第06話「満月の夜と卵焼き」/第一章 終
僕は彼の包丁を見て、例のクワ男をまず連想した。
一瞬で冷や汗をかきながらも必死で冷静を保ち、見定めた。包丁の先はうろうろと動き、方向が定まらず、彼の右手は柄を雑に鷲づかみしている。殺意剥き出しで構えているのではなく、全身の力が抜けたような動きが、かえって不気味さを助長していた。
「(まさか、クワ男も片桐さんか……!?いや待て待て、それよりも今をなんとかしなければ)」
距離はまだ少し遠い。襲いかかってきたら、対抗できるか……?こちらに武器は、無い。剣道の経験から間合いは測れるが、さすがに刃物に対して丸腰は無謀だ。二人だけだし、すぐにでも逃げた方が良いに決まっている。
この油断のならない一瞬で、脳内は走馬灯のように駆け巡る。これまで散々不可解な出来事を見聞きしたものの、それがどこか物語めいていて、僕は記事を読むかのように一歩外から見ていたのだろう。
―――しかし今、直接的な危機を感じ、現実感が全身を走った。三ツ峰村には何かある。僕はどえらいことに巻き込まれているのだ。
片桐さんは、焦点が合わない中僕の顔を見ているような仕草。瞬きも少なく、フラフラと少しずつ摺り足で近づいてくる。タラリと汗が顎を伝い、今にも地面に落ちそうだ。
すると彼は小さく言葉を発した。
「……きょ、今日も……卵……焼き……」
意味不明だ……。明らかに彼は正常ではないと再認識できた。ただ僕は、逃げるが最善と思いつつも、少しでも情報が欲しいのか、直感か、彼に呼びかけることを選んだ。
「片桐さん?」
返事はない。刃は鈍く光り続ける。嫌な想像がいろいろと渦巻くが、見る限り血が付いていたりはしていない。
「片桐さん……片桐さん!!」
何度目かの呼びかけに、彼は初めて顔を反射的にビクンと動かし、足を止めた。目を開いたまま茫然としている。
「……っ……?」
言葉が詰まっているが、少しずつ正気を取り戻していくように思えた。不明な点が多すぎるためまだ油断はできない。僕は近づかず、膝を少し落とし、身構え続けた。
「あ……あぁ……え……」
かすれた声。意味はほどけ、言葉だけが残る。
「片桐さん!僕です。早瀬です」
距離はそのままに、息だけが行き来する。やがて彼は言った。
「……え、わ、私は、なぜここに———」
彼は呆気にとられた表情のまま自分の手に目が留まり、刃先を下げ、脱力するよう床に落とす。金属が床に触れ、かち、と鳴った。そこにやっと、彼の目に生気が戻る。刃物が離れたことで僕は少し安堵できた。
「片桐さん、何をしていたんですか?」
すると彼は、状況が俯瞰できたのか「あぁ!」と驚き、申し訳なさそうな顔で困惑している。
「早瀬さん……!わ、私はいったい何を……。すみません!包丁なんて持って、私も何が何だか……」
その声は、いつもの片桐さんのトーンだった。
「片桐さん、落ち着いてください。私は大丈夫です。一旦、家に帰りましょう」
僕はゆっくり近づき、彼の肩にそっと手を置くや否や、一瞬で包丁を回収した。もし彼がクワ男ならば、あの時の印象だととても攻撃的に見えたからだ。
少しフラつく彼を支えながら階段を降り、入り口を開けて向かいの家へ同行した。その間も彼はしきりに「すみません」と言っていたが、状況が自分でもわからないためか、口数は少なく混乱していた。
片桐宅は平屋で、玄関から入ると古き良き和の内観。すぐ右側の戸が開いており、四角く大きめのテーブルやテレビ。おそらく居間で、さらに奥には台所も見えるが、いずれも電気は点いたままだった。
向かいの部屋が寝室だったため、敷いてあった布団に彼を運んだ。彼は布団の上で横にはならず、胡坐をかいて弱々しい一息をついた。背中は丸い。
「も、もう大丈夫です……早瀬さん、ありがとうございます」
「片桐さん。気分はどうですか?」
