008大陸の記憶と新たなる兆し
冒険者登録を終えたアルジェは、受付嬢ミリアから最近の魔物頻出について話を聞いていた。
「……実は、聖地で何かが起きてるんじゃないかって、ギルドの中でも囁かれているんです。はっきりした原因は分かっていませんが……」
そう語るミリアの顔には、不安の色が濃く浮かんでいた。
「まるで――三百年前の、あの時がまた始まるんじゃないかって……」
ガイアス公国のさらに北、海を渡ったその先には、“魔界”と呼ばれる未知の領域が存在している。
三百年前――その魔界より、何者かが魔物の大群を率いて突如として大陸に攻め入ってきた。
数の上では人間族が勝っていたが、魔物たちの圧倒的な戦闘力を前にして防衛戦は壊滅。
大陸の北半分は、たった数ヶ月で蹂躙された。
セイクレド山脈の険しい地形のおかげで、魔物の侵攻は遅れているものの――
もはや、大陸には抗うべき力も、希望も残されてはいなかった。
「でも……その時、意外な助けがあったんです」
ミリアが静かに言葉を継ぐ。
「それまで戦争には関わろうとしなかったエルフやドワーフ、獣人たちが、急に人間に味方し始めたって記録にはあります」
その理由は、魔物たちが亜人種の領域にまで侵攻したためだった。
自らの森を荒らされ、集落を焼かれた彼らは、ついに沈黙を破ったのだ。
重装備のドワーフたちは最前線に立ち、鍛え抜かれた肉体と名工の技術で強力な武具を供給。
エルフたちは森の中から弓と魔術で敵を撃ち抜き、獣人たちは生まれ持った能力を駆使して仲間を守った。
亜人種の戦士たちの参戦により、戦況は一変する。
彼らの連携が奏功し、魔物の軍勢は徐々に数を減らし、ついには魔界へと押し返されるに至った。
だが――
勝利の代償はあまりにも大きかった。
「その戦いのせいで、大陸の大半が……死の大地に変わったんです」
ミリアの声は低く、重かった。
魔物が放った負の魔力が、大地の恵みを根こそぎ奪った。草も木も枯れ、人が住めない土地が拡がった。
人々は絶望し、それでもなお生き延びるため、神に祈りを捧げた。
どの種族も、どの地でも、ただただ、天に向かって願い続けた。
そして、
大陸中の人々が祈りを捧げる中、セイクレド山脈の高台でひっそりと暮らす一人の獣人女性もまた、誰よりも深く祈りを捧げていた。
やがて、幾日か過ぎた頃――その祈りに応えた存在がいた。
ある夜――
月が高く昇った頃、彼女の頭上に、まばゆい光が差し込んだ。
それは地を癒す神のひとり、豊穣と大地を司る地母神の光だった。
彼女の身体を依り代として降臨した地母神は、セイクレド山脈に流れる地脈の膨大な魔力と自身の神力を使い、大陸中に広がった負の魔力を浄化した。
しかし、その代償として、魔力が枯渇してしまったセイクレド山脈の大部分が、長きにわたり植物の育たない不毛の地へと変わり果ててしまう。
また、ほぼ全ての神力を使い果たした地母神は、人間界に留まることができなくなっていた。
神は静かに告げた。
「慈悲深き獣人よ。もはや我が身は、この地に留まり続けることは叶いません。
されど、願わくば……祝福がこの地を癒すその時まで、未だはびこる負の者たちから、この大地を守ってくれまいか」
その声は、あまりにも温かく、美しく、彼女の魂に深く染み入った。
「それで……あなた様のご恩に報いることができるのなら、その使命、喜んでお引き受けいたします」
彼女は一瞬の迷いもなく答えた。
「感謝します。ならば、その身に戦う力を与えましょう」
神の声と同時に、淡い光が彼女を包み込む。
温かな波動が全身を巡り、力が、意志が、姿さえも変わっていくのを彼女は感じていた。
光が静かに消えた時――
そこには、一匹の巨大な白き虎が静かに立っていた。
彼女は、神の使いとして生まれ変わったのだ。
その白き虎の額には、地母神の祝福を示す金色の輝石がはめ込まれていた。
神聖さと猛々しさを併せ持つその姿は、人々から聖獣・白虎と呼ばれるようになる。
また、大地が甦り、人々が安寧を取り戻した頃、地母神が降臨した場所は、いつしか《聖地》と呼ばれるようになった。
白虎は、三百年もの間、聖地に留まり、ひたすらに大地を守り続けてきた。
その存在は、魔物たちにとって明確な“抑止”であり、
それゆえ、長い年月の間、人々の前に魔物が姿を見せることはほとんどなかった。
「でも……その白虎が、今は姿を消してしまったんです」
ミリアは、静かに目を伏せた。
「白虎がいなくなってから、魔物たちがまた聖地を越えて各地に現れるようになりました……
きっと何か、大きなことが動き始めている……そんな気がしてならないんです」
聖獣の不在。魔物の再来。そして――三百年前と酷似した兆候。
ミリアの言葉を聞いたアルジェは、胸の奥で何かがざわめくのを感じていた。
――再び、歴史が動こうとしている。
次回タイトル:白き少女
少女の正体は、果たしてーー