070知識の魔眼
アルジェは、交流戦が開催されるまでの間、学院の地下にある“魔術学研究部”──通称“魔学部”へと独り足繁く通っていた。
イリスティーナが顧問を務めるその場所は、もはや“部室”と呼ぶにはあまりに広く、整った設備の数々が揃った“研究所”そのものである。
古代文字の解読、新魔法の理論構築、魔道具の実験や開発――。
この場所では、魔術という学問のすべてが同時進行していた。
アルジェがこの部に通い始めたのには、ある“偶然”が関係していた。
──それは、学院を訪れる数日前のこと。
アルジェは、女神より授かった知識を活用し、魔神に関する古文書の解読に没頭していた。
だが、あまりに根を詰めすぎたせいか、眼に疲労がたまり、思わず隣にいたフェリにこう頼んだ。
「フェリ、すまないが、そこの棚から目薬の小瓶を取ってくれないか」
快く応じたフェリは、棚に幾つか並んだ瓶の中からひとつを手に取って渡す。
疑うことなく、アルジェはその中身を片眼に垂らした――直後、激痛が走る。
「ッぐ……!」
目を押さえたアルジェは、その瓶が目薬ではなく、“知識の泉の水”だったことに気付く。
痛みはすぐに引いたものの、視界にわずかな違和感を感じていた。
「ふえぇぇん……!?フェリのせいで、あるじぇのお目目がおかしくなっちゃったぁ……!」
アルジェは咄嗟に鏡を覗き見て驚いた。
瞳の中に奇妙な魔法陣が浮かんでいたのである。
予期せぬ事態に動揺を隠しきれないでいたアルジェだったが、泣きじゃくるフェリを放っておくわけにもいかず、立ち上がろうと机に手をついた。
その時、開きっぱなしになっていた文献を偶然目にする。
その瞬間、異変の効力が明らかになった。
見るだけで呪文の構成が視覚化される。
古代文字が、意味として“読める”のだ。
魔法陣の構成理論すら、まるで既知の知識のように頭に流れ込んでくる。
視界に映る魔法的構造――魔法陣、呪文、魔力の流れ――それらすべてが、図解されたように理解できるのだ。
戸惑うアルジェの脳裏に、不意にどこかとぼけた声が響いた。
『ほほう、これはまた稀有な例じゃのう。知識の泉を“目に注ぐ”とは……なかなかの暴挙よの。まあ、言うなれば《知識の魔眼》か。身体に悪い影響はないじゃろうし、効果は一時的じゃろうが、存分に使うが良いじゃろうて。フォフォフォ』
創造神の思念だった。
いつもながらマイペースな神の反応に、アルジェは力が抜けたように笑い――
そして、開き直るように思考を切り替えた。
(せっかく得た力だ。活かせる場所に行こう)
こうして、魔術の殿堂・魔学部へと足を運ぶ日々が始まった。
* * *
それから数日後――交流戦当日。
マイ、フェリ、カルラを学院に残し、アルジェは関係者一同と共に、ガルマン公国の首都スペリオルに到着していた。
舞台は、公都の中央に構える巨大な闘技場。
円形に設計されたその会場は、三万人以上を収容可能であり、強化魔法を付与された特殊石材によって、建物全体が圧倒的な堅牢さを誇っている。
アリーナの床は、足音が重く響く黒鋼石でできており、重騎士の鎧すら反響する。
闘技場の壁面には歴代の勝者のレリーフが刻まれ、神殿のような神聖さと暴力の匂いを同時に放っていた。
普段は囚人同士や捕縛した魔物による見世物試合が行われているが、今回は“臨時の公式交流戦”。
その性質から、利益はそのまま国益へと繋がる――はずだった。
しかし今回ばかりは、賭けそのものが成立していなかった。
闘技台の上に目を向ければ、その理由は一目瞭然だった。
広々とした真四角のフィールド。
左右に距離を空けて立つのは、魔術部門と武術部門の参加者たち。
ガルマン国立学園からは、各部門に30名ずつ、計60名。
対するオルタルト養成学院の陣営は――たったの2名。
魔術部門:アルジェ。
武術部門:シルビア。
この30対1という構図を目にして、観客たちはどよめきすらあげなかった。
「勝敗は見えてる」「つまらん茶番だ」――そんな冷めた空気が場を支配していた。
これでは賭けにもならない。
焦った運営側は、急遽ルールを変更し、生徒個人への賭け方式に切り替えた。
だが、無名の学院生に賭ける者などほとんどおらず、僅かに票を投じたのは“奇人”か“酔っ払い”か、もしくは“夢見がちな貴族令嬢”くらいのものだった。
とはいえ、賭けの枠が整い、会場には再び熱気が戻ってくる。
三万人を超える観客が席を埋め尽くし、今や熱狂と嘲笑が入り混じったざわめきが場内を揺らしていた。
――その誰もが、オルタルト養成学院の2人がどこまで粘れるか、せいぜい“何分耐えられるか”にしか興味を抱いていなかった。
だが、この時。
誰ひとりとして気付いていなかったのだ。
この試合が、“歴史”になることを。
やがて、開戦の鐘が高らかに鳴り響いた。
次回タイトル:メイドの嗜み、侮るなかれ




