修学旅行とコーヒーゼリー
1
(久々に丸々一日の休日だな。)
修学旅行に出かけるすみ達を見送って、台所に戻ると、幸佑は大きく伸びをした。
自分の朝食の前に、まず神棚のお稲荷様に、米と塩、水を供え、お参りする。次に仏壇に食パンの端を切ったものと、水をお供えする。本来は白飯を供えるところだが、朝食がパンの日は、いつもこうしていた。パンが好きだった光子なら、きっと喜んでくれるはずだ。
(朝飯はトーストと、他に何かあったかな。)
冷蔵庫の中を確認し、卵と人参を取り出す。
人参は千切りにしてさっと湯掻き、オリーブオイルと醤油で味つける。
目玉焼きは半熟になったところで火を止める。
こんがり焼いたトーストに、人参、目玉焼きの順でのせれば完成だ。
使う野菜も味付けも、応用の効くこのメニューは、手早く済ませたい時の幸佑の定番だ。簡単な割に満足感が有り、光子とすみにも好評だった。
こぼれ易いので喫茶店のメニューには入れていないが、充分入れても良い味だ、と幸佑は思っていた。
(それにしても、すみがうちの店に、クラスメイトを連れてくるなんてな。)
それはほんの数日前のことだった。
「自由時間の計画が決まらなくって。」
とすみが連れて来た3人の女の子達は、賑やかで、楽しそうな時間を猫森で過ごしていった。
すみを幼い頃から知っている、商店街のおじさん、おばさん方は、ちょっと涙ぐんでさえいて、
(やっぱり、友達いなさそうなこと、バレてたんだな。)
と幸佑は思った。
なんにせよ、あのメンバーと一緒なら、修学旅行も楽しい思い出になるだろう。
ゆきさんも、こっそりついていっているわけだし。
(そういや俺達の時も、京都、奈良だったな。)
当時の幸佑は、多くのクラスメイト同様、寺社仏閣になど微塵も興味はなかったのだが、幼馴染の惟が、そっち方面に大層詳しく、みっちりとスケジュールを立ててくれたので、有意義な時間を過ごすことができた。
最も、みっちり過ぎたために集合時間に遅れ、担任から大目玉を喰らうハメになったのだが。
あれこれ思い返しているうちに、キッチンの片付けまで済んでしまった。
まだ朝の9時前、さてどうしたものか。
洗濯物はこの雨では乾きそうにないし、コーヒーはもう少し腹がこなれた頃に飲みたい。
仕事なら、ストックの確認に、帳簿付け、仕込み等、いくらでもあるが、せっかくの休日をそうして潰してしまうのは、流石に勿体ない気がする。
(新しいメニューでも考えるか。)
仕事のうちとはいえ、新しいメニューを考えるのは、ほぼ趣味のようなものだ。この数年アイディアを書き溜めているノートも、すでに20冊を超えている。
喫茶猫森では、季節ごとに、メニューの見直しをしている。
コーヒーや紅茶のように、定番のメニューもあるが、せめてデザートでは季節感を出したい。かといって、あまりメニューが増え過ぎても、作りきれないし、売れ残りが出るかもしれない。
そのため、新しいメニューを足したら、何か削る、という具合に、出来るだけ、メニューの数は動かさないようにしていた。
今、店に出しているメニューはこんな具合だ。
コーヒー (浅煎・中煎・深煎) HOT・ICE
紅茶 HOT・ICE
カフェオレ HOT・ICE
カフェモカ HOT・ICE
自家製アイスのコーヒーフロート(限定20食)
自家製梅酒
ミックスサンドイッチ
チーズとハム、キュウリのサンドイッチ
自家製梅ジャムのパウンドケーキ
バナナと胡桃のパウンドケーキ
チーズケーキ
(もっと夏らしく、涼しげなものが欲しいよな。コーヒーゼリーは…コーヒーフロートとかぶるかな。いや、いっそコーヒーゼリーの上にアイスをトッピングするのもありかも。)
考え始めると、作ってみたくて手がうずうずしてくる。
(とりあえずゼラチンと、食感の違いを見たいから、寒天も買ってこよう。他には生クリームと牛乳と…)
結局雨の中、買い出しに出かけた幸佑は、それはそれで充実した休日を過ごすのだった。
2
(眠れない…。)
旅館の布団の中で、すみはもう何度目になるか分からないため息をついた。
