動物園と小鯛焼
1
喫茶猫森の営業時間は、8:00から18:00。定休日は月曜日のみ。たまには臨時休業もするし、すみに手伝ってもらっているとはいえ、我ながらよくやっている、と幸祐は思う。
その分、家事に関しては、すみに頼りきりなわけだが…。
光子の仕込みが良かったのか、元々の素質なのか、すみの家事は、特技と言って良いレベルだった。幸佑が今すすっている、新玉ねぎと絹さやの味噌汁だって、中学生が作ったとは思えない出来栄えだ。
そのうえ趣味で店のメニュー開発までしているのだから、恐れ入る。
(料理とかは、好きだと思うんだけどな。)
「すみ、こないだの進路表、どうした?」
きんぴらをつつていたすみの手が止まる。
「やっぱり、進学しなきゃダメ?」
「進学しないで、何か特別したいことがあるわけじゃないんだろ?だったら高校か、俺みたいに調理関係の高等専修学校とか。」
「…人間のふりするのは疲れる…。」
「…将来が不安になる発言だな、おい。」
すみの言いたいことは、なんとなくだが分かる。こんな態度も口調も、すみが見せるのは幸佑と居る時だけだ。接客の時は、実にうまく猫をかぶって、中学生らしい振る舞いをしている。恐らくは学校でもそうなのだろう。
素の自分と見せている自分、これほどに違えば、息が詰まって当然だ。
(どうにかならないかね。)
助けを求めてゆきを見ると、白い尻尾がゆらりと揺れた。
「そうだよ、すみ。ここが潰れた時のことも考えておかないと。」
「潰さねぇよ。」
緊急事態宣言から自粛ムードの時期は、他の多くの飲食店と同じように、もうダメか、という瞬間を幾度も味わった。それを死ぬ気で立て直したのだ、今更潰してなるものか。
一方すみは、ゆきの軽口にも、珍しく答えない。無言は、これ以上話したくない時のすみの意思表示で、こうなると、どうやってもとりつくしまがないのだ。
幸佑はため息をついて、残りの夕食を片付けることにした。
(なんてことが、二月前にあったのにな。)
真剣な表情で、虎の絵に六花をこめる想太の様子を眺める。
(こんな短時間であんなに変わるとはな。)
想太が猫森にやってきて一月、元々絵が好きなこともあってか、その成長には目を見張るものがあった。
今もみるみる虎の姿が絵から抜け出し、天に向かって吼え、空に掻き消えた。
「やっぱり、すぐ消えちゃうんです。」
「いや充分だよ。描いた形を維持するのは難しいんだ。護身術程度なら、すぐ終わりそうだ。それよりも、」
これほどになるには、相当打ち込んだんだろう。
「あまりのめり込み過ぎるなよ。すだまも六花も、人の領分を外れた存在だ。踏み込みすぎて、良いことはない。」
「あ…すみません。俺、つい夢中になり過ぎてて…、気をつけます。」
あれほど怖い思いをしていながら、意外に度胸のある想太に驚きつつ、少しばかり心配にもなった。
(次の月例会で、藤代先生に相談しておくか…。それはそれとして、想太くんには感謝だな。)
想太と初めて話した時、すみには、こういう存在が必要だと思った。同じ世界が見えて、けれども、すみを特別扱いしない相手が。
自分が見ているもの、感じているものを、共有できる相手がいないというのは、苦しいものだ。
(俺だって、惟がいなけりゃ、キツかったもんな。」
幼馴染の顔が思い浮かぶ。
忙しさにかまけて、暫く連絡していない。元気にしているだろうか。
「じゃあ、今日はこれくらいにしておこうか。」
「ありがとうございます。」
あ、ひとつ思い出した。
「そういえば、今度二人で、動物園に行くんだってな。」
2
動物園に行こうと思ったのは、ほんの思いつきだった。
数え切れない程、虎を描いては六花をこめる内に、想太の虎は、紙の外へと踊り出すようになったが、ほんの一瞬しか形を保てなかった。どれも、見る間にほどけて空中に溶けていってしまうのだ。
