094港街ジルバ
空の彼方に広がる、どこまでも蒼い大海原――
その壮麗な景色が、ゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。
空の定期便に揺られながら、アルジェ、シルビア、フェリの三人は、感動に満ちた面持ちでそれを眺めていた。
「うわぁ、おっきい……これが、うみ…?」
初めて目にする果てしない水平線に、フェリが小さく呟く。
彼らが自由都市フリージアを旅立ってから、すでに三週間が経過していた。
黒竜であればもっと早く到着していただろうが、定期便を利用したとしてもこの距離を三週間で辿り着けたのは充分すぎる成果だった。
馬車で直行すれば、ゆうに二ヶ月はかかる旅程である。
着陸と同時に、燃料切れ寸前のカルラがよろよろと降下してくる。
「……う、海風が染みる……何故、私だけ……」
力尽きたように呟きながら、彼女はその場に倒れ込んだ。
アルジェは苦笑しながら彼女を気遣い、
「休んでろ。宿の手配、頼んだぞ」と優しく声をかける。
もはや反論する元気もないらしく、カルラは素直に頷いた。
港街ジルバ。
海岸沿いに並ぶ白壁の建物、潮の香りを運ぶ風、見慣れぬ樹木と花々が、内陸とは異なる文化と空気を彼らに感じさせる。
宿の手配をカルラに任せた一行は、その足で冒険者ギルドへと向かった。
「はぁぁ……」
シルビアとフェリは、ギルドに着いた後もなお、異国の空気に胸をときめかせている様子だった。
目に映るすべてが新鮮で、陽光に照らされた街並みさえ、まるで絵画のように美しい。
だが――アルジェだけは、街を歩くうちに、どこか違和感を覚えていた。
陽光に照らされていても、街にはどこか影があった。
人々の表情に、わずかながら沈んだ色が浮かんでいる。
ギルドに入ってからもそれは変わらず、昼過ぎという時間にも関わらず、人は多いのに妙な静けさが漂っていた。
(……何かあったのか?)
不穏な空気を感じながら、アルジェはカウンターへと向かう。
「ヘイ! クールボーイ!」
突如、陽気な声が飛んだ。
現れたのは、スカイブルーのアロハシャツを着て、金髪をなびかせる筋骨隆々の中年男。
こんがりと焼けた肌に爽やかな笑顔を浮かべたその男は、両腕を広げて自己紹介を始めた。
「私はギルドマスター、ジョルジオ・カリビアン! 以後、お見知りおきを~!」
テンションが明らかにおかしい。
「……初めて見る顔ですネ? さては、フェスティバルの仕事を狙って来たのデショ?」
「いや、俺達は船を……」
「あーっと! ソーリー、ボーイ!」
ジョルジオはアルジェの話を食い気味に遮ると、急に深刻な表情を作って嘆きはじめた。
「実は今、フェスティバル開催が超ピンチな状況なんデース……シット!」
彼が顎で指した先には、項垂れたまま沈黙している冒険者たちの姿があった。
(やっぱり面倒事か……)
嫌な予感が脳裏をかすめる中、ジョルジオは畳み掛けるように説明を続けた。
「数日前、テンタクルを持つビッグな野良獣魔が海に現れてネー、
次々と漁船や交易船を襲い始めたんデス。しかーも、有能な冒険者たちは不在中!
残された連中をリクルートメントしたものの、実物を見て全員ビビってパニックー!」
やれやれと言わんばかりに肩をすくめるギルドマスター。
「他の街へ応援をリクエストしてますが、到着はいつになるか分かりませーん。
このままではフェスティバルどころか、海上の全船舶がストップしてしまうデスよ!」
アルジェは静かにため息を吐いた。
「……その獣魔、触手が多数あるって言ったな? クラーケンじゃないのか?」
その言葉に、ギルド内が一瞬で凍りつく。
だが――次の瞬間。
「ワハハハハハ!!」
爆笑が巻き起こった。
後ろの席から、銀の甲冑に身を包んだ男が酒を煽りながら声を上げる。
「兄ちゃん、それはねぇよ! この街のフェスティバルは“クラーケン様”に感謝を捧げるための祭りなんだぜ! 十年前に街を救ってくれたクラーケン様は、この街の英雄なんだよ!」
(……クラーケンが、街を“救った”?)
