1.その日、私は一人で生きる決意をした(ミラ視点)
この世界には、魔王がいる。
奴の支配下にある魔族たちは、人の村を襲い、森を焦がし、夜を奪っていった。
何度封印されても、その憎悪は消えず、幾世代を経て蘇り続けてきた。
夜になると、森の向こうから獣の遠吠えや、魔族の笑い声が聞こえることがある。
王都の騎士団は各地の村も守ってくれているけれど、襲撃は突然で、助けが間に合わないこともある。
たから魔族に対抗すべく、私たちは自力で戦い、そして、祈る。どうか、明日も穏やかに日が昇りますようにと。
私の名前は、ミラ・リース。
木々のざわめきに守られた国、シルヴェーヌ王国。そのはずれにある、深い森に抱かれた静かな村で、私は母と二人で暮らしている。
母は魔道具屋を営みながら、ポーションや薬草を扱っていた。
……と言っても、立派な店があるわけじゃない。
魔物の出ない昼間の間に薬草を摘みに森に出向き、乾かした薬草を小瓶に詰めて、そこに魔力を込めて調合し、ポーションを生成して、棚に並べる、そんな小さな手作りの工房。
でも、旅人や近くの村の人たちは「ここの薬は不思議と心まで癒される」と言ってくれる。
それが私たちの誇りであり、生きる支えだった。
父は、私がまだ幼い頃に魔族の襲撃にあい、必死で私たち家族を守ってくれ、そして命を落とした。
その日から、母はずっと、強く、そして優しく生きてきた。
体は弱くても、母はいつも笑っていた。
私が落ち込んでいると、そっと髪を撫でて、あの優しい声で言ってくれるのだ。
「悲しい時こそ、優しい薬を作りなさい。人を助ける力は、剣よりも強いのよ」
私は母の口癖のその言葉を胸に、日々、森で薬草を摘んで、調合し、ポーションを作っていた。
薬草を煮詰める甘い香りと、母の柔らかな笑顔。
それが、私の世界のすべてだった。
貧しくても、笑い声のある日々で、私たちは幸せだった。
それが、ずっと続くと思っていた。
……あの日までは。
十歳の春のこと。風の強い日で、森の木々がざわざわと揺れていた。
私はいつものように薬草を摘みに森の奥へ入っていた。小さな花が咲く斜面のあたりで、何かが倒れる音がした。
「……え?」
心臓がひゅっと縮む。動物かもしれない、でも何かが違う。
私は恐る恐る茂みをかき分けた。
そして、息を呑んだ。
そこには、五歳くらいの、血まみれの少年が倒れていた。
小さな体が泥と血で汚れ、抱えるように握っているのは大人でも重たそうな剣だった。黒い髪は赤黒く染まり、顔は土で覆われていて、その姿は見るだけで胸が締め付けられた。
「たっ、大変っ……!」
私はすぐに駆け寄り、震える手で脈を探した。少年は、かすかに、弱いけれど確かに生きていた。
息をしてる……っ!
私は母の言葉を思い出す。
“悲しい時こそ、優しい薬を作りなさい”
今がその時だ。
咄嗟にそう思い、ポーチから急ぎポーションの材料を取り出し、掌の中に光を集める。
魔法で火を起こし、薬草を潰し、瓶の中に魔力を注ぐ。
焦りで息が乱れそうになるのを必死に抑えながら、私は出来上がったばかりのポーションを少年の唇にそっと流し込んだ。
……お願い!どうか、助かって。
祈るように手を握ると、少年の体がわずかに動いた。
そしてゆっくりと、まぶたが開く。
その瞳を見た瞬間、息が止まった。
糖蜜のような、澄んだ金色。光を失っていた世界に、小さな太陽がともったようだった。
「……生きてる、のか、俺……」
掠れた声。
その言葉を聞いた瞬間、涙が溢れた。
「よかった……! 本当に、よかった……!」
私は泣きながら笑っていた。
少年はぼんやりと私を見つめ、やがて意識を失った。
でも、その胸は確かに上下していた。
私は必死で家まで走った。
気を失った彼は、幼い私の腕ではとても運べる重さではなかったから、家に母を呼びに戻り、二人でどうにか家まで運び込んだ。
自分のベッドに寝かせ、包帯を巻き、火を焚いた。
母は体が弱いのに、一晩中、少年の手を握ってくれていた。
「よく助けてあげたわね、ミラ。……この子、きっと運命に導かれたのよ」
母の言葉の意味は、あの時まだ分からなかった。
でも、なぜか胸の奥が温かくなったのを覚えている。
その夜、少年がうなされて目を覚ました。
私は看病の合間、つい椅子の上で居眠りしてしまっていたけれど、ハッとしてすぐに顔を上げた。
「っ、気がついたのね!」
少年は焦点の定まらない瞳で天井を見上げ、かすれた声をこぼす。
「この世の……地獄の様なところで、……仲間を……みんな、殺された……。俺も、もう、生きてる意味なんか……、ない……」