もっと「生きているような」絵とはどんなものなのか。
調べているうちに、ある絵に出会った。
「大師子図」竹内栖鳳。日本人の殆どがまだ、本物のライオンの姿を知らない時代、ヨーロッパの動物園で、生まれて初めてライオンを見た画家が、その驚きと感動を描いた傑作だ。
(本当に、息をしているみたいだ。)
迫力もさることながら、たてがみの一本まで描いたような緻密さにも圧倒される。
要は、魅了されてしまったのだ。
(そういえば俺、本物の虎って見たことないな。)
安直といえば安直だが、絵の基本は写生。その原点に立ち返ろうと、動物園へ行くことを決めたのだが…。
ジョギングの時にすみに話すと、思いの外面白がってくれて、一緒に行こうという話になったのは、ごく自然な流れだった。
(そう、デートじゃない、断じて。)
土曜日の上野、想太は自分に言い聞かせていた。
つい先程まで、全くそんなつもりはなかったというのに、すれ違った女の子たちがの会話が耳に入ってしまったのだ。
「ねぇ、あの子のワンピース、レトロで可愛くない?」
「ほんとだ。デートかなぁ。可愛い。」
この一月、制服かジャージか、店番の時の、白シャツにジーパンという、シンプルな服装に慣れていたが、今日のすみは、明るい黄色のワンピースを着ていた。白の水玉模様に丸襟と広がった裾が、確かに少しレトロな印象を受ける。
「どうしたの、大丈夫?」
不思議そうなすみに、ガクガクと頷く。
(どうしよう、デートとか、全然考えてなかった。いや、でも、それはすみちゃんもおんなじはずだ。偶々動物園に来てみたかったから行くって言ったに違いない。
あ、でも幸佑さんは、絶対デートだと思ってる。というか、俺たち二人が気づいていないこと込みで、面白がっているに違いない…。)
「やっぱり具合悪い?」
今度は少し不安げに聞かれて、慌てて、否定する。
「ごめん、違うんだよ。さっきすれ違った人たちが、すみちゃんの服褒めてたからつい…。」
「あ、これ?おばあちゃんが作ってくれたの。」
「え、作ってくれたの?…前から思ってたけど、すみちゃんたちのおばあちゃん、すごく多才な人だね。」
「喫茶店をやる前は、お母さんと二人で仕立て屋をやってたんだって。他にも色々作ってくれたよ。ブラウスとか、着物とか。」
「本当にすごいね…。あ、すみちゃん、門見えてきた。」
「ほんとだ。わぁー、もう並んでる。」
「大分早くきたのにね。でもやっぱり、ここまで来たからには、」
「「パンダは観たいよね。」」
2
「幸佑、今日はまたえらく男前じゃないか。デートか?」
良くも悪くも人の距離が近い、昔ながらの商店街だ。家を出て数歩で、声をかけられた。
「着物でデートって、どんなだよ。ばあちゃんがお世話になった方のお茶席に呼ばれたんだ。ていうかこのやりとり毎月してるだろ。」
小さな商店街で、正月でもないのに、若者の和服は目立ち過ぎた。
主催者の藤代先生が、
「どうぞ気楽な格好で。」
と言っているのだから、普段通りの格好で良いわけだが、何故か参加者が皆和服で出席しているため、一人だけ違う格好で行くのも、どうにも尻の座りが悪い。ただでさえ、「猫森の子」と注目を浴びるのだから、少しでも目立たずにすませたかった。
「光子さんは、顔が広かったからなぁ。でも店に付き合いに、これだけしっかりやってくれる息子がいて、光子さんも幸せ者だな。」
うちの息子も‥と始まったところで、
「ごめん、バスの時間がもうすぐなんだ。」
幸佑は逃げ出した。もうこれ以上捕まってたまるかと、足早にバス停に向かう途中。
(息子じゃねぇし。)
胸の中でいじけた声が響いた。
幸佑が正式に光子の養子になったの、いよいよ店を継ぐことが決まってから、もう20歳を超えてからだ。それまでの幸佑はといえば、すみが家に来て1年も経たないうちに、仕事を見つけて家を出て、恩人である光子が体を壊すまで、ろくに帰りもしなかった。