アルジェの脳裏には、船を引き裂く巨大な触手、帆船を海底へと引きずり込む魔獣の姿が浮かんでいた。
それが……“街を救った”?
まさか、そんなことが――
だが、現実にこの街の人々はクラーケンを信仰している。
否、敬愛すらしているのかもしれない。
(……これはただの野良獣魔じゃない。何かが、おかしい)
にわかには信じがたい情報を前に、アルジェの胸に疑念が芽生え始めていた。
そんな彼の心中をよそに、ギルドの冒険者たちの笑い声が止まない。
まるで子どもの冗談に過剰に反応するかのように、周囲の連中はアルジェを指差しては腹を抱え、肩を震わせていた。
最初こそ面食らったものの、あまりにも馬鹿にしたような態度に、アルジェの中で何かがぷつりと切れた。
「……何がそんなに可笑しいんだッ!!」
怒声がギルド内に響き渡ると、笑い声がピタリと止む。
勢いで振り返った拍子に、アルジェのローブの裾がふわりと捲れ、腰に提げた魔剣がちらりと覗いた。
鋭く睨み返すアルジェの視線が、先ほどの銀甲冑の男に向けられる。
だが――男の表情は、さっきまでの嘲笑を浮かべたそれとはまるで違っていた。
「……おい、兄ちゃん。今の……お前の腰の剣……あれって……まさか、魔剣か?」
先ほどとは一転、真剣な眼差しでそう訊ねてくる。
「……そうだとしたら何だ。俺が何を装備していようが、お前には関係ないだろ。」
アルジェは警戒を隠さずに答える。
その挑むような態度に、甲冑の男は一瞬だけ眉を潜めたが、すぐに苦笑を浮かべて椅子から立ち上がった。
「……笑ったことは悪かった。あんたを侮辱するつもりじゃなかったんだ。気を悪くさせたなら、すまん。この通りだ――」
そう言うなり、男は頭を深々と下げて謝罪した。
アルジェは少し面食らった様子で、それでも素直に頷く。
「……わかったよ。こっちも少し言い過ぎた。悪かったな。」
「ありがたい……それでだ、ちょっとだけ、その魔剣を見せてもらえないか?」
奇妙な空気に戸惑いつつも、アルジェは魔剣ソウルイーターをゆっくりと抜き放った。
淡い水色の剣身が空気を震わせるように光を帯び、見る者に幻想的な揺らめきを感じさせる――まるで、水面に映る炎のように。
その瞬間だった。
「……っ!」
ギルド内の空気が、一変する。
騒がしかった空間が静まり返り、気づけば冒険者たちが一人、また一人と、無言でアルジェの前に跪いていた。
「……お、おい……? 何してるんだ、お前ら……?」
戸惑うアルジェをよそに、銀甲冑の男が感極まったような声で叫ぶ。
「ク、クラーケン様……!!」
「……は?」
目を丸くするアルジェのもとに、騒ぎを聞きつけたシルビアとフェリが駆け寄ってくる。
「何事ですか、アルジェ様!? どうして皆、跪いて……!?」
「知らん、俺が聞きたいくらいだッ! なんなんだこれは!? クラーケンって、一体何の話だ!?」
混乱するアルジェの姿に、フェリとシルビアも呆然とするしかなかった。
そんな三人を前に、甲冑の男がゆっくりと立ち上がる。
「いやぁ…驚かせちまってすまない兄ちゃん。クラーケン様の所有者に対して、敬意を示したかっただけなんだ。」
「敬意……?」
「そうだ。あんた、その魔剣の所有者なんだろ?十年前、この港街を救ってくれた“伝説の魔剣クラーケン様”のな……」
照れた素振りでそう答えた甲冑姿の男は、続いて、十年前の出来事をアルジェたちに語って聞かせるのだった。
次回タイトル:クラーケン伝説




