白猫とミックスサンド
読んでくださる皆様、本当にありがとうございます。
拙い文章ですが、少しでも楽しんでいただければ、本当に嬉しいです。
序
カケルをうちに連れてきたのは父だそうだ。
付き合いで行った譲渡会で、目があったのだという。
白くてふわふわの子犬は、走るのが大好きなので、「カケル」と名づけられ、想太が生まれる前から、家族の一員だった。
だからなのか、カケルは想太をどこか弟扱いしている節があった。
赤ん坊の頃から片時もそばを離れなかったものだ、という両親の話も、今となっては懐かしく感じる。
1
高校に入学して一月も経たないのに、まるで夏のような暑さだ。
休日は長めの散歩をしていた癖で、ついふらふらと出てきてしまった。こんな暑さになるなら、家で映画でも観ていればよかった、と想太は、じっとりと前髪を濡らす汗を拭った。
その時、目の端を何か白いものが横切った、つい目で追うと、道の端で真っ白い綺麗な猫が、毛繕いをしていた。こちらを見上げる空色の瞳が涼しげで、想太は思わず声をかけた。
「お前、暑くないの?」
白猫はじっと想太を見つめ、まるで
「ついておいで。」
というように長いしっぽを揺らしながら、路地の奥へと進んでいった。
気がつけばそのあとを追いかけて、路地から路地へと抜け、小さな店が、肩を寄せ合う商店街に辿り着いていた。
本屋、靴屋、パン屋、瓦葺きの店も多い、歴史のある商店街なのだろうか。
精肉店、酒屋、花屋、と通り過ぎたところで、猫は突然立ち止まり、入り口の隙間からするりと店内に入ってしまった。
瓦葺きの屋根に焦茶の板の壁、大きなガラス戸はいかにも古民家、といった風情だ。
(なんの店だろう)
頭を巡らすと、軒先にごく控えめな大きさで、「喫茶 猫森」と書かれた看板が掛かっていた。
(猫を追いかけて猫森に辿り着くなんて)
なんだかおとぎ話みたいだ、と笑ってしまう。
入口に寄ってなかを窺うと、店員らしき若い男性と、同じカフェエプロンを着けた、想太と同じくらいの年頃の女の子が、話していた。
ふと、男性がこちらに気がつき、会釈する。優しそうな人だ。
(そういえば、朝から何も食べてないんだった。)
ぼんやりと、そんなことを考える。
ここ暫く、どうにも食欲が湧かない。特に朝は、悪夢の名残が、べったりと体にこびりついて、水を飲むのがやっとだった。
それでも流石に、夕食までこのまま、という訳にもいかない。それに、せっかく面白い出会いがあったのだし、と想太はガラス戸に手をかけた。
2
店の中は、外の暑さが嘘のような、心地よい涼しさに満たされていた。
客席の他には、カウンターの奥に、食器棚があるだけで、飾り気がなく、代わりに大きな窓から覗く新緑が、より一層瑞々しく輝いて見える。
少女の後ろには藍色の暖簾が掛かり、キッチンと店を繋いでいるようだ。
「いらっしゃいませ。どうぞ、空いているお席にお掛けください。」
男性の穏やかな声に促されて、席に就こうとした時、何か、凄まじい突風のようなものが、想太の体を突き飛ばした。
(まずい、倒れる!)
