第09話「焦燥、疑念」
「『は行』が……ないんですか?」
不審そうに言う美月さんはファイルを覗き込み、食い入るように確認すると「本当だ……」とこぼし眉をひそめた。僕はわけもわからず、そんな彼女に問う。
「人口も少ないし、たまたま『は行』の人がいないとか……?」
「うーん……知ってる限りでも福本さん、堀川さん、まだまだいます。『は行』の苗字って珍しくないですもん」
「そうなんだ……それにこの棚は長年の患者が詰まってるわけだしな……。ちなみに俺も『は行』だね」
「早瀬さんは部外者ですけどね」
「部外者って言い方なんとかならない?(笑)」
「でもまあ、村人に限らず、来訪者がここにお世話になることもあったでしょうね」
「……ただの紛失かな?」
「さあ……」
互いに首をかしげる。静寂な空間とホコリの匂いがやけに不安を助長させた。
妙なことが起きると全て疑って考えてしまう。自分を落ち着けるよう「偶然かな……」と小さく言い聞かせ、肺いっぱいに吸った空気を、細く、長く吐き出した。掴む指先にはまだ必要以上の力が入ったまま、ゆっくりとファイルを閉じた。
これがもし今回の事態に関係があると仮定すれば、明らかに何かを知る人が工作をしていることになる。まるで見えない敵がいるようで、沸々と熱いものが腹の中をぐるぐる回る感覚を覚えた。
美月さんは「考えてもわかりません。一旦、忘れておきましょう」と言い、ファイルを僕から手に取り、棚へ戻した。
「とりあえず……出ようか」という僕の言葉を皮切りに彼女は頷き、即座に書庫を閉め、先生のデスクに向かい鍵を戻した。そして処置室のドアを開け廊下に出た瞬間ーー。
「ザッザッ」という砂利を踏む音が聞こえた。音がする方向は、我々が通ってきた裏口へ向かう砂利道。裏口側の先には道などなく、診療所に入る以外にあり得ないルートだ。
「(やばい……!)」
音を聞いた我々は、瞬時に顔を見合わせ、急いで処置室に戻り、音が出ぬよう静かにドアを閉めた。一体誰だ……いや、誰であったとしてもバレてはまずい。砂利を踏む音が裏口に近づく短い間に、脳内は高速回転していた。
「(取材で美月さんに中を見せてもらったと言う!?いや無理がある!取材するのであれば通常の診療日だろう!とりあえずカルテファイルは元に戻して書庫の鍵もかけた。見たことまではバレないのが幸いか?いやしかし、バレて村人に広まったら行動しづらくなる。……万事休すか……!)」
我々は互いにフリーズしていたが、彼女は焦る中僕の腕を掴み、奥のベッド脇に引き連れ、しゃがんだ。ベッドを仕切る白いカーテンの内側だ。処置室には廊下から覗ける窓がある。我々の影がどう映るか想像できないが、二人の大人が隠れる場所は、この小さい診療所には他になかったーー。
我々は焦りを無理やり押し込むように、息遣いを少しずつ落ち着かせた。外の音が廊下まで聞こえるのだから、小さな音を出すのも危ない。
やがて足音は止まり、ガチャと音がした。鍵穴の音だ。そして一瞬間が空き、裏口のドアが開く音が聞こえる。今の間はおそらく、鍵が開いていることに対する不信感だろう。廊下を歩き出す靴音と、床が軋む音。さらに小さい声が聞こえた。
「また閉め忘れてた……」
女性の独り言だ。靴音はそのまま処置室を通り過ぎ、診察室のドアを開け入るのがわかった。
息を殺す僕。まだ安心などできない。すると美月さんは僕の肩をトントンと叩き、モバイルの画面をそっと僕に見せた。メモアプリだ。そこには「『看護師 西原』」と書かれている。僕は、隙を見て処置室から廊下に出て脱出する選択肢も考慮した。そのことを伝えるために自分もパンツのポケットに手を入れ、モバイルを出そうとしたがーー。
姿勢をずらしたせいか、逆のポケットから例の石が落ち、小さくだが「コトッ」という音を出してしまった。僕は血の気が引き、身体が硬直した。美月さんに腕を掴まれ反射的に見たその顔は、眉間にシワが寄り、唇を噛みしめ何かを訴えていた。
診察室から繋がる受付のあたりから「よし」と聞こえると、西原氏はまた診察室を通り廊下へ戻ったようだ。幸い気付かれなかったようだが、我々の心情に反してゆったり落ち着いた足音の速度は、僕らの祈りを焦らした。
「(早く行ってくれ……!)」
願いは汗となりタラリと顎まで流れ、手でぬぐった。
遠くで「きい」「ばたっ」と鳴った。その後鍵を閉めるためかカチャカチャと軽い音がし、やがて気配が消えたーー。
「……し、死ぬかと思った」
「私もです……心臓バクバクです」
僕らは立ち上がった。まるで一気に年老いたように身体が重い。勇敢な彼女も、肩をすぼめて自分の腕をさすっている。こう見るとあくまで普通の人間なのだと思える。