あまりにも小さな口から出るには重すぎる言葉だった。
胸がぎゅっと締め付けられ、息が詰まる。
「何馬鹿なこと言ってるのっ!?」
気づいたら、声を荒げていた。涙が勝手にこぼれた。
「生きてっ! 生きるの! 意味なんて、これから作ればいいわ! 生きてさえいれば、絶対に見つけられるから!」
自分でもどうしてそんな言葉が出たのか分からなかった。
ただ、あの瞳が完全に光を失うのだけは、嫌だった。
少年は、驚いたように私を見つめた。それから、ゆっくりと、ふっと笑った。
「……こんな俺にも、意味を見つけられるかな……。でも、うん、そうだな。君の言葉、すごく響いた。……ありがとう」
その笑顔が、胸が苦しくなるほどに優しかった。私はただ、彼の手を握って泣いた。
それからの数日は、あっという間に過ぎていった。
少年は、名前をカイル・ベインという。
どうやら私たち親子は信頼できると分かってくれた彼が、おずおずと教えてくれた。
カイルは、それからみるみるうちに元気になっていった。
母の作ったお粥を食べられるようになり、日に日に表情が柔らかくなっていった。
そして、傷が完全に癒えても、村を離れようとはしなかった。
「もう少しだけ、ここに居させてほしい」
そう言って、家事や魔道具の手伝いをしてくれるようになった。
最初は少しぎこちなかったけれど、掃除や配達、薪割りまで何でも器用にこなしてくれた。
いつも黒い革手袋をしていて、それだけは絶対に外さなかった。
理由を聞くと、困ったように笑って「少し、見せられない手なんだ」とだけ言った。
私も母も、深くは聞かなかった。
人には、それぞれ抱えているものがあるから。
小綺麗になったカイルは、見違えるようだった。
黒髪は柔らかく光り、金色の瞳はきらきらと輝いている。
可愛らしくも凛々しい顔立ちで、笑うと子犬みたいに無邪気で、なのに時々ふと、遠くを見つめるような表情をする。
そんなとき、私は胸の奥がきゅっと切なくなった。
彼の背負ってきた痛みは、私なんかには到底分からない。
でも、せめて笑っていてほしい。
その願いだけは、強く胸にあった。
時々、私が薬草採りで失敗して落ち込んでいると、カイルはそっと隣に座って、ぎこちなく笑わせようとしてくれる。
「ミラの作るポーション、すごいよ。飲んだら、心まで軽くなるんだ」
そう言って笑う彼を見ていると、胸の奥がほんのり温かくなる。
出会った時は血まみれで倒れていたあの男の子が、今はこんなにも優しく笑ってくれる。
まるで、冬の森に差し込んだ春の光みたいだと思った。
母は時折、そんな私たちを見て穏やかに微笑んでいた。
「ミラ、あなたがカイルを助けたことには、きっと理由があるのよ」
「理由……?」
「ええ。生きる意味なんて、誰かに与えられるものじゃない。自分で見つけていくものだから。……あなたの心の中にも、彼の心の中にも、きっともう芽生えているはずよ。今はまだ気づいていないだけで」
その言葉の意味を、私はまだ知らなかった。
けれど、もし、自分が誰かの生きる意味になれるなら、それは凄く幸せな事だろうな、とまだ幼いながらに、そんな事を思った。
それからもカイルと一緒に過ごす事がまるで当たり前の様になり、いつしか私は、カイルのことを、本当の弟の様に思う様になっていた。
母が亡くなったのは、私が十五歳になった年の春だった。
外の世界がようやく暖かくなっていく中で、家の中だけが静かに、ゆっくりと色を失っていった。
母の病は、ずっと前から覚悟していた。
それでも、実際にその時が近づくと、胸の奥が冷たく凍りつくようで、呼吸がうまくできなかった。
最後の夜。
母はいつものように穏やかな微笑みを浮かべ、弱々しい手を伸ばして私の頬に触れた。
「ミラ……優しい子。あなたの手は、きっと誰かを救う手になるわ。自分を信じて、生きなさい」
その言葉を聞いた瞬間、涙が溢れた。
母の手はあんなにも温かかったのに、今は骨ばって軽く、すぐに消えてしまいそうだった。
私は必死でその手を握りしめた。
「いやだよ……まだ行かないで。私、もっと頑張るから。お母さんと一緒に、まだ……!」
母はかすかに首を振り、そっと私の手を包み込む。
「大丈夫。……ミラなら、きっと大丈夫」
その優しい声が、今でも耳の奥に残っている。
母は次に、そばで見守っていたカイルに目を向けた。
母に見つめられたカイルは、どこか大人っぽくて、落ち着いた瞳をしていた。
「カイル……ミラのこと、どうかよろしくお願いします」