「頭痛が少し……でもマシになりました。あとは視界がふわついていますが、意識はしっかりしています……本当、怖がらせてすみません……」
「い、いえ、大丈夫です。それより直球で聞きます。こういうの、初めてですか。持病は?」
僕は焦っていた。彼と関係はないかもしれないが、これまでの事象の数々を思い出し、なんとか情報の糸口を得たかった。大丈夫とは言ったものの、危険だったのは違いない。遠慮などしていられなかった。
「い、いえ……初めてで、病気もないです。頭痛や体の衰えはありますが、年相応かと。認知症などもない……はずです。医者にも特に言われたことは」
「そうですか……。廊下の状況、どこからどこまで覚えていますか?」
「料理を作ろうと思って台所に立ったところ、頭痛が少しひどくなりまして。段々気持ちも落ちていくような感じで……不思議な話なのですが、そこからよくわからないのです。夢の中でさまよっているような……気が付いたら、早瀬さんの声が聞こえてきました」
包丁を持ち、家を出て、わざわざ集会所の二階まで登ったのに自覚がないということだ。僕が見たままに、あの時は異常だったのだ。
「夢の中?意識はあったのですか?」
「今思えば、暗い部屋にいるような、でも自分が何をしているかはわからない、妙な感覚でした。なんといいましょうか、泥酔している時にも近いような」
完全に無だったわけではない。意識はあるけど、何が何だかわかっていない?うまく言語化できない感覚のようだ。やはり薬物が浮かぶが……美月さんの話は信用できないのか?
僕は眉をひそめながらも、弱々しい彼にとりあえず続けるしかなかった。
「そ、その感覚になる前、何か気になる点はありませんでしたか?」
「気になる……あ、あぁ……うーん…」
何かを思い出すような反応をする片桐さん。しかし話しづらそうな顔をしている。
「片桐さん、良ければ話してみてください。何がヒントになるかわかりませんから」
「わかりました……。その時ずっと、息子のことを考えていたんです」
「息子さんがいらっしゃるんですか?」
———聞くところによると、彼には妻と一人息子がおり、妻は今用事で実家に戻っているが、この家で共に暮らしている。しかし息子は九年前にこの村を出て行ったっきり、連絡も取っていないらしい。
「私は昔料理人でしてね、小さい和食屋を。店はもう畳みましたが、かつては息子に継いで欲しくて、少しずつ教え始めました。しかし段々厳しく当たることも多くなって……。私が愚かだったんです。反発されるようになっても、ただの駄々だと一蹴して、話もまともに聞いてやらんかった」
「そ、それは……確かに、穏やかではないですね」
「店の切り盛りに多忙で家庭が見えず……というのも今となっては言い訳にもなりません。あいつのやりたいことにも気づいてやれず、どんどん会話も減り、やがて喧嘩の毎日。妻の唯一の仲裁に、声を荒げたこともありました……何も解決せぬまま、息子はある日書置きをして家を出たんです」
僕の知る片桐さんの大らかな性格の裏には、抑え込んだコンプレックスがあった。この手の親子話は現代でも珍しくはないが、当人からすればやりきれないだろう。
「あの……『卵焼き』ってワードに思い当たる節は?あなたが呟いていたんです」
そう聞くと彼は目を大きく開きこちらを向いた。
「卵焼き!そんなことまで……」
「心当たり、あるんですね?」
「ええ……。息子は小さい頃、私の作る卵焼きが好きでして。少し甘めで、巻き終わりに焼き目があるのが好みらしく、夕飯はいつも妻が作るのですが『卵焼きは父ちゃんのがいい』としょっちゅうねだっておりました。思春期に入って照れ臭い時期になっても、卵焼きだけはバクバク食べているのが可愛くてね……。あいつが大人になって仲が悪くなる前の話ですが」
少し顔を上げ、目の先にかつての思い出があるかのように、穏やかな目で語っている。