それなのに周りは、幸佑を「孝行息子」、「良い兄」だという。
普段は笑って流せるが、時々、たまらない気持ちになった。
(俺はばあちゃんにしてもらったことを、すみに返しているだけなのに。)
バスの車窓から眺める緑が眩しい。自分で運転している時は気づかないが、もう夏が近づいているのかもしれない。
(そういやもうすぐ、すみの修学旅行だっけ。…京都、俺たちもバスで回ったな。惟が詰め込み過ぎるから、乗り継ぎが大変で…。」
つらつら思い出しているうちに、目的地をの名前が耳の飛び込み、幸佑は慌てて降車ボタンを押した。
バス停から煉瓦塀沿いに歩くと、大きな門が見えてくる。代々この土地で地主をしている、藤代家の屋敷だ。屋敷に向かう道は、両脇に植えられたサツキと紫陽花が、それぞれ見頃を迎えていた。庭園に入ると、緑がいっそう濃くなる。池のほとりには茶室もあるが、毎回4〜50人が集まるこの会では、庭園に面した大広間を使うのが常だった。
四季の草木が程よく手入れされた庭園を歩くのは、あまり気乗りしないこの会での、数少ない楽しみだ。許されるならこのまま、庭を散策していたい。同じように考える人も多いのか、庭園にはちらほらと、散策を楽しむ人の姿が見えた。
「皆さん、今月もよくお越しくださいました。」
年配の女性が頭を下げると、広間にいた全員が一斉に頭を下げた。幸佑同様、殆どの人間が師弟関係など無いはずだが、藤代の物腰と人望の厚さがなせる技だった。
「今、お茶とお菓子をお配りしますわね。皆さんもどうぞ楽になさって。せっかくの機会ですもの、情報交換などなさっていて下さいね。」
ただ見える、というだけで、人ならざるものたちと渡り合うことになった幸佑たちには、しっかりとした組織などない。それでもなんとなく、見えるもの同士の助け合い、のようなものは存在している。
茶道の師範でもある藤代が、屋敷の広間を開放して開いているこの「月例会」は、月一度、そんな者同士が顔を合わせ、近況を報せあう、貴重な場だった。
知り合っておけば、いざという時助けてもらえるし、他の「オガミヤ」の経験談は、勉強になる。特に直近のすだまの目撃情報と、対処については、後で藤代が取りまとめてくれるとはいえ、ぜひ詳しく聞いておきたかった。
だが同時に、多くの人に囲まれて、「猫森の子だ。」と囁かれるのは、気分の良いものではない。
(この時ばかりは、すみの気持ちがわかるな。)
こうやって、自分一人が異質なものだと、日頃から感じているのなら、一方的に進学しろというのは、酷なのかもしれない。
「幸佑くん、いらっしゃい。」
いつのまにか正面に移動してきた先生に、笑いかけられ、慌てて頭を下げる。
「すみちゃんも、お元気?」
「いつもお世話になっております。お陰様で俺もすみも元気にしております。」
「良かったわ。私は二人の後見人ですもの。困ったことがあったら、いつでも言ってちょうだいね。」
(あ、これは牽制だな。)
潮が引くように囁き声が止み、皆情報交換を始めている。はっきりとした上下関係はないものの、月例会を主催し、誰よりも顔の広い藤代を敵に回したい者が居るはずはなかった。
「本当にいつもありがとうございます。」
「お礼を言われるようなことは何もしていないわ。」
「…もし、よろしければ、後で少しご相談させていただきたいことがあるのですが…。」
「あら、嬉しい。では、月例会が終わったら、また声をかけさせていただくわね。」
「はい。ありがとうございます。」
もう一度深く頭を下げると、藤代は優雅に礼を返して、下がっていった。
(いつものことながら、すごい人だな。)
藤代の立ててくれたお茶で一服すると、凝り固まっていた気分がほぐれていくのがわかった。
(よし、あとは顔馴染みと情報交換して、庭でも眺めながら静かにしていよう。)