このまま倒れたらガラス戸に突っ込むことになる、と反射的に顔を庇う。
だが、想太の体がガラスを突き破ることも、地面に叩きつけられることもなかった。
背中に回された感触に、恐る恐る腕を下ろした想太が見たものは、がっしりと自分を抱き留めた少女の姿だった。
「わ、ごめん!本当にごめんね!」
思わず飛び退いて謝ったが、少女は眉ひとつ動かさず、
「いいえ。」
と答えたきりだった。
代わりに駆け寄ってきた男性が、頭を下げる。
「お怪我はありませんでしたか?」
「大丈夫です。すみません。今、突風が…」
「突風、ですか?」
不思議そうな男性に、想太も首を捻った。
屋内で、窓も開いていないのに、突風なんて起こるのだろうか。
「…いえ。すみません。なんでもないです。」
釈然としないまま謝る想太を気遣ってか、男性は席まで案内し、お勧めのメニューまで紹介してくれた。
3
「うっま。」
先程のトラブルは抜きにしても、喫茶猫森に入ったのは大当たりだった。
アイスコーヒーはさっぱりとしていて飲み易く、店長お勧めのミックスサンドは、今まで食べたどのサンドイッチよりも美味しかった。
軽く焼いてバターを塗ったパンに、みずみずしいきゅうりとトマト、そして半熟に焼いた卵が挟まっている。
バターの塩味とトマトの酸味が食欲をそそり、とろとろの卵の濃厚な味に、思わず頬が弛んでしまう。
ただ、ひとつだけ残念なのは、自分を抱き止めてくれた女の子と同じ空間で、食事だけに集中できる程、想太は図太くない、という事だった。
しかも先程から何故か、奇妙なひそひそ声が聞こえる気がするのだ。
店長は、キッチンとレジを忙しなく往復しているし、少女も他の席の注文を取ったり、席を片付けたりと忙しくしている。
若い女性のようなその声は、少女が手を休め、想太の席のそばを通る時にだけ、足元の辺りから湧き出るように、ひそひそと何ごとか囁くのだった。
(暑さでおかしくなったのかな。)
だとしたら、呑気にサンドイッチを食べている場合ではないのだが、なにしろ久しぶりの食事だし、不思議とその声は耳に心地よく、全く嫌な感じがしないのだ。
「…で…クの中…ね。」
「…の…チブックが…。」
少しだけ聞き取れた単語を繰り返す。
「スケッチブック?」
途端に少女の肩がビクッと跳ねて、驚いたように振り向いた。
その拍子に二人の目が合うと、少女はこれまた驚いたように思い切り顔を背けてしまう。
意外にもわかりやすいその様が微笑ましくて、想太は鞄からスケッチブックを取り出し、差し出した。
普段ならきっと、こんなことはできないが、不思議とこの少女がこれを見たがっているという確信があった。
「よかったらどうぞ。あとさっきは本当にありがとう。俺、日野想太っていいます。」
「…鈴木すみです。えっと、貸してくれてありがとう。」
そうっと手を伸ばし、スケッチブックの端をつまむすみが、まるで猫のようで笑ってしまう。
そういえば、さっきの白猫はどこに行ってしまったのだろう。
(実はこの子がさっきの猫だったりして。なんだか雰囲気が似ているし。)
あり得ない考えが浮かんで、苦笑する。
やっぱり、今日の自分はどうかしている。
「絵、好きなの?。」
「うん。幸佑…あ、店長も描くし。…あの、想太さん。」
「想太でいいよ。」
「うん。もしよければ、だけど、この絵を一枚、もらっても良いかな?」
「え、それはもちろん良いけど。」
正直驚いた。
「欲しいの?そんなに上手くないと思うけど。」
「そんなことないよ。この犬の絵とか、今にも走り出しそうだし…。それに、この絵なら、守ってくれるだろうから。」
「守ってくれる。」
そう聞いた途端、想太はまたあの突風が、体を突き抜けたように感じた。そして、それに呼び起こされるように、カケルとの思い出が、胸の奥底から溢れ出した。