「なるほど。あ、卵焼き……そういえば?」
「早瀬さんへの料理にもありましたでしょう」
「はい」
「息子はいま……あなたと同じぐらいの歳です。お恥ずかしい話ですが、外から来たあなたを見たら、つい作りたくなってしまいまして。まるで、帰ってきたようで……はは、そんなわけないのに。勝手に重ねてしまって迷惑な話ですな」
「……いえ。美味しかったですよ、とても」
と言うと、片桐さんはお礼を返すも複雑な表情で俯いた。
僕は続けた。
「それで、今日も息子さんのことを考えて、落ち込んでいたと」
「最近、よく浮かぶんです」
「最近……?」
「はい。もちろん我が子ですから、忘れることなどありません。しかし、反省し心に折り合いを付けながら、もう何年も暮らしているわけです。老化なのでしょうか、最近になって、鮮明に思い出して仕方ないことが多く……」
「……勝手に浮かんでしまうんですか?」
「さきほども、い、今でも、目を閉じれば姿が映るような……食卓を囲んで卵焼きを食べる顔と、怒りに震えた顔が交互に現れて、こうなると頭から離れてくれず……うぅ……っ」
彼は糸が切れたように、肩をさらに丸くし、涙を流した。
我が子に謝るどころか話をする機会もなく、後悔をぶつける先もないんだ。僕にはわかる。彼に嘘はひとつもない。目の前で落ちていく涙が胸に刺さる。
少し沈黙が流れた。僕は彼の悲愴な顔を見て、かける言葉が見つからなかった。家庭にはそれぞれに複雑な事情が入り混じる。当人にしかわからないものがある。外野からの気休めの言葉など、ナンセンスだ。
疲労と感情の波が重なったのか、やがて彼がグッタリし始めたのを察し、横になるよう促した。そして僕はそっと部屋を出て、ゆっくり戸を閉じた。
彼には悪いと思いながらも、台所や庭など、家の中をザっと観察した。念のためクワが無いかを確かめたかったのだ。少なくともこの家には見当たらない。よくよく考えると、クワ男は村の中心方向からこちらに向かってきていた。片桐さんはテレビを見ながらウトウト寝ていたとも言っていたし、時間も遅く、確かに彼だとしたら動線が不自然ではある。
———外は昨夜と同じく、いつもの静寂な闇の中。木の葉が揺れる音と虫の声だけが小さく鳴る中、僕は部屋に戻った。机の前に座った途端、全身が重さを取り戻し、大きくため息をついた。
「はぁ……今日は特に疲れた」
手帳を一旦開いたが、整理しようにも、できるわけがない。要約していえば、心がすり減っておかしくなった人としか言えない。気になるとすれば、「最近になって鮮明に」という言葉。勝手に浮かんで仕方ないというニュアンスだった。誰しも心の波があって当然だが、負の感情が何かのせいで助長されているともいえる。その「何か」はわからない……ともあれ、彼はあのような挙動に出たのだ。普通ではない。
僕は報告も兼ねて美月さんへ電話をかけた。時間もそんなに遅くないからセーフだろう。何より、早く誰かに話したかった。
「はい、川原です」
「早瀬です。夜分にすみません。実はあれからまた変なことが起こりまして」
「えっ、どうしました?」
「簡単にいえば、俺が泊まってる部屋の廊下で、包丁を持って錯乱した片桐さんと遭遇したって話なんですが……」
「ええっ!あの片桐さんが?いや、変なことってレベルじゃないでしょう。無事ですか?今はどういう状況?」
簡単にまとめたら確かにインパクトだけが強い話で、無駄に慌てさせてしまった。
「あ、ああ、すみません、無事です。襲ってきたわけじゃなく、殺意も感じませんでした。意識混濁で徘徊してたような感じです。今片桐さんは自宅でお休みになってます」
「もっと詳しく聞かせてください」
———僕は廊下での対峙から彼の家で運ぶまでの流れを説明する。すると彼女は真剣な声で返した。
「大変でしたね……。徘徊って、わざわざあなたの部屋の近くまでですか?集会所の階段を上がって二階ですよね。意思もなくそんなところまで行くでしょうか?」
