夏祭りとパウンドケーキ(後編)
1
猫森の外れを駆け出した頃には、狐達に追いかけられていたすだまも、中心に近づくにつれ、寄り集まり、濃く、大きくなっていく。追われるだけだった筈が、反撃するようになり、追う者と追われる者の立場が逆転するまでに、さほど時間はかからなかった。
経験豊富な白狐であれば、それでも上手くかわして逃げ切るが、年若い者達の中には、足がすくんでしまうものもいる。今も若い白狐が1匹、すだまに飲み込まれそうになって、震えていた。
ドンッ
飛び出してきたすみが、自身の倍ほども有る、巨体を蹴り飛ばした。
身長の5倍の高さを飛び越える、猫の脚力はを宿した体だ。蹴り飛ばされたすだまは、ジュウジュウと嫌な音を立てて、再び輪郭を失った。
すかさずゆきが追いかけて行ったのを確認し、すみは、震えている狐の前に屈み込んだ。
「大丈夫ですか?」
若い白狐は頷くと、またすぐ仲間達の元へ、駆けて行った。
お狐様といえど、すだまに憑かれれば無事ではすまない。追い手のお役目を頂いた年から、すみは「追い込み」より、仲間の「救出」に重きを置いていた。獲物を追いかけることにかけては、ゆきや狐達には敵わない。だが、体格と六花の量で勝る分、皆を守るのが自分の役目だ。
腕時計をを見ると午前0時を過ぎたところだった。
「ケーン」
またどこかで悲鳴があがった。すぐさま木の枝に飛び乗り、方向を確認する。
白狐達も集まれば仲間を助けることはできる。だがその度に追い手の数が減ってしまう。
(私ができるだけ多く、助けないと…!)
2
狐、虎、龍、獅子、 次々と描き出される姿は幻のようで、白狐たちの歓声も、徐々に大きくなっていく。
どこか誇らしい気持ちで、幸佑を見つめながら、白露は初めてあった日のことを、思い返していた。
白露が幸佑に初めて会ったのは、まだ彼が10歳かそこらの頃だった。
その日初めて人の世に、お使いに出された白露は張り切っていた、環姉さんや二葉姉さんのように、いつの日か人に紛れて暮らすのが、白露の夢だった。
お使いの内容は、ある男の夢に出て、お稲荷様の御言葉を伝えるというものだった。それまでも夢と現の境である狭間は、仲間たちと行き来していたし、宵宮の支度で多忙な仲間たちがついて来られないことは、寂しくはあっても、不安ではなかった。
行きは良かった。拍子抜けする程あっさりとお使いを終え、帰る途中で、
(帰りはちょっと別の道、通ってみようかな。)
そう遊び心が湧いたのが、いけなかった。
白露が踏み込んだその道は、すだまが巣食い、嵐のように大荒れだったのだ。
吹き荒ぶ風に吹き飛ばされ、打ち付けられ、もみくちゃにされていた時、暗闇の向こうで何かが光るのが見えた。気が付いた時には、真っ白な大きな狐がこちらに駆け寄り、白露に覆い被さっていた影を食いちぎり、飲みこんでしまっていた。
「おばあちゃん?」
ぼんやりとした頭で尋ねる。こんな立派な大狐は、祖母くらいな筈だ。
「えっ?」
白露の問いに答える声があった。見れば、大狐の後ろに、小さな男の子が立っている。
男の子の姿を見た瞬間、人に化けたが、きっとこの子には見られてしまっただろう。祖母から聞いた、人間に見つかったらどんな目に遭うか、という昔話を思い出して、血の気が引く。
(逃げようか。でもあんな大狐を操れるなら私なんて…。)
「大丈夫?」
「え?」
意味が飲み込めず、差し出された小さな手と、男の子の顔を交互に見つめる。大狐の姿はいつの間にか、消えていた。
「大丈夫?」
もう一度聞かれて、ようやく自分が助かったのだ、と気づいた。頭はくらくらするし、打ったところはズキズキと痛むが、骨を折ったりはしていないようだ。慌てて頷いた拍子に涙が零れた。
涙を見た男の子は可哀想なくらい狼狽えたが、やがて白露の前に屈んで背を向けた。