「……西原さんって、よく忘れ物をするんですよ」
と言った彼女は勢いをなくした足取りで受付裏を確認する。
「やっぱり。西原さんのデスクの上にあった小物入れが無くなってます」
「忘れ物が多い……まさか?」
「いえ、昔からなので、例の影響じゃなくてただの性格です……(笑)。鍵もよく閉め忘れるんですよ」
だから裏口が開いていることにあまり戸惑わなかったのか。改めて平和な村の緩さを体感し複雑な気分だ。
「セキュリティ意識の低さに助けられたってわけだ……(笑)」
「ええ、私たちは運が良かっただけ……」
「見つかったらどうなってたかな」
「私一人なら隠れないで言いくるめる事も出来ましたけど、早瀬さんもいるとなると言い訳が思いつきませんね」
「ま、まあ、終わったことはいいか、さっさとここを出よう」
「はい。あとその石、今度落としたら私が没収しますから」
「ご、ごめんって……!」
ーー周りを警戒しつつ、慎重に村田診療所を後にした。今日も晴天。
我々は中央広場までたどり着き、診療所で見た数々の情報を思い返しながら歩いていた。収穫は確かにあった。医療カルテに残る痕跡。わかったこともあったが、同時にわからないことも残したままだ。
それぞれに原因がひとつとは限らない。しかし、一連の体験を鑑みると、僕はどうしても共通したものを追っている気がしてならないのだ。大づかみな表現だが、この村に「人の認識を外側から揺らす何かがある」と考えれば、一応筋は通る。頭痛に関しては、脳へ干渉した副作用のようなものかもしれないと推測する。しかしそのような「何か」はどのような実態なのか。考えていると、一瞬ズキッと頭痛がしたーー。
僕が「やっぱり、予定通り村長と話そうか」と言うと美月さんは「はい」と歯切れの良い返事をした。キリっとした顔になり、どうやら気力を取り戻しているよう。一区切り、空気を変えようと僕は立ち止まり、明るく語り掛けた。
「ところでこの中央広場って、ちょうど村の中心なんだよね。色々見渡せるし良い場所だよね」
彼女は答える。
「え、ええ。住宅はバラついてますが、どこへ行くにもここを通る人は多いですね。掲示板もありますし」
周りを見渡すと、ちらほらと歩いている人も見える。ちらちらと目線も感じるが、部外者である僕と美月さんが一緒に歩いているのは確かに気になるか。すると段々、彼女が焦りを見せ「とにかく、行きましょうか」と、足早に歩き出した。僕はその様子に些細な違和感を覚えたが、「お、おう」と中央広場を離れたーー。
午前11時30分、遠山村長宅前。ここに来るのは三度目だ。
呼び鈴を鳴らすと、少し待って奥さんがドアを開けた。
「急にすみません、早瀬です。約束はしていないのですが、村長さんにお話がありまして……」
「どうも、川原です」と美月さんも続けて挨拶した。
「あ、どうもどうも。少々お待ちくださいね。夫はいま来客中で打ち合わせしておりまして。丁度終わったようなので伝えてきます、こちらで少々お待ちください」
奥さんは、美月さん曰くよく出来た方で「遠山 ****明子」という名だそう。綺麗な和服を装い、いつも穏やかな印象だ。玄関の中まで我々を通し、すぐに家の奥の方にある部屋へ歩いて行った。
「打ち合わせ中だったか……確かに声が聞こえるね」
足元を見ると、草履、革靴など、確かに靴が多く並べられている。
「たまに村の上の人たちが集まって会議してるみたいですよ。定例だったり、あとは大体祭りが近づくと増えるみたいです」
と美月さんは答えた。
やがて村長が奥の部屋から顔を出し、綺麗に手入れされた和服でやってきた。
「おお、早瀬さん、川原さんも、どうされましたかな?」
「アポ無しで申し訳ありません、少々ご報告と、お話がありまして」
「ええ大丈夫ですよ。ちょうど打ち合わせが終わって、皆さんあとは気のまま話してお帰りになるだけなので。こちらへどうぞ」
「お疲れのところすみません、お邪魔します」
我々は前回と同じ部屋に案内された。
三人で座布団に座りながら、僕は雑談混じりに問いかけてみる。
「朝からずっとお打ち合わせですか?」
「ええ、まあ。目が覚めてからすぐ来客の準備でした、まあ慣れておりますがね」
「ちなみになんのお打合せで?」
「ああ、次の『三峰祭』の打ち合わせです。今年は『守恩祭』がありましたが、年に一度の三峰祭も変わらず行うのです。祭りの関係者が集まって日取りやら何やら検討しておりましてな」
美月さんが言う。
「三峰祭はいつも夏始めだけど、今年はズレるんですよね」
村長は微笑みながら頷き、彼女へ返した。
「そういえばあなたが来るのも珍しい。元気でやってるかな?」
「は、はい。おかげさまで……」