「確かに、ただ、わけがわからない状態の人の動きですから、簡単に想像を超えてきそうな気はします」
「まぁ……。とにかく、心配です。今からそちらへ行きましょうか?」
と言う美月さん。見た目に反して勇敢過ぎる。
「いやいや、もう遅いですし、暗くて危ないですよ。偶然だけど包丁を返しそびれて手に入れたままなので、大丈夫でしょう(笑)」
「はぁ。早瀬さんが徘徊しないことを祈ります(笑)。ところで、正気になった片桐さんに聞き取りはしましたか?」
「ええ。プライベートな話もありましたが、こんな状況だし、彼には悪いですが共有します」
僕は続けて、片桐さんから聞いた話を、事細かに話した。話し終えると、美月さんは電話越しにしばらく黙り込んだ。
「……えーっと、み、美月さん?」
「あっ、は、はい。いや、気になることが多すぎて」
「例えば?」
「もしかすると。料理をしようとしていた点と、早瀬さんの部屋に向かった事実でいえば、意識混濁している最中、あなたを息子さんだと思い込んだとか?卵焼きを食べさせようとしたんじゃないでしょうか。実際作ってはないですが、彼の気持ちだけを集めたらそういう行動に思えます」
「気持ちの断片だけが言動になっている……確かに、納得はできます。しかし健康でまともな方が急にそんな……」
「そうですね、普通に考えれば確かにあり得ませんね。ただ早瀬さんは実際目の前で見てどう考えたんですか?」
「身の危険は肌で感じましたけど、元々正常な人だからこそ理解できませんよ。まるで操られているような、なんか、心霊現象のようでしたから。
実際片桐さんも、その間意識が無くなってはいない、けど何をしているか把握できないような、妙な感覚と言ってましたから」
「……その感覚についてなんですが……実は私、さっきから驚いてて」
彼女の声が急にか細くなった。
「は、はい?」
「私も、以前頭痛がひどい時期があったって言ったじゃないですか」
「言ってましたね。今はすっかり良くなったとかで」
「表現しづらくてなかなか言えなかったんですが……実は私もその時期、片桐さんと似た感覚になった時が何度もあって」
「えっ、というと?」
「嫌な思い出が、しょっちゅう頭を駆け巡るんです。無理矢理見せつけられてるみたいな。そのせいで気が滅入って、気付いたら内へ内へ入り込んで、ハッと我に返るみたいなことが何度か。片桐さんの話を聞いたとき、その感覚を思い出したんです……」
今までバラついていた事象に、初めて共通要素が顔を出した。病気でないとすれば、なんとなく、どこか作為的なものを感じる。
「クワ男」「呆ける老人」「会話がおかしい人」「ジョウロおばさん」。そもそも人が通常でなくなるという点で全て一致しているではないか。
傍から見ると、偶然の産物と片付けても仕方ないかもしれない。だが納得できる説明を求める前に、僕は自分とこの村に危機が訪れているような気がしてならなかった。ただの妙ちくりんな話ならともかく、共通する「何か」は、事実として片桐さんと美月さんを苦しめたのだ。放っておけば、誰かがまた同じ目に遭う。他人を傷つけるかもしれない。
少しのイラつきと、ある種の開き直り、職業魂や謎の使命感など様々な感情が混じり合い、それらは冷静さと覚悟を作った———。
電話を片手にゆっくり立ち上がり、窓と網戸を開けた。誘われるように見たのは、暗黒の中に浮かぶ満月。その外輪は……やはり少し揺らいでいるように見えた。もはや驚く気力もない。あらゆる謎にも、ポケットの中の石にも、あの月にも、まだ手は届かない。
まっすぐ月を見たまま、僕は静かに言葉を落とした。
「美月さん」
「は、はい?」
「歪んでますね、景色」
「え……?あ、え?」
「俺が解明してみせます」
---
第一章「静かな違和感」 完