大好きな散歩の時でも、大きな犬が歩いてくると、まるで守るように、想太にぴったり寄り添ってきた白い背中。
両親が仕事で遅くなる日、賑やかな友達の家から、灯の消えた家に帰るのが、ちっとも嫌じゃなかったのは、いつもカケルがちぎれんばかりに尻尾を振って、出迎えてくれたからだ。
身長が伸ても、変わらずにベッドに潜り込むカケルに、随分窮屈な思いもさせられた。
思い出しているうちに、つい、話し出していた。
「その犬、カケルって言うんだ。俺のこと、弟だと思ってるみたいで、いっつも守ろうとしてくるんだけど、…あの…そんな感じ、…するかな。」
途切れ途切れになる想太の言葉に、すみは頷いた。
「なんとなく分かる気がする。私にも、いつも守ってくれる、猫のお姉さんが居るから。」
「もしかして、白猫?」
「うん。ゆき姉さんて言うんだけど、もう会った?」
「多分。」
顔が熱い。込み上げてくるものを、どうにか飲み込んだのは、女の子の前で泣くのは、流石にかっこ悪い、と思ったからだ。
結局すみが、走るカケルの絵を選び、
「お礼に。」
と店長が描いた猫の絵をくれた頃には、外がすっかり暗くなっていた。
4
「あー、疲れた…。」
ベッドに転がると、みるみる力が抜けいく。もう起き上がれそうにない。
(なんだか、今日はいろんな事があったな。)
手を伸ばして、バックの中からスケッチブックを引っ張り出す。
ちょうど真ん中辺りのページが破られ、代わりに獲物を狙う猫の姿と、「守」の字がかかれた紙が一枚、挟まれていた。
「これも猫だ。」
なんだか今日は猫づくしの1日だった。
白猫を見つけて、あと追いかけたら「猫森」という喫茶店を見つけて、
(店長さんと、すみちゃんも、なんだか猫っぽかったな。店長さんは、目を細めて日向ぼっこしている大きな猫って感じで、すみちゃんは…、子猫みたいに、丸くて透き通った瞳をしていたな。くるくるとよく動くのに、底の方には静けさがあるみたいな…)
「…絵描きたいな。」
口からこぼれ落ちて、いけない、と慌てて首を振る。
絵を描きたいと言われて、気持ち悪いと感じる人もいる、特に年頃の女の子だ。嫌な思いをさせないよう気をつけなくては。
ああ、それでも
「あの店は、また行きたいな。」
美味しかったし、と続けて、誰に言い訳してんだか、と苦笑してしまう。
本当の理由は他にある気がしたが、今はまだ向き合いたくない。
あまりにも唐突で、衝撃的すぎるから。
それでも今夜はきっと、悪夢は見ないだろう。
いつのまにか、眠っていたらしい。
部屋の明かりが消えているのは、父か母が消してくれたのだろうか。
いや、そんなことより、この生温かい、ベタついた空気はなんだ。
まるで真っ黒で大きな獣のに押さえつけられ、熱い息を吹きつけられているみたいだ。
必死に身をひねろうとするが、まるで体が動かない。
視界まで段々と、暗くなっていく。
(だめだ…。)
意識が落ちかけた時、
「みゃあおう。」
猫の声が響き、闇がざあっと退いた。
咳き込みながら、やっとの思いで体を起こすと、
「ゆきちゃん?」
想太の枕元で、見覚えのある白猫が、毛を逆立て、何かを威嚇していた。
その「何か」を見て、想太はぞっとした。
月明かりの差す部屋で、そこだけ濃い闇が、まるで何百もの小さな手を伸ばすように、うぞうぞと、蠢いていた。
「外へ逃げるよ。」
昼間、喫茶店で聞いた声が響き、やっと想太は叫びそうな恐怖から引き戻された。
ゆきは小さな頭を想太の方に振り向かせて続ける。
「スケッチブックは持っておいで。」
言い終わるや否や、身を翻すゆきを、あわあわと追いかける。
枕元のスケッチブックをひったくった時、暗がりから伸びた手が、指先をかすめて、身の毛がよだつ気がした。
(夢なのか?本当に頭がおかしくなったのか?)
