夏祭りとパウンドケーキ(前編)
1
美術館に行った日、すみは、想太が見たものを信じ、喜んでくれたが、それが特異な力であると、伝えることも忘れなかった。
六花に色が映って見えるなど、聞いたことが無いというのだ。
次の稽古の日、幸佑に相談してみて、やはり、あの美しいものが見えるのは、自分だけなのだと知った想太は、少しがっかりしていた。
(あんなに綺麗なものが、皆んなには見えないなんて。)
そんな想太を慰めるように、幸佑はこう提案した。
「俺には見えないが、そういう見え方をする人がいると聞いたことはある。
心配することもないと思うが、念のため、猫森稲荷で見てもらうか?これから夏祭りの打ち合わせで行くところだったんだ。」
2
すみとは、ほぼ毎朝、ジョギングの途中で立ち寄っているが、幸佑と2人で猫森稲荷を訪ねるのは、初めてだ。参道の石段を登る途中、ふと、前から気になっていた疑問が口をついた。
「そういえば、なんで狐の像なんでしょう?猫じゃなくて。」
途端に、結構な勢いで頭をはたかれた。
「いたっ。」
「なんて失礼なことを!」
幸佑の剣幕に驚いていると、
「ふふ。」
石段の上から、涼やかな笑い声が降って来た。
幸佑が、慌てて頭を下げる。
「白露さん、とんだ失礼を。申し訳ありません。」
「良いんですよ。猫森って名前ですから、紛らわしいですよね?私たちもよく、『猫のお守りは無いんですか?』って訊かれるんです。」
巫女装束の「白露さん」はそこで、2人に頭を下げだ。なんというか、品の良い人だ。神社の娘さんだろうか。
「暑いですから、中でお話ししましょう。お茶もご用意していますから。」
社務所の一室で、お土産の箱を開けた白露は歓声を上げた。
「コーヒーゼリー!私これ大好きなんです。」
「今度店にも食べに来て下さい。アイスのトッピングも出来ますよ。」
「まぁそれは…。あ、すみません。猫森稲荷についてでしたね。
猫森というのは、元々、この町と、両隣の町にまたがる一帯を呼ぶ地名だったんです。境内の看板はご覧になりましたか?そうです。あそこに書かれている『猫森伝説』は、地名の由来なんです。紛らわしいですよね。
明治の中頃から、この辺りの開発が進み、各地から人が移り住んできました。このお稲荷様も、そういった方々が、故郷の村から分社して、この地にお越しになりました。それで、地名を取って、『猫森稲荷』と呼ばれるようになったのです。つまり、この神社の御祭神は、稲荷神様で、狐は、そのお遣いなんですよ。」
「大変失礼致しました…。」
想太は青くなった。今までも六花を「お借り」する度にお参りしていたが、ずっと猫の神様だと誤解していたのだ。以前は笑い話で済んでいたことも、神様の存在をはっきりと感じるようになった今では、とても笑えない。
(もしかして、なんてバチ当たりな、って思われてたかも…。)
「気になさらないでください。結構、勘違いしている方も多いんですよ。なんせ名前が猫森ですから…。それよりも、あなたが、想太君ですね?」
「あ、はい…。」
「六花に色が映って見える、というのは、本当でしょうか?」
「はい。」
「では、私のは何色に見えますか?幸佑さんのは?」
「えっと…。白露さんは、眩しいくらいな真っ白です。幸佑さんは、夕焼けみたいな橙色がうっすら…。」
「凄い。本当に見えているんですね!何年ぶりでしょう。」
白露は、嬉しそうに手を叩いた。
「見えていても特に問題は、ないのでしょうか?」
心配そうに尋ねる幸佑にも、笑顔で頷く。
「はい。時々そういった、目の良い方は居ますが、何か悪いことがあったという話は聞きません。
今年の宵宮には、想太君も参加するのですか?」
「えっと、実はまだ、話していなくって…。」
「やだ私ったら…。ごめんなさい。先走ってしまって。」
「幸佑さん。宵宮ってなんですか?」
「宵宮っていうのは、猫森稲荷の夏祭の前夜に行う神事のことだ。この夜、お稲荷様の御力をお借りして、猫森全域のすだまを封じるんだ。」
「えっ。全域って、かなりの広さですよね。そんなこと、出来るんですか?」
「この夜だけはな、特別なんだ。
すだまってのは、前にも話した通り、恨みや憎しみのような、強烈な害意を持った感情が残したシミが、吹き溜まってできている。