記憶に有る限り、ゆきと光子以外に、誰かと同室で寝たことなどなかったのだから、当然といえば当然だった。
枕元でゆきの息遣いが聞こえなければ、もっと心細くなっていただろう。
周りには理解されないことだが、すみが気がついた時にはもう、ゆきはすみの姉だった。その確信が揺らいだことは、一度もない。
誰に教わったでもないそれは、魂に刻まれた記憶としか言いようがなかった。
逆に、人間はすみにとって、恐怖の対象でしかなかった。頭では分かっていても、身体が拒絶してしまうのだ。
怯え、威嚇し、体調を崩すすみに、光子は根気強く接し、幸佑は自分の居場所をあけ渡して、家を出ていってしまった。
(もし私がいなかったら、)
暗い天井を見つめながら、すみは考えた。
(幸佑はずっと、家にいたのかな。そうしたらおばあちゃんも、ずっと元気だったのかな。)
「…すみ。眠れないのかい。」
ゆきのしっぽが伸びて来て、優しくすみの頬を撫でた。
そのまま赤ん坊をあやすように、頭をぽん、ぽん、と撫でてくれる。
こうやって姉は、いつだってすみが暗い思考に沈むのを引き止めてくれた。
(ありがとう、姉さん。)
お返しにゆきの背中を撫でながら、すみは瞼を下ろした。
3
「もしかして、すみちゃん?」
聞き覚えのある声に呼び止められたのは、鴨川のほど近く、雑誌に載っていた、人気の喫茶店に入るため、長い待ち列に並んでいる時だった。
「…惟さん?」
その人は幸佑の幼馴染で、喫茶猫森にも時々顔を見せていた。何年か前に京都で教職についてから、忙しいのか姿を見せることは無くなっていたが…。
「本当にすみちゃんだ。久しぶりだね。修学旅行の時期だとは思っていたけど、まさか会えるなんて。」
にこにこ笑う惟に、香織がすみの背中をつついた。
「どゆこと?知り合いなの?」
「えっと、兄さんの幼馴染の細美さん。確か中学の先生…でしたよね。」
「そうそう。すみちゃんのお兄さんの幼馴染で、中学校で国語を教えています。細美と言います。」
惟の挨拶に、香織達の警戒が解けるのが分かった。3人ともほんの数日前に、喫茶猫森で幸佑に会ったばかりなのだ。
「今日は振替休日で、コーヒーを飲みに来たんだけど、ここまで混んでいるとはね…。僕は諦めて他の店に行こうと思うけど、よければすみちゃん達も一緒に来るかい?」
(どうしよう…。)
正直、かなりありがたい申し出だった。このまま列に並んでいては、待っているうちに自由時間が終わってしまうことだってあり得る。しかし、いくら兄(ややこしくなるので、そう説明している。)の友人とはいえ、無関係な男性と一緒に行動しても良いものだろうか。
「すみ、お願いしようよ。このままじゃ、自由時間終わっちゃうもん。」
香織の言葉に、他の二人も頷く。
「よかった。素敵なお店だから、気に入ってもらえると思うよ。」
もう歩き出した惟の背を追いかけ、すみ達は列を離れた。
その店は、路地をいくつも曲がった、地元民でないとちょっと分からないような場所にたっていた。
町屋づくりの漆喰壁に、水色のタイルが鮮やかな外装も、床や壁に飴色に使い込まれた木材を使った内装も、いつ人気が出ても不思議でないように思えたが、立地故か、すぐ店内に入ることが出来た。
「空いててよかったよ。連れて来ておいて、行列だったらどうしようかと思った。」
「素敵なお店ですね。」
「コーヒーもデザートも美味しいよ。僕のお勧めはコーヒーゼリー。」
「うーん、どうしよう…。」
「決められない…。」
プリンアラモード、メロンソーダ、チョコレートパフェ…どれも美味しそうだ。
真剣に悩んだ結果、惟とすみはコーヒーゼリーを、香織はプリンアラモードを、愛と由美はチョコレートパフェを頼み、皆で一口ずつ分け合った。
「僕が誘ったんだから。」という惟にご馳走になり、残り時間は、予定通り土産物屋巡りをしようとなったところで、惟が、
「もし大丈夫だったら、すみちゃんと久しぶりに話せないかな。」
と言い出した。
すっかり打ち解けていた香織たちにも、
