065覚醒
引き続き学院編をお楽しみください。
コレットが語った事件の翌日から、イリスティーナの溺愛ぶりにはますます拍車がかかっていた。
討伐依頼や実地演習など、少しでもアルジェの身に危険が及ぶ可能性がある場面では、彼女は必ず同行を申し出ては、我が身を盾にしてアルジェを守ろうとした。
自身が傷つくことなど一切意に介さず、ただ、弟の無事だけを優先するその行動に、アルジェは幾度もやめるよう説得を試みた。
しかし、イリスティーナは頑なに首を縦には振らなかった。
そして――その“歪んだ愛”が、ついに現実を破綻させる。
四年前。
ロンダルシアの北東、鬱蒼とした森林地帯で異変が起こった。
大気中や土壌に染み込んだ負の魔力により、森の樹木が魔物――トレントへと変異。大量発生したそれらが森の拡大とともに近隣の村々を脅かしていた。
討伐依頼を受けたのは、まだ下級生だったアルジェたちのクラスだった。
とはいえ、トレントそのものは動きが鈍重で、弱点さえ押さえれば十分に討伐可能な相手である。
万が一に備えてイリスティーナも同行していたが、アルジェの反対を押し切ってのことだった。
森に足を踏み入れて間もなく、次々と現れるトレントたちを、アルジェたちは連携して確実に撃破していった。
火属性魔法で樹皮を炭化させ、その隙間に雷撃を流し込む――それが、訓練で学んだトレントへの最適解だった。
だが、どこか異様なほど張り切るイリスティーナは、他の仲間の制止も聞かず、前線を独走。
気づけば、大半のトレントを彼女一人で殲滅していた。
「イリス! もう無茶しないでくれ、十分だ!」
アルジェの叫びにも、彼女は笑って手を振るだけだった。
なぜ、彼女はこんなにも聞く耳を持たないのか――。アルジェは、自分の言葉がまるで届かない現実に、怒りとも悲しみともつかぬ感情を覚えていた。
やがて森の中腹まで進んだ時には、トレントの姿は完全に途絶え、依頼は達成されたも同然だった。
クラスメイトたちの間に歓声が上がる。
しかし、その中でただ一人、イリスティーナだけが片足を引きずりながら、木の幹にもたれかかるように歩いていた。
肩で息をし、ふらつく足取りでアルジェの元へと戻って来る。
「……はぁ、はぁ……これで、全部……守ったわよ、アルジェ……」
血の気の引いた顔色と、泥に濡れた制服。
それでも彼女は笑っていた。
その瞬間だった。
森の木々が、不気味な音を立てて割れた。
「――下がれ、イリス!!」
アルジェの怒声と同時に、鬱蒼と茂る木々の隙間から、黒き影が音もなく現れた。
それは、森の殺戮者――
通常の熊とは比べ物にならない体躯と凶暴性を備え、さらに魔法への耐性まで持ち合わせた、極めて危険な魔獣だった。
その毛並みは煤のように黒く、無数の傷が刻まれた皮膚からは、血と瘴気が染み出していた。
その眼には理性も欲望もなく、ただ“殺す”という本能だけが宿っていた。
トレント討伐に意識を集中していたアルジェたちは、いつの間にかこの魔獣の縄張りに踏み込んでいたのだ。
依頼を無事終えた安堵からか、誰一人としてその殺気に気づくことができなかった。
「……ッ!」
アルジェは、思わず息を呑む。
油断――それは常に最悪の形で牙を剥く。
疲弊していたとはいえ、自身の不注意に激しい後悔が押し寄せた。
(イリスさえ万全の状態だったなら……)
しかし、今のイリスティーナは、先ほどの戦闘で消耗しきっている。
そして、自身もまた――未熟だった。
アルジェには、生まれながらにして高い魔術の素養があった。
とりわけ錬金術においてはイリスティーナすら凌ぐ潜在能力を秘めていたが、当時はその力をまだ開花させておらず、実戦においては力不足だった。
目前で巨体を揺らすヘルグリズリー。
眼前に立つアルジェを“最初の獲物”と定めたその魔獣は、咆哮とともに巨大な前肢を振りかぶる。
鉤爪のような爪が、空を裂いた。
――逃げられない。
全身が恐怖に縛られ、足が動かなかった。
そして、死が降り注いだ――はずだった。
「……え?」
目を閉じたアルジェの耳に、鈍い肉が裂ける音と、生ぬるい液体が頬に滴る感触が届いた。
彼の目の前に立っていたのは、イリスティーナだった。
「――っ!」
アルジェに覆いかぶさるようにしてその身を投げ出した彼女は、ヘルグリズリーの爪を背中にまともに受けていた。
その衝撃に、彼女の身体は大きく揺れ、赤い飛沫が宙を舞う。
「イリス……!? イリスッ!!」
アルジェが叫ぶも、イリスティーナは反応しない。
意識を失ったその顔は青白く、口元には微かに血が滲んでいた。
アルジェは咄嗟に彼女の身体を抱き起こし、その背に回した手に――ねっとりとした、温かな液体の感触が広がる。
鼻腔を突く、鉄の匂い。
「……嘘…だろ……」
自分の腕の中で血を流す姉の姿に、現実が急激に収束してくる。
――彼女が、自分を庇った。
理解した瞬間、アルジェの中で何かが音を立てて崩れた。
「姉さん……」
震える声が喉の奥で途切れ、次第にその表情から色が消えていく。
感情が凍てついた。
焦りも恐怖も、怒りさえも、何も感じない。
ただ、空虚な瞳をしたまま、アルジェはイリスティーナを抱きしめ、静かに立ち尽くしていた。
彼の中で、何かが壊れた。
同時に、何かが目覚めようとしていた。
次回タイトル:絶望の淵に差す威光