だが心の奥で、これは現実だと感じている自分が居る。
「ゆきちゃん!父さんと母さんは?」
「狙われて居るのは想太だけだから、大丈夫!」
「ええ…。」
それを「大丈夫」というのかとは思ったが、今はとにかくゆきの言う通りにするしかない。
階段を駆け降りて玄関を飛び出す。
白い毛を輝かせて走るゆきを、想太は追いかけた。
月に照らされた街は、モノクロに輝いて、恐ろしいのと同時に、美しかった。
5
近所の公園で、すみと合流した時には、想太の息はすっかり上がっていた。
「お疲れ様、姉さん。」
「お待たせ、すみ。幸佑は?」
「走って来たから。もう少しかかると思う。」
「もう…。すみの足じゃ、仕方ないか。」
ゆきと穏やかに話していたすみが、ひた、と想太を見据える。昼間とは違う、静まり返った瞳だった。
「想太は、公園の真ん中あたり、出来るだけ明るいところにいて。
あと、あんまり騒ぐと警察呼ばれるから、大きな声は出さないでね。」
黒いジャージ姿のすみは、今にも夜の闇に溶けて消えそうで、想太は思わずその手を掴んでいた。
「すみちゃん、何する気。」
「大丈夫、慣れてるから。
そうだ。これ持ってて。」
すみは曖昧に笑うと、一枚の見覚えのある紙を想太に押し付けた。
「守ってくれるはず。」
世界が静まり返った気がした。
(ああ、そうか。)
彼女は、自分とは、全く違う世界に生きているんだ。
まるで人間じゃなくて、大きな黒猫のようだ。獲物を目の前にした猫を、止めるなんて、できるはずがない。
それでも、離せずにいる想太の手を押しやって、すみは公園の入口を振り返った。
真夜中の公園は、月明かりで不思議な程明るかった。
生き物の気配もまるでしない。時折木の葉がざわめく他は、何の音もせず、怖いほど静かだった。
ふと、すみがこちらを振り返った。
大きな瞳が、月明かりを反射して、光ったように見えた。
次の瞬間、すみの姿が消えた。
一瞬遅れて、想太の後ろの金網が大きく揺れた。
慌てて振り向くと、何か得体の知れない真っ黒な塊を、すみが押さえつけていた。
(今、俺たちを飛び越えた。)
頭がついていかない。
(すみちゃんって、一体何者…。)
振り落とそうともがく影を押さえ込み、すみは、一発、二発と腕を振り下ろす。
するとその細い腕に、鋭い爪でも生えているかのように、ボロボロと、影は崩れて始めた。もう一発、と腕を振り上げた時、
「すみ、後ろ!」
ゆきの悲鳴が響いた。
目を凝らすと、影から伸びた細い手が、すみの背を掴んでいた。
「ガウ!」
その手を食い切ろうと、ゆきが飛び掛かるより一瞬早く、すみの体は、ぽーん、と放り上げられた。
「すみちゃん!」
駆け寄る想太をよそに、すみは空中で一回転すると、難なく着地し、そのまま跳ねて、伸びて来た手の群れを薙ぎ払い、再び影へと飛びかかっていた。
(す、すごい…。)
人間離れしたすみの動きに、想太はただ息を呑んだ。いつの間にか、ゆきも加わり、影は輪郭が定まらない程に崩されていた。
(でもよかった。これなら二人とも大丈夫…)
そう安堵した時、想太の目にあるものが映った。
崩された影の残骸が、まるで靄のようにゆらゆらと、すみの周りを漂っているのだ。
「すみちゃん!危ない!」
想太が叫ぶと同時に、靄がざあっと渦巻き、まるで魚の口のような形になると、すみの体を飲み込んでしまった。
「すみちゃん!」
まるで白い矢のように、すみを追いかけるゆきを追って、想太は、黒い渦の中へ、飛び込んでいた。
渦の中は、真っ黒な濁流のようだった。
轟々と体に打ち付ける衝撃に、息もつけず、どちらが上か下かさえも分からない。
(馬鹿なこと、したかな。)
何もできないくせに、と自分でもおもう。
でも、すみもゆきも、何の関係もない自分のために、ここまでしてくれたのだ。
(なら、俺が何もしないとか、ダメだろ。)
そう覚悟を決めた時、ふわっと体が軽くなった。
目を開くと、ふわふわと雪のような光が、体を包んでいる。
(なんだ、これ?)