だが、形を持って、人に害を為すまでになるのは、ごく一部だ。まだそこら辺を漂っている、黒いモヤのような段階で、封じてしまえれば、それが一番良い。だがこの段階だと余程気をつけていないと、見つけるのが難しくてな。年に一度、宵宮で一掃しているおかげで、日頃のすだまの被害が少なく済んでいる、というのが、俺たちの考えだ。」
「じゃあ、とても大事な行事なんですね。」
「あぁ。その夜は、すだまを猫森稲荷まで追い込む『追い手』と、追い込まれたすだまを封じる『封じ手』に分かれて動く、今年は今の所、追い手にすみ、ゆき、司が、封じ手に俺がつく予定だ。」
「え、少なくないですか。猫森全域なんですよね?」
「そこは、私たちもお手伝いしますので。」
「一晩中かかる神事で、かなりしんどいのは確かだが、毎年この面子でやっているからな。それにこれは、普段猫森稲荷様から六花をお借りしている俺たちの責務でもある。」
「…俺も、やりたいです。」
「良いのか?今年はまだ見習いってことにしてもらっても…。」
「さっきのお話で、どれだけ重要なことなのかは分かりました。それに俺も、今まで何回も、猫森稲荷様から、六花をお借りしているわけですし…。お役に立てるか分からないですけど、頑張ります。」
「白露さん、想太君を封じ手の補助に選んでも?」
「問題ありません。想太君なら充分な資格が有ります。」
「では、どうぞお願いします。」
「はい。では、今年の封じ手は、幸佑さんと想太さん。追い手は、すみさん、ゆきさん、司さんでお受けいたします。」
「じゃあ、想太も宵宮参加するんだ。」
「うん。封じ手の補助だって言ってた。」
翌朝、ジョギングの途中休憩で、いつものようにすみに報告すると、まだ聞いていなかったらしいすみは、驚いた顔を見せた。
「大丈夫?日没から日の出まで封じ続けるんだよ。」
「うん。ジョギングを続けて、前よりは体力もついているし、なんとかなると思うんだ。」
「あと、多分神社で用意される装束を着てやることになると思うけど…。」
「えっ。」
思わず声が出た。それは聞いてない。
「幸佑は慣れてるけど、いきなりじゃ、動きづらいんじゃない?相談しといたほうが良いかも。」
「ジャージってわけには…。」
「神様の前に出るわけだから…。」
「てことは、すみちゃんも巫女装束着るの?動きづらくない?」
「追い手はそれこそ、ジャージだよ。町中走り回るんだもん。神様の前に出るわけでもないし。」
「神様の前」という言葉が出てくること自体、普通ではあり得ないのだが。まるで学園祭の出し物について話すようなすみに、想太は目眩がしてきた。
「自信無くなって来た…。すみちゃん、こんなこと毎年やってるんだ…。」
「うーん。私は、出店のメニューの方が心配かな。」
「え、出店のって夏祭りの?夜明けまで駆け回って、それはちょっと無茶なんじゃ…。」
「?、大丈夫。毎年やってるから。今年は幸佑が商店街の手伝いで、私1人なのはちょっと不安だけど。」
「俺も手伝うよ。」
「えっ?想太は初めてなんだし、いいよ。」
「大丈夫だから。手伝うから。」
「う、うん…。」
珍しく気圧されたすみに、ため息が漏れる。
「うちの人間はなんでこうかねぇ。」
呆れたように呟くゆきの言葉に、想太も心の中で同意した。
2
その日の放課後、早速想太とすみと司は、喫茶猫森のキッチンで、夏祭りの作戦会議をしていた。
ちなみに今は開店時間なので、声は抑え気味だ。
「想太も夏祭り出るんだな。」
例の一件以降、会うのは数ヶ月振りのはずだが、司の馴れ馴れしさは相変わらずだ。だが、以前のようなピリついた気配がない分、話しやすさが増した気がする。
「司こそ、宵宮だけの参加かと思った。」
「去年もそのまま流れで手伝ったし、今年も大変そうだったから。」
(案外、優しいところあるんだな。)
「想太は宵宮初めてだろ、徹夜だし結構しんどいぞ。」
「それは皆んなも同じわけだし、大丈夫だよ、多分。」
「はい、2人とも、当日のメニュー案。」
すみが2人の間にノートを差し出した。当日のメニュー案と動きが細かくメモされている。
喫茶猫森 夏祭り特別メニュー
コーヒー hot・ice
カフェオレ hot・ice
紅茶 hot・ice
梅シロップ
*hot→注文をうけてから淹れる。ice→水出しのボトルを用意、クーラーボックスにに氷と入れて冷やしておく。
コーヒーゼリー(アイストッピング可) *50個
カスタードプリン*50個
梅ジャムのパウンドケーキ*8切れ×3本
バナナと胡桃のパウンドケーキ*8切×3本