母がそう言うと、カイルは静かに胸に手を当て、深く頭を垂れた。
まるで騎士が忠誠を誓うような仕草だった。
「……はい。約束します」
その言葉があまりに真っ直ぐで、私は息を詰めた。
母は満足そうに微笑み、そのまま静かに目を閉じた。
葬儀の日、空は泣くように灰色だった。
村の人たちが花を手向けてくれたけれど、何を言われても胸に入ってこなかった。
カイルは一言も発せず、ただ黙って私のそばに立ち、私が崩れそうになるたびに支えてくれた。
夜、葬儀が終わり、私たちは森の外れの坂道を歩いていた。
空には無数の星が散りばめられ、冷たい風が頬を撫でた。
泣きすぎて目が腫れている私に、カイルが小さく微笑んだ。
「ミラ。……俺、君を守るよ」
その言葉は、どこまでも穏やかだった。
「君に初めて会ったあの日、俺は、もう死のうって思ってた。……君が居なかったら、例え傷が癒えてたとしても、多分、死んでたと思う。君がいたから、生きようと思えたんだ。本当に感謝してる。ありがとう。だから、次は俺が君を守るよ」
淡い光に照らされた横顔は、少し寂しげで、けれどとても綺麗だった。
私は何も言えなかった。
ただその言葉を胸に刻みながら、夜空を見上げた。
母の星が、きっとどこかで見ている気がした。
それからの数日、私たちは静かに過ごした。
母がいなくなった家は広く感じたけれど、カイルがいることで少しだけ救われた。
彼は相変わらず無口で、でも黙々と薪を割ったり、店の整理を手伝ったりしてくれた。
私はその背中を見るたびに、ああ、この人がいてくれてよかった、と何度も思った。
きっとこれからも、二人で支え合って生きていくのだと思っていた。
けれど、その朝は、突然に訪れた。
いつもと同じように、朝の光が差し込んで、私は目を覚ました。
けれど、隣の部屋からは何の物音もしなかった。
カイルの声も、薪を割る音も聞こえない。
「カイル? おはよう……?」
呼びかけても返事はなかった。
家の中を探しても、姿はどこにもない。
玄関の靴も消えていた。
机の上に、紙切れが一枚。
そこには、たった一言。
《ごめん》
そう書かれていた。
「……え?」
一瞬、息が止まった。頭が真っ白になって、何度も何度もその文字を読み返した。
「カイル……? どこなの? 嘘でしょ……?」
声が震えて、次の瞬間には涙が零れていた。
家を飛び出し、森へ続く小道を何度も駆けた。
彼がいつも薪を割っていた場所も、川辺も、丘の上も探した。
でも、どこにもいなかった。
風の音だけが、悲しく耳を撫でた。
まるで、彼の声の代わりみたいに。
どうして何も言わずに行ってしまったの?
私はただ、あなたが生きてくれていることが嬉しかったのに。
涙が止まらなかった。
泣きすぎて、声も出なくなって、それでも歩き続けた。
家に戻ると、母の形見である銀色のブローチがなくなっていることに気づいた。
丸い宝石が一粒だけはめ込まれた、小さなブローチ。
高価なものではなかったけれど、母がずっと胸元に付けていた大切な品だった。
それも、なくなっていた。
カイルが持って行ったのだろうか。
なぜ? どうしてそんなことを?
裏切られたような痛みが胸を締めつけた。
でも同時に、不思議と怒りは湧かなかった。
ただ、悲しかった。
いつの間にか大切な弟の様に思っていた彼が、急にいなくなった事実が、どうしようもなく寂しかった。
その夜、私は母のベッドの隣に座り、灯りを消した。
月の光が窓から差し込み、床に淡い影を落としている。
「……お母さん」
小さく呟いた。
涙はもう出なかった。
心の奥が、ぽっかりと空いたまま。
「もう、誰にも頼れない。……ううん、頼らないわ」
静かに、胸の中で誓う。
「私は一人で、生き抜いていかなくちゃね」
その言葉を口にした瞬間、ようやく息ができた気がした。
震える手を握りしめ、目を閉じる。
それでも、心のどこかで、願っていた。
もしいつか、あの森の小道で、再び、まるで弟の様に思っていた大切な彼と出会えるのなら。
その時は、もう一度だけ笑って、「おかえり」と言いたい、そう思った。
見つけてくださり、お読みいただき、誠にありがとうございます!
本作は、以前より書きたいと考えていた、ファンタジー恋愛小説です。
切ない始まり方ですが、ハッピーエンドです!
引き続き、二人の恋の行方を応援していただけますと嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします!
陽ノ下 咲