「?」
「うちまでおぶってくよ。」
小さな背にしがみついて、狭間の中を進む。先ほどまで大荒れだった道は、花が咲き、蛍が舞っていた。
「うち、どの辺?」
「猫森稲荷。」
男の子が、小さく息を呑むのが分かった。
(しまった…!狐だって分かったら、置いてかれちゃうかな。)
身を縮こまらせた白露だったが、返ってきた答えは意外なものだった。
「じゃあ、一度うちに寄って手当てして行こうか。うち、猫森稲荷のすぐそばなんだ。」
喫茶猫森に着くと、必死の形相の光子が飛び出してきた。
「幸佑!良かった無事で、あんた一帯…。」
一気にそこまで言って、白露に気づいた光子は、深々と頭を下げた。
「うちの子を守っていただき、本当にありがとうございます。」
「いえ、私の方が助けて貰って…。」
「ばあちゃん、この子、怪我してるんだ。」
幸佑の言葉に、光子はすぐに白露を抱えると、店の中へと入った。
「すぐに手当てをしますね。幸佑は薬箱を持ってきて。」
「分かってる!」
光子は店の椅子に白露を座らせると、布と洗面器を持ってきて、傷口を綺麗に拭い、消毒をし、包帯を巻いてくれた。幸い大きな怪我もなく、手当てを受けている間中、白露の耳は、幸佑を追いかけていた。薬箱を届けた後、台所まで駆けて行った幸佑は、何かぶつぶつ言いながら、冷蔵庫を開け閉めしている。
「チョコレートは、ダメなんだっけ…。」
戸棚を開ける音、コップを置く音、コップに何か注ぐ音、それから…。
「これ、よかったら。」
幸佑が持ってきたお盆には、牛乳を注いだコップと、何か黄色いものが乗った小皿が、乗っていた。
「茶巾絞りだよ。栗しか使ってないから、大丈夫かと思って…。」
「ありがとう…!」
(私が狐だって分かってて、こんなに優しくしてくれるんだ。)
初めて食べた人間の菓子は、甘く、口の中ですぐに溶けてしまった。
それから白露は時折、人に化けて喫茶猫森に行くようになった。もちろん神社の仕事を手伝ったお駄賃を持ってだ。悪いことはしていない。
初めは驚いていた幸佑だが、白露が人と同じ物を食べても問題ないと知ると、色々と試作の菓子を食べさせてくれるようになった。
だからこそ、幸佑が猫森を出て行った時はショックだった。少し前に、霊猫憑きの子を預かったためかと思ったが、もっと前から決めていたことらしい。新しい店で働く幸佑は、とても楽しそうで、様子を見に行った白露は、黙って仲間の元に帰るしかなかった。
何年かして、幸佑が戻った時、白露は、嬉しい反面、不安だった。
幸佑とのやりとりを思い返していて、ひとつ気づいたことがある。
白露が人間の暮らしに憧れていたように、幸佑も普通の暮らしに憧れていたのだ。
妙なものを、見ることも、関わることもない、普通の暮らし。猫森にいる限りは、叶わない暮らしだ。
(幸佑さんは、もうそれは、いらないんだろうか…?)
筆から虎が躍り出て、鋭い一閃が、牡牛に化けたすだまを打ち砕いた。
境内のそこここで、歓声が上がる。
(今宵の幸佑さんは、一際冴え渡っている。)
絵を描く幸佑は、まるで舞っているようだった。
出番がまるでない想太も、固唾を飲んで見守っている。
(それにしても…長い。)
もう宵宮が始まって、5時間は経っている。いつもなら、3時間ほどで一度白露たちが間に入り、そのあとは交互に戦って、世が明ける頃にはどちらもボロボロになっているのだが。
(まさか、幸佑さん、1人でやり切るつもりなんじゃ…。)
ひとつ、心当たりがある。去年の宵宮で白露は右足を酷くやられ、一月ほど引き摺って過ごしたのだ。
(だからって。)
夜明けまで後5時間と少し。あまりにも無謀な挑戦だ。
3
幸佑の動きが乱れたのは、更に1時間が過ぎ、夜明けまで後4時間と少しになった時だった。
攻撃が遅れた幸佑に、すだまが襲いかかる。
(危ない!)
