもっと意識されて、好きになってもらえるのだろうか。
すると、アーロンは盛大に咳き込んだ。
「ゴホッ……お前、本当にカイルか……?誰かに化けられてねぇよな……?」
「失礼だな。俺だよ」
「いや、まあ、いいけどよ……。まさかお前の口からそんな言葉が聞けるとは思わなかったぜ。……けど、いいのか?俺なんかに聞いて。俺のはどっちかっていうと“軟派”なやり方だぞ?」
苦笑しながら咳を落ち着かせるアーロンに、俺はしれっと返した。
「いや、お前はそう見えて、ずっと一途だろ、リサに。……確か、幼馴染なんだよな?」
途端にアーロンがぴくりと肩を揺らした。
「は?お、おい、待てカイル!なんでそこでリサの名前が出てくる!?あいつとは……その……、幼馴染ではあるけどな、恋仲じゃねぇよ!ただの腐れ縁ってやつだ!」
焦ったように手を振るアーロンの顔が、ほんのり赤くなっている。
兵舎でも戦場でも滅多に見られない表情に、思わず笑ってしまった。
「……俺にはそうは見えないけどな。それに、少なくとも、お前は好きだろ?」
真っ直ぐに言うと、アーロンは数秒黙り込んだ。
そして、ため息をひとつ吐いて、手で髪をかきあげた。
「……ったく、お前ってやつは。こっちのことはいいんだよ。 ……話を戻すぞ。好きな人を振り向かせたいなら……、まずは贈り物を渡すとか、二人きりで出かけるとかじゃねえか?」
その言葉に、心が少しざわついた。
贈り物ーー、あの時の花束のことを思い出した。
ミラの家に行ったあの日、家に着く前に、王都の花屋で見つけた『帰る場所』という花言葉を持つ花。
昔、ミラが優しい声で話してくれた。
『この花ね、“帰る場所”っていう花言葉があるの』
『私はこの花が好き。だって、帰ってくる人がいるって、幸せなことだから』
その言葉が、ずっと胸の奥に残っていた。
だから、花屋でその花を見つけた時、迷うことなく手に取った。
買う時、店員の女性に「贈る相手は恋人ですか?」と聞かれて、少しだけ戸惑った。
だが、正直に答えた。「まだ恋人じゃないですが……好きな人です」と。すると店員は柔らかく笑って、「では、3本がおすすめですよ。“愛しています”という意味ですから」と教えてくれた。
その瞬間、胸の奥が熱くなった。
“愛しています”。
彼女に贈るなら、その本数が良いと思った。
可愛らしく束ねてもらった三本の花を手に、ミラの家の扉を叩いたあの日。
差し出した時の彼女の驚いた顔と、それが徐々に笑みに変わっていく様子。可愛らしく頬を赤く染めて、お礼と、「本当に嬉しい」と言ってくれた声。
その全てが、今でも脳裏に焼きついていた。
「……贈り物、か」
思わず呟いた俺に、アーロンがにやりと笑う。
「お、何か心当たりある顔してんな?じゃあ次は出かける番だな。どっかミラちゃんが行きたがってる場所とか、ねぇのか?」
どこか挑発するような、心底楽しそうな口調で聞いてきた。
昔、ミラと出かけた場所を思い返す。
あの頃は、薬草を摘みに森へ行ったり、王都の市場に買い出しに行ったり、二人でいろんなところに一緒に行った。森に行った帰りに見晴らしの良い小高い丘に寄ったりしたこともあった。昼は魔物の被害がほぼ無いとはいえ、あまり長居はしなかったが。
けれど、一緒に行った場所で、恋人らしい時間を過ごしたことはなかった。
……二人でどこかに出かけて、恋人らしいことをしてみたい。
そう思ってしまった。
「……そうだな。今度、どこか行きたい場所が無いかを聞いて、そこに誘ってみることにするよ」
そう言って笑うと、アーロンも満足げに頷いた。
「頑張れよ、カイル」
「ありがとな、アーロン」
ほんの一瞬、二人の間に流れた沈黙は、心地よかった。
旅を共にした戦友であり、何でも言い合える親友。アーロンのような男が隣にいることが、俺にとってどれほど心強いか、きっと本人は知らないだろう。
皿に残ったスープを飲み干す。
少し冷めていたが、不思議と味が深く感じた。体の芯に、温もりが広がっていく。
「さて……そろそろ戻るか」
「おう。サボりすぎんなよ」
軽口を交わし、俺は立ち上がった。食器を片づけ、廊下を抜けて警備の持ち場へ向かう。外はもう夕刻に近く、窓の外に射す光が赤く石壁を染めていた。
足音が石畳に響くたびに、心の奥に小さな決意が灯る。
次の休み、ミラを誘ってみよう。
彼女はどんな顔をするだろうか。驚くだろうか、それとも笑ってくれるだろうか。
想像するだけで、胸が高鳴る。
王城の風が、耳元を撫でて通りすぎる。
青い輝きが、光に反射して、一瞬きらりと光った気がした。
まるで、彼女の瞳が俺を見つめ返してくれたように。
次に彼女に会える日が、今からとても待ち遠しかった。