「宿の近くで合流すれば大丈夫でしょ。」
と背中を押されて、すみは、自由時間の残りを惟と過ごすことになった。
少しばかり戸惑ったが、土産物にはあまり興味がわかなかったので、寧ろ、京都の街をゆっくり歩けることが嬉しかった。
「強引にごめんね。まさかこんなところで、すみちゃんに会えると思わなかったから、嬉しくて…。食べたばっかりだし、鴨川を見ながら散歩でもしようか。」
「はい。」
「懐かしいな。僕たちの修学旅行も京都だったんだよ。僕は昔から歴史とか建物とか好きだったんだけど、クラスメイトは皆あまり興味がなくてね。結局幸佑1人が付き合ってくれたんだ。」
「幸佑らしいですね。」
「本当に。昔っから、ほんと責任感が強いんだ…。」
鴨川を渡って、夕暮れ時の涼しい風が吹き抜ける。昼間は既に真夏の暑さっだったので、一層心地良かった。
(そういえば、想太も去年、修学旅行で来たって言ってたっけ。)
想太も幸佑も、同じように、この川を見たんだろうか。そう思うと、なんだか不思議な気がした。
「そういえば、すみちゃん、進路は決まったの?」
「え?」
急に話題が変わり、すみは戸惑った。あまり考えたくないことだったので尚更だ。
「いえ、まだ決まっていません…。」
「なら、京都に来ないかな?」
すみは、惟の整った顔を見つめた。この人は一体、何を言っているのだろう。
「あの…なんで、ですか。」
「すみちゃんの為にも、幸佑の為にも、その方が良いと思うんだよね。幸佑だって、いつまでも、すみちゃんの面倒を見ているわけにもいかないと思うんだ。」
「!」
冷たい刃物で、心臓を切り付けられたような気がした。
「僕を手伝ってくれたら、自立するのに充分な支払いはするんだけど…。あれ、どうしたの?すみちゃん」
立ち止まったすみに、惟はにこにこと手を差し出す。
「すみちゃんは特別だから、分からないかな。幸佑も僕も、君以外の人間は、常にすだまの危険に晒されているんだよ。いつ、どんな苦痛を味わうか、命を落とすかも分からない。
すみちゃんだけなんだよ。全くすだまを寄せ付けないなんて人は。フィールドワークで日本中、海外も巡ったけれど、すみちゃんみたいな人は、1人もいなかった。
すみちゃんは、君と同じ力を、誰もが持てたら、素晴らしいと思わない?
もう誰も、理由も分からない、痛みや病気に苦しめられることも、見えるというだけで、理不尽な役割に人生をすり減らすことも無くなるんだよ。」
惟の手が伸び、凍りつくすみの腕を掴んだ。
「痛っ。」
すみが悲鳴を上げた瞬間、白い影が惟に飛びかかった。
「すみを離せ!」
鋭い牙が、惟の腕に食い込んだ。力が緩んだ隙に、すみは思い切り惟を突き飛ばしていた。
「姉さん!」
放り出されたゆきの体に、細い蔦のようなものが絡みついている。掴むと、鋭い棘のようなものが肌を刺した。
構わずひきちぎり、ゆきを抱きしめた時、ぞわり、と悪寒がはしった。振り向くと、蹲る惟の体から、黒い霧が立ち上り、いばらの蔓が、こちらに迫っていた。
ゆきを抱きしめて、すみは逃げ出した。人混みに紛れ、息が切れるまで走っても、惟の声が、どこまでも追いかけてくる気がした。
夕食後、顔色が悪いと心配する香織たちに、ちょっと疲れたから先に休むと伝え、すみは部屋に戻った。
1人になると、疲れや戸惑いが押し寄せ、すみは顔を顰めた。
(惟さん、なんで…。)
ぴったりと寄り添うゆきを撫でながらも、心の中は嵐のように吹き荒れていた。
(幸佑には、なんて言おう。いや、言えるわけない。あんな…。)
何度も何度も繰り返し考えていた時、
ピロン
着信音が響いた。
ピロン
続けてもう一回。
恐る恐るスマホをみて、すみは肩の力が抜けるのを感じた。
ーすみちゃん。修学旅行楽しんでいますか?暑いから、気をつけてね。
ー楽しんでるか?暑いから気をつけろよ。
「どうしたの?」
ゆきがぐりぐりと頭を押し付けてくる。
「想太と幸佑が、全く同じこと言ってきて…。修学旅行楽しんでるか、と、暑いから気をつけろって。」
ゆきは伸び上がって、すみの頬を舐めた。