と笑顔ながらも少し気まずそうな声で返事した。特に親しい間柄ではないのだろうか。そういえば美月さん、村長がたまに怖く感じると言っていたな……。
「早瀬さんの取材のお手伝いをしてるのかい?」
「はい、たまたまお見かけして話したのがきっかけで、ご案内を」
ここで少し切り出してみた。
「美月さんがいてくれて助かっています。今朝は片桐さんの家に一緒にお邪魔して、三人で色々お話していました」
「ほう、それはそれは。村に馴染んでいただけて何よりでございますな」
「ええ。その足で美月さんの職場の診療所も案内してもらいました。外から見るだけでも年季を感じる建物ですよね。三ツ峰村を支えてきたのがよくわかります」
「この村の医療は長年『村田診療所』が支えておりますからな。高齢者も多いので助かっております。ちなみに待合室のあの振り子時計は、私の父からの贈り物らしいです」
「へえ!そうなんですねーー」
その後少しの雑談を経て、途中で明子さんが出してくれたお茶を一口飲み、僕は本題に入った。
「それで、実は昨夜ですね……」
ーー片桐さんとの一部始終、推測を省き事実のみを話した。包丁を持って廊下にいた説明の瞬間はさすがの村長も驚き、やがておろおろとした表情と相槌に変わっていった。僕は問題にするつもりがなく、本人も自覚がなく反省している旨も添えた。村長は温厚な笑みがすっかり消え、詰まりつつも言葉を落とした。
「そ、それは……村の者が大変申し訳ない……危険な目にあわれて、謝って済むことでもございません、なんと申し上げたらよろしいか……!」
深々と頭を下げる村長。僕は手を差し出し頭を上げるよう促した。
「いえ、本当に大丈夫です。片桐さんは朦朧としていて殺意が無いのは明らかでしたから。実際被害もなかったですし」
「かたじけない……。村長として彼としっかり話をします。しかしあの元気な片桐君が……。実はですな、昨夜彼を見たのです」
「えっ?」
「散歩をしておりましてな。遠くで彼がふらふらと歩いているのが見えたのです。そのまま集会所に入っていったので用事かと思っていたのですが……まさか中でそんなことが起こっていたとは」
「……夜に散歩ですか?」
「半分は趣味ですが、火の用心とちょっとした見回りも兼ねた日課でして。夜は村全体が見渡せませんからな。全ては無理ですが、自分で確かめないとどうも落ち着かない性分でして」
「……なるほど。その時、片桐さんの手元は見えましたか?」
「いえ、あのあたりはほとんど暗がりでしょう。彼の家から出てきたので、本人だろうと思うのがやっとでした。まさか、凶器を持って放浪していたとは……。止められず申し訳ない」
村長の話は一応筋が通っており、疑う余地はなかった。何より、本当に申し訳なさそうな顔をしている。
僕は横目で美月さんと目が合い、彼女は少し頷く。そして彼女は真剣な眼差しで切り出した。
「村長。勝おじさんは私も親しいんですが、知る限り認知症などの兆候はなかったです。彼の行動は明らかに奇妙ですよね」
「私もびっくりしてるよ、とても信じられん。意思にない行動というのも、どう飲み込めば良いか……」
「私は診療所にいてわかるんですけど、最近妙に感じることが多いんです。勝おじさんも頭痛があると訴えましたが、同じように頭痛や倦怠感のある患者が増えてて、言動に違和感がある人も何人か見たんです」
村長は腕を組み、眉をひそめ考え込んだ。
「頭痛……そういえば、前に村田先生がそんなことを言っておったな。ただの流行り病だと思っていたが。しかし言動の違和感とは……ここは高齢者が多いから、そういうことも多少あるのではないかな?」
予想していた通りの現実的な感想だ。僕はカルテを見た事がバレないようにこう言った。
「美月さんが今言った『最近増えた』という言葉、気になりますね。村長さんは村の方を見ていて何か心当たりないですか?」
すると村長は、姿勢と表情は崩さないままだが、僕には少し目が泳いだようにも見えた。
「い、いや……村の者を見ていてそのように感じることは、ないですな……」
気のせいか、なんだか煮え切らない反応だ。
「そうですか」と返事したはいいものの、僕から問題視して欲しいと頼むわけにもいかず、どう展開すべきか迷っていた。前から村長に対しては、はっきりと掴めないが違和感を覚えている。今日の会話だけでも少しだけ気になる点がある、少し探ってみるか……?
すると、遠くから声がした。
「『神寄』……」
「!?」
我々は飛び上がるが如く、声がする方向を見た。襖がゆっくり開く途中だった。そして現れたのは、白衣を羽織った切れ長な目の老人。この人は確か……。
「お、おお、宮地殿」
と村長。そして美月さんは僕に語りかけた。
「神主の、宮地 泰然さんです」