磨き上げられた縁側に、新緑が映り込んでいる。
月例会の後、幸佑が通された座敷から眺める庭も、また見事だった。庭から摘んで来たのだろうか、床の間には紫色の紫陽花が生けられ、座敷に潤いを感じさせていた。
「ごめんなさい。お待たせしちゃって。」
「いえ、こちらこそすみません。お忙しいのに。」
「ふふ。」
「?」
「小さかった幸佑くんが、すっかり大人になったと思って。」
「やめて下さいよ。」
(小学生のうちは、ばあちゃんに連れられてきていたっけ。)
もうすぐ三十路だというのに、先生にとって幸佑は、その頃とさして変わらないのだろう。
「…そう。高校生で、急に見えるようになったのね。」
「はい、俺は他に例を知らないので、今後どう接していくのが良いか分からなくて…。」
「何故だか10歳を超えてから見えるようになる人は、極端に減るのよ。もしかしたら誰にも言い出せない人が埋もれているのかもしれないけれど…。それでも私が知る限りで5人はいたわ。どれもすだまに憑かれたことで、自覚するようになったみたいだけど、元々素質があったのか、幸い皆上手く順応しているわ。」
「その子もそんな感じです。」
「幸佑くんは何が心配なのかしら。」
「なんといいますか、恐怖心より、好奇心が勝っているように見えるんです。怖い思いもしているはずなんですが、俺たちみたいに、できるだけ距離を取ろうとする感じがなくて、そのおかげで、すみやゆきにも普通に接してくれるのはありがたいんですが。ちょっと危なっかしいように思えて。巻き込んでおいて自分勝手な話ですけど。」
「幸佑くんが助けなければ、その子はもっと大変なことになっていたはずよ。優しくて賢そうな子だし、そこまで心配するようなことも、ないように思うけれど。
でも幸祐くんが心配なら、私も指導をお手伝いしましょうか?どんな子か、様子を見るだけでも良いし。」
「…お言葉に甘えてもよろしいでしょうか。」
「ええ、もちろん。あ、ただ報酬代わりに、幸佑くんがコーヒーをー入れてくれるかしら。」
「先生にだったら、いつでも喜んで淹れますよ。」
「あら嬉しい。…幸佑くん。私はその子にちょっと期待しているの。好奇心は危うさでもあるけれど、可能性でもあるわ。もしかしたら、私たちにはない視点を、その子は見せてくれるかもしれない。
だから幸佑くんも、何にでも責任を感じ過ぎるのは、おやめなさい。あなたはなんでも自分で背負い込んでしまうから、時々心配になってしまうわ。」
そう言って藤代は、少し寂しげに笑った。
「そう言うところが、みっちゃんと似ているわね。」
3
すみは、動物園に来るのは初めてだ、と言っていた。自分も小学校の遠足以来、初めてで、もし退屈だったらどうしようと思っていたが、不要な心配だったようだ。
念願のパンダと対面したあとは、キリン、カバ、ハシビロコウ、アフリカゾウと、次から次へと見て回り、二人とも「凄い!」「可愛い!」と、テンションが上がりっぱなしだった。
流石に昼を回る頃にはぐったりしてしまい、本命のスマトラトラの前に、休憩所でサンドイッチを頬張った。すみが作ったサンドイッチは、薄くマヨネーズを塗ったパンに胡瓜とハムを挟んだものと、薄く切った苺と蜂蜜を挟んだ2種類で、どちらもお世辞でなく、店のメニュー候補に挙げられる味だった。
これもまた、すみが用意してくれたアイスティーで喉を潤して、いよいよ今日の本命、スマトラトラだ。
まず驚いたのは、色の美しさだった。赤みがかった茶色の体に、くっきりと黒で模様が浮き出し、口元から腹にかけての白も、その美しさを強調していた。
それに迫力は想像以上のものだった。その太い足も、重みを感じさせる歩き方も、大きな声を開けてあくびをする様も、全て描き留めておきたくなる。暫く夢中で描き続けて漸く、
(すみちゃんは退屈じゃないかな?)