「よかったね。」
「うん…。」
4
「痛たた、これは腫れるかもしれないな。」
くっきりとついた、噛み跡を見て、惟は顔をしかめた。
アパートに帰ってすぐ、手当てをしたが、傷の周りは既に赤黒く変色していた。
猫の咬み傷は細菌感染の危険が有る。下手をすれば病院送りだ。
それでも、神に仕える霊猫に咬まれたのだ。腕が無くならないで済んだだけマシと言えた。
ジンジンと熱を持つ痛みを感じながら、それでも惟の気分は最高だった。
(猫森を離れたら加護の力は無くなるか、弱まるかと思っていたのに。それでもあんなに強いなんて…。あぁでも、つい嬉しくて、怖がらせてしまったかな。今度はもっと気をつけて話そう。きっと分かってくれるはず。だって皆にとって良いことなんだから。皆にとって。)
夕暮れ時の弱い光が、惟の影を壁に映していた。その影が不気味に膨らんでいることに、惟は気が付かなかった。
ピリリリリリ
ふいに響いた着信音に、楽しい気分を邪魔され、惟は顔を顰めた。
乱暴につかんだスマホの画面を見て、一瞬、動きが止まる。
ピリリリリリ
鳴り続ける着信音に、のろのろと通話ボタンを押した。
「…もしもし?」
「あ、惟?急にごめんな。今、大丈夫だったか?」
「幸佑。大丈夫だけど、どうかした?」
幼馴染の声がいつも通りに明るいことに、ほっと胸を撫で下ろす。
自分の求めるものを、誰より理解してくれるであろう友人は、同時に、自分のやり方を、誰より咎めるだろう相手でもあった。ことすみに関しては、幸佑は頑ななところが有った。
(まるで自分が親代わりになったみたいだ。そんな責任無いだろうに。)
「いや、用ってわけじゃないんだけど、どうしてるかなって。暫く連絡してなかったし。」
「元気にしてるよ。…あぁ、そう言えば今日、すみちゃんに会ったよ。修学旅行だったんだね。」
「え!本当か。」
「本当だよ。偶々行った喫茶店で、順番待ちしているすみちゃんとお友達に会ったんだ。その後、空いている別のお店に案内して、一緒にお茶したよ。」
「えぇ〜。どんな確率だよ…。」
「僕もびっくりした、凄い偶然だよね。つい嬉しくて話しかけちゃったから、余計なお世話じゃなかったら、良いんだけど。」
「あいつは嫌だったら、ついていかないだろ。お前に会えて嬉しかったんだよ。ありがとな。」
「…なら良いけど。幸佑はどう?また無理してる?」
「なんで無理してるのが前提なんだよ。」
「だって幸佑、責任感が強いから、心配なんだよ。」
「そうか?そんなことないだろ。」
「だってほら、僕たちの修学旅行の時だって、寺や神社に興味なんてないのに、1人だけ付き合ってくれたじゃないか。」
「?、それは、お前と一緒に回りたかったからだけど。」
「え。」
「いやなに驚いてんの?2人であちこち巡って、楽しかったじゃん。え、まさか惟、つまんなかった?」
「楽しかったよ!でも幸佑、神社とか寺とか、興味なかったし…。」
「興味なかったけど、惟が色々解説してくれたから、面白かったぞ。」
「…そうだったんだ。」
「まさか通じてないとは思わなかったよ。ひどいな…。…そうだ、惟、今年は東京来る予定とかないの?」
「また急だなぁ。うーん。今んとこないかな…。お盆とや正月も、部活の大会とか、入試対策とか有るし…。」
「そうか、先生は大変だな。」
「幸佑こそこっち来たら?案内するよ?」
「本当、そのうち行きたいな。」
「あ、…幸佑ごめん。そろそろ切らないと。」
「あ、急にごめんな、ありがとな。」
「連絡くれて嬉しかったよ。…じゃ、また。」
通話を切って暫くの間、惟は、ぼんやりと空を見つめていた。
幸祐と惟が初めて会ったのは、確か9歳の時だ。2人とも「見える」人に引き取られて、生きる世界の変わりように戸惑っている、そんな時だった。
お互い同年代の「見える」相手に会うのは初めてで、仲良くなるのに時間はかからなかった。
惟の求めるものを初めて話した相手も幸佑だった。
「六花を留まらせておく方法?」