光の源を辿り、右手に抱えたスケッチブックにたどり着いた時、まるで雷に打たれたように、すみの言葉を思い出した。
「守ってくれるはず。」
すみは、他のどれの絵でもなく、カケルの絵を欲しがった。
「私にも」守ってくれるお姉さんが居る、と言っていた。
そしてさっき「守ってくれる」と言って、想太にこの絵を返した。
「カケル、まだ、守ってくれてるのか?」
カケルが死んだのは去年の夏だ。
生まれた時から一緒にいた「兄弟」の死はあまりに大きく、想太は暫く食事も喉を通らなかった。
そして暫く経つと、黒い影に追われる夢を見るようになった。
全て自分の心弱さからくるものだと思っていた。
想太が落ち込んでいると、必ず悲しそうに鼻を鳴らして擦り寄ってきたカケルだ、きっと心配だったんだろう。
「ごめん。ごめんな、カケル。」
歯を食いしばり、足を踏み締める。
「心配かけちゃったよな。でも。」
大丈夫、少しずつだけど前に踏み出せる。早く、すみとゆきを見つけなくては。
「俺はもう大丈夫。」
だからもう、安心して。
じりじりと気が遠くなるような速度で、前に進んでいるうちに、黒い濁流の向こうに、淡い光が揺らいでいるのが見えた。
「すみちゃん!ゆきさん!」
声を張り上げて叫ぶと、こちらに気付いたのか、光はぐんぐんと想太に近づいてきた。
その姿を見て、想太は息を呑んだ。
ふわふわと揺れる光の粒は、まるで粉雪のようにすみとゆきに降り積もり、まるで二人の体が光り輝いているかのように見えた。
すみの瞳は金色に輝き、神々しささえ感じられる。
近づいてきたすみは、スッと手を伸ばし、想太のスケッチブックに触れた。
その瞬間、想太は見た。
すみの指から光の波が、スケッチブックに吸い込まれていくのを。
そして眩いまでの光の奔流が溢れ出し、まるで絵を描いたように、想太の見知った、懐かしい姿になるのを。
「乗って。」
懐かしい姿に涙ぐむ暇もなく、想太はカケルの背に引っ張り上げられた。
姿形は同じでも、カケルそのもの、というわけではないらしい。馬ほどもある背丈になったカケルは、三人がよじ登ると、嬉しそうに一声、
「わん!」
と吠えると、暗闇の中を走り出した。
闇の中は、坂になっているのか、前へ進むごとに上へ上がっているようだ。
「大分奥まで引き摺り込まれたから助かった。ありがとね。」
「ここ、何処なんだろう。」
「夢と現の狭間。こういうところにすだまは溜まりやすい。」
「現実じゃないってこと?」
「待ってすみ!出口が見えたよ」
ゆきの小さな手が差した方向に、ポツンと見えた光は、ぐんぐん広がって、カケルが通り抜けられる程の大きさに広がり、
ザバッ。
想太たちは再び、夜の公園へ降り立った。
随分と長い時間が経ったように感じていたのに、公園は先程と全く同じ夜のままだ。
ひとつ違うのは、喫茶猫森の店長が、心配そうな顔で待っていたことだ。
「すまん。遅れた。」
「もう、遅いよコースケ。」
少し怒ったような、それでいて安心したような、すみの声に頷くと、幸佑は、左手に画帖を広げ、右手の筆を持ち上げて、シュルシュルと空に何か描きだした。
するとカケルの輪郭は、解けて筆に引き寄せられ、筆の動きに合わせて、今度は大きな白い狼の姿になった。
狼が長く吠えると、漂っていた影の残骸が吸い込まれていく。
影を全て吸い込んだことを確認し、幸佑はもう一度筆を持ち上げ、今度は画帖の白い頁を差した。
狼はまるで画帖へ吸い込まれるように消えていき、最後は白い頁に描かれた狼の絵だけが残った。
「これでよし、と。みんな大丈夫か?」
振り返った幸佑の笑顔が、想太を見て固まる。
「大丈夫か、想太君。」
心配そうなすみの声が、重なる。
「どこか具合悪い?」
なんで二人とも慌てているんだろう。そんなに酷い顔しているかな。
不思議に思い顔を触って初めて、想太は自分が泣いていることに気づいた。
「大丈夫だよ、すみちゃん。これは、ただ懐かしくて…」
想太の意識はそこで、ぶつん、と途切れた。
目が覚めると、見慣れた部屋、見慣れたベットの上にいた。
慌てて飛び起き、スケッチブックを開く、