*デザート類は、当日の10時頃から作っておく。アイスのトッピング以外は、そのまま提供できるように。
「スプーンは、一緒に渡す感じでいいよな。」
「うん。」
「じゃあ、すみが調理担当で、俺が注文と会計やるから。想太が提供で良いよな。」
「あ、うん。」
意外と手際の良い司に驚くが、そういえば、バイトをしているという話だった。
「去年も思ったけど、甘いものばっかりだよな。」
「サンドイッチ類は、パンが水気を吸っちゃうから。」
「チーズ系のパウンドケーキはどうだろう。しょっぱいやつ。」
すみの目が輝いた。
「いいね、それ!ベーコンとチーズとかも合いそう。昼間の内に用意もできるし。」
「なら、パウンドケーキ、1種類減らすか。あんまり多いと大変だろ。」
「うーん、それなら、梅ジャム減らすか…。」
3人いると、面白いほど作業が捗り、まだ空が明るい内に、想太と司は帰路についた。
(すみちゃん、元気になったみたいでよかった。)
そう噛み締めていると、前を歩いていた司が振り向いた。
「幸佑さんの補助やるんだってな。」
「うん、まだちょっと不安だけど。司はすみちゃん達と追い手をやるんだっけ。」
「まぁ、俺の札はそういうのにむいてるんだ。予め広い範囲に仕掛けておいたりとか。」
「俺はなんで、封じ手なんだろう。」
「初めてだし、様子を見ておけってことかもな。幸佑さん、今まで毎年1人でやってたし。」
「そうなのかな。」
幸佑の真意は分からないが、選ばれたからには、役に立てるよう頑張ろう。あの人もすみちゃんと同じくらいに、無理をするのだから。
3
「今年も自分達だけでやるのね。」
「せっかくのご厚意を、申し訳ありません。」
「あら、そんな意味で言ったんじゃないのよ。ただ、猫森は、特に人手が少ないから。」
宵宮に類する神事は、猫森以外の神社でも行われている。オガミヤは、皆それぞれが、日頃お世話になっている神社でお務めを果たすわけだが、こうして人手が足りないところに、人を回すのも、藤代の仕事のひとつだった。
だが、うまくいくことばかりではない。
「猫森稲荷とあまり縁のない方ですと、結局お断りすることになってしまうので…。」
「そうね。」
そこは神事、神社の側から断られてしまえば、どうしようもない。
既に前年も前々年も、お伺いを立てたのだが、猫森稲荷の答はいずれも、
「お断りします。」
だった。
理由は察しがつく。すみが居るからだ。
猫森稲荷は猫神から、すみを見守ってほしいと頼まれているという。ほんの僅かでも、すみに嫉妬や羨望、好奇の目を向ける者の立ち入りを許すはずがなかった。今までも、すみに好意的な人物を選んでいるのだが、人である以上、少しの羨望や好奇心を持つな、というのは不可能だ。
(司君は、あんな感じだけど、幼い頃から何度も猫森稲荷に通って、信用を得ているから…。けどまさかあの猫森稲荷様のお許しが1回で出るなんて…。)
「想太君は大物ね。」
電話口で、幸佑が吹き出す音が聞こえた。
「全くです。」
宵宮当日、日が傾き始めた頃、すみ達と別れた想太と幸佑は、猫森稲荷の鳥居をくぐった。
「ようこそ、おいでくださいました。」
境内で待ち受けていた白露が頭を下げる。そのまままた社務所の一室に案内され、狩衣に着替えさせられる。
(すみちゃんの言った通りだった。)
少しもたつくが、動けないこともなさそうだ。それよりも、今気になるのは、
(幸佑さん。いつもと違うな。)
普段から気さくで、周りを気遣う幸佑だが、今日は挨拶を交わしたきり、一言も発していない。その瞳も、景色というよりも、自分の内側を見つめているようだった。
(そうか、集中しているんだ。)
そう気がつくと、自然と手に力が籠ってしまう。
「そんなに力んでいると、朝まで持ちませんよ。」
想太の着付けをしていた白露に肩をぽんっと叩かれた。
「大丈夫。私たちもいますから。」
着替えが済み、ご祈祷を受けている最中も、幸佑は黙ったままだった。
もう一度鳥居の前に戻ってきた時、初めて、ぽつり、と呟いた。
「いよいよだ。」
「え?」
鳥居の向こうに沈む太陽が、最後の一筋を輝かせていた。
最後の光の粒が消えた時、参道と境内の石灯籠に一斉に火が灯った。と、同時に、境内のそこここに、漂っていた六花が集まり、真っ白な流れとなって、どうっと音を立てて鳥居を抜け、参道を駆け抜け、夕闇の迫る町に吸い込まれていった。
その流れがすぐ脇を通り抜けてた時、想太は、たくさんの尖った耳と、膨らんだ尻尾を見た。白狐の大群が、町へと駆け下りて行ったのだった。