「うん。六花って集めてきても、数日で消えちゃうでしょ?もっとずっと持っていられないのかなって思って。」
「そんなことできたら、皆やってるんじゃないか?」
「でもさ、今できなくても、できるようになったら良いと思わない?そうしたら、もう、酷い目にあったり、嫌な思いする人も…。」
(母さんや、僕たちみたいに…。)
急に口をつぐんだ惟を気遣ってか、幸佑は惟の肩を叩いてこう言った。
「俺もできるようになったら良いと思うぞ。」
「本当に?」
「どうしたら良いかは、分かんないけどな。」
「六花が本当に祈りや願いの欠片が集まったものなら、そういうものの歴史を調べれば良いと思うんだ。昔話とか伝説を調べれば…。」
伝承に残る土着の信仰では、人々は思いがけず、超常的な存在から、恩恵を授かる。
これが六花のことを指しているのではないかと、考えていた惟は、子どもの頃から手に入る限りの、伝承や言い伝え、民話を集めてきた。自分の考えが正しかったと、そう確信したのは、高校を卒業した次の年、まだ幼いすみが、幸佑の家に貰われてきた時だ。
すみの、簡単に折れてしまいそうな、細い体からは、溢れるように六花が立ち上り、口にこそださなかったが、その場にいた誰もが圧倒されていた。
(あの力が皆のものになれば…。)
あの時も今も、惟の考えは変わらない。それなのに今、こんなにも虚しいのは何故だろう。
まるで大切な何かを置き去りにして、進んできてしまったような。
さっきまでは、あんなにも高揚していたのに。
(…幸佑は、なんでこんな時に電話なんて。)
「…煩わしい。」
自分のものとは思えない声がこぼれ出て、惟は口を押さえた。
それでも指の隙間から、次々と言葉がこぼれ落ちる。
「疎ましい。」
「妬ましい。」
惟は漸く、壁いっぱいに膨れ上がった影に気づいた、まるですがるように惟の肩にしがみついて、汚れた言葉を吹き込んでくる。
「…この!」
机からすだま封じの画帳をひったくる。
「死ん…」
「ーやめろ!」
壁に叩きつけた画帳は、一瞬で燃え上がった。
炎が消え、すっかり暗くなった部屋の中、荒い息の音に混じって、掠れた声が響いた。
「…皆の為なんだ…。」
5
すみたちが、喫茶猫森に帰り着いた時、幸佑はちょうど店じまいをしているところだった。
「お疲れ様。今日はもう飯作らないで、宝来軒に行こうぜ。」
「うん。分かった。」
正直疲れているし、夕食の支度をしないで済むのは助かる。だが、着替えているうちに、段々と、違和感が首をもたげてきた。
そもそも幸佑なら、外食しようがしまいが、修学旅行帰りのすみに夕食を作らせたりは、しないはずだ。
台所に降り、家用に使っている冷蔵庫を開けたところで、すみの違和感は確信に変わった。
「幸佑、冷蔵庫に食材がなにもないんだけど。」
「や、なに持ってことはないんじゃないか。」
「店用の方はちゃんと揃ってるけど…。家の方は牛乳と卵と…。」
一段を丸々塞いでいる。大量のコーヒーゼリー。
色の濃いもの薄いもの、ミルクシロップがかかったものに、パンナコッタを乗せて固めたのだろうか、2層になったものまである。
「新メニューの開発でもしてた?」
すみの問いに、幸佑は気まずそうに頰を掻いている。
「食事もしないで?」
つい責めるような口調になってしまう。足元でゆきも呆れたような顔をしていた。
「いや、食事はちゃんととったぞ、ほら、いつもの、トーストに野菜と卵をのっけるやつ。」
「3日とも?」
「…すまん。」
ついため息が漏れた。
幸佑にはこういうところがある。何より食べることが好きなくせに、一度熱中すると、寝食を忘れてしまうのだ。
「いいよ、もう。今日は宝来軒に行こ。でもこのゼリー、どうする?」
「あー。またご近所に配るか。」
「良いのかな。前がチーズケーキで、その前がパウンドケーキでしょ。」
「味は悪くないと思うんだよ。」
幸佑の言葉通り、ご近所に配ったコーヒーゼリーの評判は上々だった。
宝来軒で五目そばを食べたすみも、デザートにひとつもらった。
ひんやりとしたゼリーは、苦くて、少し甘かった。
第6話に続く