気がつくと白露は、幸佑の前に飛び出していた。
「白露!」
焦った幸佑に手を引かれると同時に、白露の脇をどうっと大波が、駆け抜けて行った。
波は想太の筆から溢れ出し、すだまを押し流して行った。封印には少し手間っ取っているが、少しの間なら、任せても問題なさそうだ。
(なるほど、お稲荷様がお許しになったことはある…。)
「幸佑さん。想太くんに任せて、少しだけ休みましょう。」
肩を揺すると、幸佑ははっとしたように、身を引いた。
「すみません…。」
「いいえ。こう見えてもお使い狐ですから、あの程度なんてことないんですよ。もっと頼って欲しいくらいです。」
「すみません。」
気の抜けたように笑う幸佑に、冷茶と切った桃を差し出す。
危なげなく見せていたが、やはり無理をしていたのだろう。
白露は一つ提案をしてみることにした。
「想太君も加わったことですし、一つ今までとは、違うやり方をしてみませんか。」
「炎」
司が唱えると、札からめらめらと炎が燃え上がった。暗がりから飛び出した影を追って、白狐がかけていく。
少し離れた場所ではすみが、すだまに追われた狐達を助けていた。
去年までの司は、すみの勝手な行動に怒り、苛立っていた。だが今年初めて理由を聞いてみると、すみの言い分は納得のいくものだった。確かに、すみ1人で追いかけるより、多くの狐が動き回れるようにしておいた方が、効率が良い。
(去年までの俺なら、すみの言い分を聞こうとも思わなかったし、すみも俺と話そうなんて、思わなかったんだろうな。)
飛びかかってきたすだまに札を叩きつける。
「斬!」
2つに千切れて逃げ出したすだまを、白い影が追いかけて行く。
日の出まで、後3時間半。
3
鳥居から次々と湧き出すすだまに、想太の描いた波が打ち寄せる。次いで、白露が弓の構えをとると、周りに無数の光の矢が現れ、一斉にすだまを射抜いた。散らされ、弱ったところで、幸佑の描く白狐が、封じとって行く。
白露の提案は的確だった。威力はあるが、制御と封印に難がある想太が先鋒を、自分が次鋒を務めることで、幸佑が、確実に封印することができる。封印の技術が未熟な想太に、一通り任せてしまうよりも、幸佑が1人でギリギリまで粘るよりも、遥かに現実的だった。
それでも、1時間が経つ頃には、想太の息は上がり、腕も重たくなってきていた。
いつもなら、先に六花が切れてしまうため、体力が尽きることは、まずない。だが今夜は、六花はいくらでも漂っているので、先に体力の方が尽きてしまいそうだった。
それに、今夜初めて気づいたことだが、あまり六花の量が多いと、細部が描きにくく、不発になってしまうことが多い。想太はもう何度もそういった失敗を、幸佑と白露に助けられていた。
攻撃より繊細な動きを必要とする封印は、この状態では、相当な集中力が必要だ。自分では殆ど役に立てそうもない。
(そういえば、すみちゃんも、封印は苦手だっていってたっけ。)
もしかすると、今のこの状況は、すみの置かれた状況に近いのかもしれない。絶えることのない六花と、それ故に攻撃に特化した戦い方。でも体力が尽きれば苦しいし、攻撃を受ければ、怪我もする。
ふと、美術館で見た、すみの泣き顔がよぎり、想太は唇を噛んだ。
暴れ馬の姿で突進してくるすだまの足に、絡めとるように蔦を這わせる。どっと倒れた巨体に矢が突き刺さり、崩れた体を幸佑の狐が封じとった。
ほっと息をついた途端、想太の体が空高く、放り上げられる。いつのまにか、足に黒い蔦が絡みついていた。
(仕返しのつもりか?)