「はは…。」
真っ白な2枚の紙を確認すると、すぐに、想太は家を飛び出した。
「定休日…。」
入口にかけられた札を前に、想太は頭を抱えていた。
慌てて飛び出してきたから、スマホも持っていない。
まだ朝早いはずだが、声をかけてしまっていいものか…。
「何してるの?」
背後から話しかけられて、想太は飛び上がった。
話しかけたすみは、目をぱちぱちさせている。
「あ、すみちゃん!昨日は本当にありがとう!」
「なぁん。。」
すみの代わりに、足元の白猫が返事をした。
「ゆきさんも、ありがとう。」
小さな頭を撫でると、気持ちがいいのか、手のひらに頭をぐいぐい押し付けてくる。
すみもしゃがんと、ゆきの背中を撫で始めた。
「早いね。幸佑はまだ寝ていると思うけど。」
「あんな事があったのに、凄いね。そういえば俺、朝起きたら家にいたんだけどどうやって帰ったんだろう。」
すると、手のひらの下から返事が返ってきた。
「私が運んで行った。部屋にすだまの残りがないかも、確認したかったからな。」
「ゆきさんが運んでくれたの?重かったでしょ?」
「ゆき姉さんは、自分の大きさを変えられるんだ。少しなら姿も変えられるんだよ。」
何故か、ゆきよりすみの方が得意げなのが、微笑ましい。本当に姉妹、という感じだ。
「ところで、すみちゃん学校に行くところだった?制服だし。」
「そうだった。もう行かなきゃ。
幸佑には電話入れておくから待ってて。」
「ううん。早朝から迷惑だったよね。ごめん。」
「別に。…想太はさ、昨日のこと知りたいんだ。」
「そりゃ、あんな事あったんだから、当然でしょ。」
「でも怖かったことは、忘れてもう関わらない方が良いんじゃない?夢だったって思えば済むことでしょ?」
「?」
何故そんなことを言うのだろう。
「あれが夢だなんて、思えそうにないし、忘れるのも無理そうだよ。」
「そっか…。」
すみは何処か不安げに、それでいてちょっと嬉しそうに目を伏せると、またすぐいつもの、素っ気ない表情に戻った。
あまり表情が動かないようでいて、瞳にはすぐ表情が表れるのが、可愛らしいと思う。
「そろそろ学校行くね。じゃ、またね。」
「またね。」
幸佑が慌ただしく店先に出てきたのは、それからすぐのことだった。
本当に寝ていたらしく、上下スウェットでぼさぼさの頭に、やはり早すぎたか、と恐縮してしまう。
「朝飯まだだろ、一緒に食べよう。」
と言われて、想太は今、2回目のミックスサンドを頬張っている。
昨日から、信じられないことばかり続いているというのに、ちゃんと美味しいから不思議だ。
「そういえば具合、大丈夫だったか?」
「あ、はい。寝不足が続いてたせいじゃないかと…。ぐっすり寝て起きたら、ここしばらくないくらいにスッキリしていました。」
「よかったな。障りが出る人も多いから…」
「障り、ですか?」
「原因不明の体調不良みたいなもんだ。病気だとか、突然人が変わったように暴力的になったり、無気力になったり。想太君みたいに悪夢が続くことも多い。」
「…俺、本当に大丈夫なんでしょうか。」
「何も不調が感じられないなら大丈夫だと思うぞ。気掛かりな事があれば、また店に電話してくれると良い。
すだまの障りは厄介だが、即効性はあまりないんだ。」
「それであの、すだまって、あの黒いやつのことですよね。なんなんですか、あれ。」
「そうだな…。綿ぼこりみたいなモノって言えばいいかな…。」
「あの、部屋の隅に落ちてるふわふわした?」
「そうそう。あれは目に見えないほど小さな、土埃や繊維クズ、食べカスなんかが、人間が見える程の大きさにまで吹き溜まった物なんだ。すだまも同じように、この世の様々な悪しきもの、が吹き溜まってできている。」
「悪しきもの…。」
「例えばこのコーヒーをシャツにこぼすと、拭いたり洗ったりしても、ついたシミまではなかなか取れないよな。同じように、恨み、だとか、憎しみ、のような、人が普通に生きている分には抱かないような、強烈な感情は、この世にシミを残す、と考えられている。それひとつなら、気にもならないような、わずかシミが、幾千幾万にも重なって、ああいう無視できないモノになるんだよ。」