「いよいよですね。さ、こちらに。」
白露は、いつのまにか用意したのか、提灯を片手に、2人を案内して行く。
ふと、想太の目に、また白いものが映った。
石灯籠の下に、建物の影に、境内のそこここから、白狐の群れが、こちらを窺っている。そういえば、先程まであった人影は消え、日が沈んだばかりだというのに、空は真っ暗だ。
「今この境内は、かくり世、神様のお庭に繋がっています。六花が、満ちているでしょう?」
確かに、そこここに、まるで蛍か、降り積もる雪のように六花の明かりが漂っていた。
だが、やがて通された本殿の前は、そんな明かりが霞むほど、眩い光で満たされていた。
眩しすぎて、自分の輪郭さえも、曖昧になるようだ。
隣で幸佑がひざまづいたのが分かり、それに倣う。幸佑はそのまま流れるように、手をつき、深々と頭を下げた。
「今年の封じ手、染井幸佑殿と、岡本想太殿です。」
白露の声が響く。
答えは無かったが、微かに空気が揺らいだ気がした。
「今年もお役目にお選びいただき、ありがとうございます。お役目に恥じぬよう、精一杯努めさせていただきます。」
頭を低くしたまま、幸佑が言い切ると、今度ははっきりと、光が瞬いた。
「では、こちらに。」
また少し離れた場所へと白露に案内された時には、想太は既に汗だくになっていた。
「どうぞ。」
差し出された冷茶を飲み干すと、ようやく体に潤いが戻った気がした。
そこは、鳥居と本殿のちょうど真ん中に位置していた。
鳥居の外は空と同じで真っ暗で、町の灯りも見えない。
と、その暗闇の中から、白狐が一匹、鳥居の中へと飛び込んできた。
「来ましたね。」
白露の言葉に、幸佑が筆と画帖を構える。
すると狐を追うように、どす黒い影の塊が、鳥居を潜り抜けてきた。影は、しばらくの間うねうねとのたうった挙句、大きな獣に姿を変えた。
(よりにもよって、狐に化けるとは。)
白露の喉から唸り声が漏れた。
「無礼者。」
日が落ちると同時に現れた白狐の群れと共に、司は猫森の北の境界で待機していた。
深く息を吐いて、気を研ぎ澄ませる。
ー「お前は一度でも、すみちゃんの身になって、考えたことは無かったのかい?」
今年の春、猫森の面々に、酷い迷惑をかけたことを知った時の先生の言葉だ。
「1人だけ並外れた力を持つことが、どれほど心細く、苦しいものか。ゆきさんの存在が、どれほど彼女の支えとなっているか、もう一度よく考えてみなさい。」
思い返すと、恥ずかしさに顔が熱くなる。自分のことにばかり必死で、人のことなど、まるで見えていなかった自分に、幸佑は今年も宵宮の参加を許してくれた。
ー「お前が反省して、清水先生も許したんだろ。それなら俺がどうこう言う気はねぇよ。それに、お前の「札」が無いのは、正直しんどいしな。」
(そうだ。俺の「札」は、役にたつ。皆んなの役に立って見せる。今度こそ。)
そのために、3日をかけ、念入りに札を仕掛けたてきたのだ。
「炎」
司が唱えると、仕掛けた札が一斉に高く火柱を上げ、轟音が夕闇を引き裂いた。
あちこちで轟く音を聞きながら、すみの耳は、ほんの微かなさざめきを探していた。聴覚に優れた霊猫憑きだからこそ、果たせる役割。司の仕掛けに驚いて、飛び出してくるすだまの微かな気配。
「2時と4時の方向に1体ずつ。8時の方向に2体。」
そう叫ぶと、白狐が3匹、その方向めがけて、走り出した。
こうやって少しずつ、すだまを猫森稲荷まで追い詰めて行くのだ。
気の遠くなる作業だが、確かな成果があることは分かっている。すみたちの目には、強い決意が漲っていた。
幸佑の筆が動くと、美しい狐が現れ、すだまが変じた獣を引き裂いた。
境内の白狐の群れから歓声があがる。
狐は、引き裂いたすだまの欠片を、長い尾に包みとると、自ら飛び込むように、画帖へ吸い込まれて行った。
「お見事です。」
思わず声に出てしまうが、休む間も無く、また新しい影が、鳥居をくぐった。
毎年、宵宮がやって来ると、白露の心は、幸佑の活躍を誇らしく思う気持ちと、その身を案ずる気持ちの間で、大きく揺れ動く。
幸佑の筆は、年々冴え渡り、猫森稲荷の白狐の誰もが、その技量に、一目置いている。それは、誇らしい。彼ならきっと、今年も立派にお役目を全うするだろう。だが、
(幸佑さんは、こんなこと、望んでいなかったのではないか…。)
白露の心に落ちた疑念は、年々広がって行くのだった。
後編に続く