すかさず、幸佑の描いた鷹が想太の腕を掴み、白露の矢がすだまを射抜く。
「想太君!大丈夫か?」
「はい!」
すみの感じている痛みを、自分がどれだけ理解できるかは、わからない。だが、少しでもその痛みを和らげる力になりたかった。
(もし来年も、再来年も、すみちゃんが、宵宮のお役目を務めなくてはならないなら、俺も来年も、再来年も、ここに立てるよう、頑張ろう。)
4
戦って、戦って、戦って…。
やっと太陽が顔を覗かせた時には、想太はもう一歩も歩けないと思うほどに、疲れ果てていた。
幸佑と白露も、流石に言葉が出ないらしく、肩で息をしている。
「さぁさぁ、こちらへ。」
白狐たちに抱え上げられるようにして、想太たちは、再び、稲荷神様の前に膝をついた。
頭を下げると、目の前に、白い札がひらひらと舞い落ちた。
「?」
眩い光を放つその札から、まるで巨木が生えてきたかのように、枝が次々と伸びだした。芽をつけたかと思えば、花が咲き、葉が生い茂り、昇ったばかりの朝日に煌めきながら天高く伸びていく。ガラスのように透き通ったその枝は、太陽の光を浴びて、虹色に光輝く。やがてその輝きが1本の枝に集まると、実を結び、想太達の目の前に落ちてきた。
その神々しい光は、実の落ちた場所から、地面へと広がり、想太達は極彩色の光に包まれた。
ー烏が、鳴いている。遠くから車の走る音も聞こえる。
気がつくと、いつの間にか本殿の輝きも、石灯籠の灯も、白狐たちの姿も消えていた。
それこそ狐に摘まれたような気持ちで辺りを見渡していると、白露に声をかけられた。
「ありがとうございます。これでまた1年、猫森の清浄が保たれます。」
「清浄…。」
言われてみれば、境内の六花の輝きが、少しばかり、増した気がする。
「あ、すみさん達も、帰ってきたみたいですよ。」
白露の言った通り、鳥居の向こうから、土や埃でどろどろの、すみ達が立っていた。
お互い聞きたいこと、話したいことは山ほどあったが、とてもそんな余裕はなく、白露に勧められるまま、シャワー室を借りて、全員雑魚寝で、仮眠をとらせてもらうことになった。
良い匂いに鼻をくすぐられ、目を覚ますと、白いモフモフのお腹が目の前にあった。
「カケル?」
(こいつ、またベッドに潜り込んできて…。)
柔らかい腹を撫で回していると、尖った耳と、長い尻尾が顔を出し、
「ん?」と首を捻ったところで、かぷ、手に噛み付かれた。
「いたた、ゆきさんごめん!寝惚けてた!」
「ふみにあにふうにゃ。」
「あれ?ゆきさんも、寝惚けてる?」
「あれ?姉さん、想太、おはよ。」
「ん〜。お前ら、うっさい…。」
「頼むから、もう少し寝かせてくれ…。」
気がつけば、全員が浴衣姿で寝転がっていた。
(そういえば、あの後、シャワー浴びて、仮眠させて貰って…。)
部屋いっぱいに敷き詰めた布団の上で、全員雑魚寝したのだった。
「すみ、前はだけてるよ。」
「んう〜。」
ゆきに指摘されて、浴衣を直すすみから、慌てて目を逸らす。
(いくら疲れていたとはいえ、年頃の女の子と同室なんて…。)
せめてすみは別室にしてくれと、頼めば良かったのだが、あの時はとにかく、そんなことも考えられないくらい、疲れはてていた。
物音に気が付いたのか、襖の向こうから、声がする。
「朝御飯、いつでもご用意できますので。まだ少しお休みになられますか?」
「いえ、すいません!もう起きます。」
慌てて立とうとした想太は、前につんのめった。
「!」
足が痺れたように、思うように動かせない。
「大丈夫かよ。」
司の手を借りて、漸く立ち上がる。
「体に力が入らない。なんか変な感じだ。」
「六花を長時間操り続けると、そうなるんだよ。段々慣れてくる。」
伸びをしながら、幸佑が答えた。
「六花に浸されている間は感じない疲労が、一気に出るんだろうな。」
「幸佑さんは、大丈夫なんですか?」
「今年は、随分楽だったよ。想太君のお陰だな。」
そう言って笑う幸佑に、すみも司も嬉しそうだった。
布団を片付けて、運んできて貰ったお膳に、歓声が上がる。
焼き鮭に出汁巻き卵、青菜のおひたしに茄子の味噌汁、どれも凄く美味しそうだ。
「いただきます。」
白飯を口に運ぶと、米の一粒一粒が、体に沁み渡るように感じた。
昨日の日没から日の出まで、一晩中働き続けた体は、思った以上に飢えていた。
想太達は、そのまま無言で食べ続け、お茶を運んで来た白露に、笑われるのだった。
「そうだ。すみさん、司さん、お返ししておきますね。」
「あ、ジャージ。洗濯してくれたんですか?」
手渡された風呂敷包みを開けて、すみが声を上げる。
「そんな。白露さんだって疲れているのに。」
「ご心配なく。見習い狐が喜んでコインランドリーに行ってくれましたから。」