ゴクリ、と想太の喉が鳴った。
「怨霊、みたいなものってことですか。」
「まあ、そんな感じかな。俺や、すみは、物心ついた頃には、ああいうのが見えててな、周りに馴染めなかったところを、この店のばあちゃんが、引き取って育ててくれたんだ。」
「えっ。」
「お陰で身を守る術も学べたから、悪いことばかりじゃ、ないよ。」
「身を守る術、ですか?」
「吹き溜まるのは悪いモノばかりじゃない。祈りや願いみたいな、善きもの、も集まるんだ。俺たちは六花と呼んでいる。昨夜みたいに、見える程の濃いすだまは、まず、六花で散らして薄めてから、封じるんだ。昨夜だと、すみが散らして、俺が封じた感じだ。」
確かに昨夜、あの黒いもやもやは、すみが殴るごとに、輪郭を崩していっていた。
「すみちゃんって…。」
「すみは、俺たちの中でも、特別、だからな。猫神様のご加護を受けた、霊猫憑き(れいびょうつき)なんだ。」
「霊猫憑き。」
これも聞いた事がない言葉だ。
「神様から、特別な力を与えられた存在って事だ。すみは人の身で、猫並みの身体能力を持っているし、ゆきさんは猫ながら、人の言葉がわかる。それに二人には絶えず六花が降り積もっている。神社なんかに集まった六花を借り受けている俺たちにはあり得ない話だ。」
そこで幸佑は突然笑い出した。
「いや、ごめん。昨夜も思ったけど、想太君は本当に怖がらないな。」
「いや、めちゃくちゃ怖かったですよ。そう見えてるならまだ頭がついていってないだけです。」
「でもこうして俺と話していても、全然平気じゃないか。すみ達にも普通に挨拶していたみたいだし。」
「?どういう事ですか。」
「あんな化け物退治している人間なんて、気味が悪いだろって事。すみ達なんて、仲間内でも化け物扱いされやすいのに。」
「なんですかそれ。」
思わずむっとした声が出た。
「幸佑さんもすみちゃんもゆきさんも、俺を助けてくれた恩人です。嫌な言い方しないでください。」
つい声を荒げてしまったのに、幸佑の眠たげなな目は、弧を描いた。
「君本当に良い子だなぁ。どうだろう、今後のことも気になるし、うちで護身術を習ってみないか。
「護身術、ですか。」
「これは推測なんだが、想太君は、元々見える性質だったんじゃないかと思うんだ。でもカケル君が、すだまが寄り付くのを防いでいた。そういうことは結構あるんだ。動物は人間より敏感だからな。カケル君が亡くなって守る力が弱まり、今回のことが起きたのだとしたら、想太君は今後すだまに遭遇する可能性がある、と思う。」
「…幸佑さんの言う通りだと思います。悪夢を見始めたのはカケルが亡くなってからだったし…。でも良いんですか?俺が教わったりしても。」
「店があるからな、教えるって言っても月2回くらいだ。それに、俺もそうやってばあちゃんに色々教えてもらったからな。望む人がいればできるだけ教えたいんだよ。」
「ありがとうございます。ぜひお願いしたいです。」
もう二度あんなモノには遭遇したくないが、その可能性があるならせめて対処法を身に付けておきたい。それに、
「その代わりって言っちゃなんだが、すみと仲良くしてやってくれるか?あいつなかなかは人に馴染めなくてな。珍しいんだよ、想太君みたいに、素の感じで話せる相手。」
「はい!俺もすみさんとは、仲良くしたいと思っていたので、嬉しいです!」
「ほーう。」
幸佑の口元が揶揄うように持ち上がった。
「そうだな、歳も近そうだしな。」
「違いますよ!ただ気が合いそうだなって思っただけですってば!」
「まだ何も言っていないぞ?」
面白いものを見つけた、と楽しそうな幸佑から逃れるように、想太はすっかり冷めてしまったコーヒーをのみほした。
(うん、やっぱり美味しい。)
こうして、想太の喫茶猫森通いが始まった。
無事護身術は身に付けられたのか、すみとの関係に変化はあったのか、霊猫憑きの秘密とは、全てはまた次のお話で。
少しでもお楽しみいただけたなら、嬉しいです。
分かりにくいところなどは、少しずつ書き直して行けたらと思っています。