と不安になった。
そっと横に視線を移すと、すみはすみで、脇目もふらず、描き続けている。
想太が鉛筆で細部を描き込んでいくのに対して、すみは筆ペンで最初に色を塗り分け、その上に模様や、耳や、口を、描き加えていた。どこか愛らしい反面、見事に、虎の表情や動きを捉えている。
「どうかした?」
視線に気づいたすみが、小首を傾げる。
「いや、二人とも同じものを見ているのに、全く違う絵になるのってなんだか面白いな、と思って。」
自分の絵とすみの絵を比べてみせる。
「…。」
「どうかした?」
何か考え込むような顔をしていたすみだが、やがて眩しそうに目を細めると、頷いた。
「…そうだね。」
動物園を満喫した帰り、すみが、
「想太がよければ、寄りたいところがある。」
と言ってやってきたのは、公園から少し離れた、小さな和菓子屋だった。
どこか茶室を思わせる、心地よい店内で、すみに勧められるまま、抹茶と和菓子のセットを注文する。
和菓子は幾つかの中から選べ、想太は枇杷を模したものを、すみは手のひらに乗るほどの、可愛らしい小鯛焼を選んだ。
「近くの美術館まで来たことあるけど、このお店は知らなかったよ。すみちゃん、よく知ってたね。」
「おばあちゃんが好きで、美術館帰りによく来ていたから。」
「すみちゃんのおばあさんって、ほんと多趣味な人だったんだね。」
「うん。特に和菓子と喫茶店は大好きだったから、休みの度に通ってたよ。」
「じゃあ、すみちゃん凄く詳しいんじゃない?」
「ん。そうかも。」
「いいなぁ!今度またどこか連れていってよ。」
「…ありがとう。」
「え、なにが?」
「別に。」
何故お礼を言われたのかは分からなかったけれど、すみが嬉しそうだったので、それで良いと思うことにした。
注文した和菓子と抹茶は驚くほど美味しかった。
4
商店街の人たちの冷やかしを掻い潜りながら、猫森に帰り着くと、店の前の陽だまりで猫が二匹、毛繕いをし合っていた。邪魔をしても可哀想かと、勝手口に回り、鍵を開けたところで、足元から、声をかけられた。
「おかえり、幸佑。」
見下ろすと、ゆきと、先ほどのトラ猫が体を擦り付けていた。
「デートじゃなかったのか?」
「コトラと?まさか。去年までうちにいた赤ん坊だよ。覚えてないかい。」
「あのチビが?」
2年ほど前、すみとゆきが、痩せ細った母猫と、仔猫を4匹、拾ってきたことがあった。
正直迷ったが、幸佑はいくつか条件付きで、家で保護することを許した。
・清潔にして、病院で診てもらうこと。
・すみの部屋から出さないこと。
・すみは手洗いを徹底し、1階で店専用の服に着替えること。
・里親を探すこと。
自分でも口うるさいと思わなくもなかったが、食べ物を扱う者として、ここは譲れなかった。
ゆきさんにだって、想太のような特殊な客の相手をする時以外、店には降りてこないよう、お願いしている。
1年のうちに皆里親が決まり、引き取られて行ったのは、本当に幸運だった。
1番やんちゃで大きな黒はすみの同級生の家に、母親似の白は幸佑の知人の家に、母親と1番のチビは藤代先生の家に、そして最後に残った茶トラが、同じ商店街の和菓子屋、松葉堂に貰われて行ったのだ。
「えー、お前こんなにでっかくなったのか。」