(見習い狐がコインランドリー。)
2人のやり取りに、想太は、子狐がちょろちょろと、コインランドリーへ入って行くところを想像してしまった。
「もちろん、人に化けてですよ。」
白露がおかしそうに、口元に手をあてる。
「想太さんて、本当に、面白い方ですね。」
5
食後も着替えたり、昨夜のことを話しているうちに、あっという間に時は過ぎ、想太達が喫茶猫森に帰りついたのは、正午近くのことだった。
夏祭りの運営委員会に行くという、幸佑を見送り、すぐに菓子類の調理に取り掛かるすみの、
「必要になったらお願いするから。」
という言葉に甘えて、想太と司は、店の2階の幸佑の部屋で、横になっていた。
「…なぁ、2人はなんであんなに無理するのかな。昨夜だって、幸佑さん、最後まで1人でやろうとしてたみたいだったし。今日の出店も、無理して出さなくったって良いだろ。」
「夏祭りは商店街の一大イベントだぞ。なんて言って断るんだよ。」
「そうだけど…。」
「お前が言いたいことは、分からんでもないけど。やるかやらないか決めたのは、あの2人だろ。俺たちがどうこう言うことじゃない。」
「そうだけど、でも…。」
「ま、俺たちがもっと、頼りになるって分からせてやればいいんじゃない?」
「そうだよな!」
途端に顔を輝かせる想太を見て、司は思った。
(…お前が来てから、随分変わったんだけどな。)
想太が喫茶猫森に出入りするようになって2人は変わった。すみは人と関わることを厭わなくなり、幸佑も、全て1人でやろうとしていたことを、少しずつ、人に頼るようになった。
それこそ去年までは、1人で封じ手を務めあげ、出店も自身で取り仕切っていたので、夏祭りの後の数日は、酷い顔色で、フラフラしながら働いていた気がする。
(想太を補助につけたり、すみに出店を任せたり、大進歩だろ。)
尊敬する先輩であり、頼りになる大人なのだが、どこか危なっかしいこの部屋の主人が、もう少し肩の荷を下ろせるように、自分も腕を磨かなくては。
猫森商店街の出店は、どこも17時から21時までの営業なのだが、16時過ぎ、3人でテーブルを店の前に並べ、出店の準備を始めた時には、もうちらほら人が出始めていた。
「すみちゃん、テーブルクロス、押さえるものあるかな。」
「ちょっと押さえててくれる?テープで留めちゃうから。」
「すみ。クーラーボックスは、ここで良いか?」
「うん。ありがと。」
菓子作りの後、ほんの一時休んだとはいえ、すみはずっと働き詰めだ。少し心配になるが、本人はそんな気配は見せず、動き回っている。
「すみちゃん、今年は幸佑君いないから、大変でしょ。」
「新井さん。」
店の常連で、想太も何度か会ったことのある女性が、声をかけてきた。
「これ、うちのパン。休憩の時にでも食べてね」
「ありがとうございます!」
その後も誰かしら、様子を見がてら声をかけて行く。
「すみちゃん、店長頑張ってな〜。」
「すみちゃん、人手が足りなかったら、言ってな。」
次々と声をかけて行く姿に、すみが苦笑する。
「…幸佑、皆んなに言って回ってるね。」
「だね。皆んな良い人達だ。」
「でしょ。…商店街の皆んなが助けてくれなかったら、この店は無くなってたかもしれない。だから私も、できるだけ、商店街の役に立ちたいの。」
「そっか。」
すみが張り切っている理由が、ようやく分かった気がした。
いざ夏祭りが始まると、押し寄せる人の波を、どうにか捌くことで、3人とも他のことを考える余裕などなくなった。
司が注文を取って会計を済ませ、想太がコールドドリンクと、盛り付けの必要がない菓子類を、すみがホットドリンクと、盛り付けをと、分担を決めておいたのは本当に良かった。
初めの2時間は人足が絶えることなく、漸く落ち着いて来て、それぞれ短い休憩と、新井さんの差し入れのコロッケパンにありつく頃には、プリンやコーヒーゼリーなどの人気商品は売り切れになっていた。
残りの時間をどうにか乗り切り、店を閉める頃には、ほぼ全ての商品を売り切り、上々の成果で、喫茶猫森の夏祭りは幕を閉じたのだった。
閉店後は簡単に片付けをすまし、すみがとりわけておいたパウンドケーキとアイスコーヒーで、ささやかな打ち上げをした。
ベーコンチーズのパウンドケーキは、しっとりとした生地に、ベーコンとチーズのしょっぱさと、玉葱の甘くショキショキとした食感が絶妙で、いくらでも食べられそうだった。
「どう?想太。発案者として、甘くないパウンドケーキ、の味は?」
「最高。」
「これ、来年もメニューに入れても良いかもな。」
「来年か…。」
来年は、すみにも、幸佑にも、もっと頼って貰いたい。そのためにはまず、腕を磨こう。
そう決意を新たに、想太はパウンドケーキを頬張るのだった。