手のひらにすっぽり収まるくらいだったのに、と背中を撫でてやると、喉を鳴らしてごろん、とお腹を見せる。どうやら、ずいぶん可愛がってもらっているらしい。こちらも楽しくなって、うりゃうりゃとお腹の毛を掻き回す。
「猫は生後2年で、人間の24、5歳になるらしいよ。この子も立派に一人前だ。」
「へー。とすると、ゆきさんはいくつくらいになるんだ?」
「生まれて9年経つから、人なら50歳ちょっとかな。でも私は、100まで寿命があるから、他の猫とは違うんじゃないかな。」
「それってやっぱり、霊猫の力なのか?」
「そうだよ。そうでないと、すみを見守れないからね。」
…それは、良いことなのだろうか。ちら、と先ほどの仲睦まじい様子の二匹が思い浮かんだ。
(多分すみも気づいてるんだろうな。)
少し異常なまでにゆきを大切にする、すみの気持ちが、分かった気がした。
(犠牲にした、とか思っているんだろうな。)
かつて自分が、光子に感じていたのと同じ感情だ。もっとも自分はそれが反発に変わってしまった訳だが。
二人の間に何があったのかは、誰も知らない。
ゆきが、
「神との約束事を、明かす訳にはいかない。」
と言い、誰もそれ以上踏み込まなかったからだ。
すみはそもそも、何も知らないようだった。
「私が望んだことだから、辛くはないんだ。」
ゆきは幸佑を見上げて、青い目を細めた。
「お前は本当に、なんでも背負いこむね。」
すみが家に着いた時には、幸佑は少し早い夕食の支度を始めていた。
慌てて手伝おうとするすみを手で追い払う。
「良いって。店を開けなかったからか、料理したい気分なんだよ。あと辛いもん食いたかったから、今日はドライカレーな。」
「うーん。お土産買ってきたけど、カレーには合わないかも。」
「なになに」
一区切りついたのか寄ってきた幸祐に紙包みを手渡す。
「おぉ、桃林堂の小鯛焼じゃん。懐かしいな。ありがとう。良いよ先に食っちゃうから。」
「幸佑も行ったことあったんだ。」
「ばぁちゃんとな。小さい頃はよく連れてってもらったよ。昔は日曜が定休日だったの覚えてるか?あれって俺たちを引き取った後も、食べ歩きをしたかったからなんだぜ。」
毎週、嬉々として支度をしていた姿が蘇った。
「おばあちゃんらしい。」
「お陰で色々美味いもの食べさせてもらえたけどな。
…俺が、この店を継ぐって決めたのも、色んなところに連れて行ってもらったからかもな。
すみ、進路のこと、もう俺からは言わんようにする。でも何か好きなことだったり、したいことが見つかったら、教えてくれよな。できるだけ協力するから。」
「…ありがとう。」
人と違うと言われながら育ち、実際、人とはあまりに違う性質を持っていたすみは、相手と自分の見ているものが、どのくらい離れているのか、測りかねることが多々あった。だからこそ、違うことを気づかれぬよう、できるだけ人の輪には加わらず、ひっそりと息を潜めているのが、正解だと思っていた、今日までは。
想太の言う通り、違っていることで、良いこともあるならば、もう少し近づいてみても、良いのかもしれない。
「ねぇ、今度で良いから、幸佑が連れてってもらったお店教えて。」
「いいけど、数え切れないほどあるぞ。定休日の度に行ってたから…。」
こうして喫茶猫森の夜は更けて行った。
第4話 初仕事と梅シロップに 続く