・少年と来訪者
ふと目が覚めた午前10時。枕に突っ伏す顔を持ち上げ、だらりと垂れ下がった右腕を枕上へと伸ばした。コツンと指先に触れるスマートフォン。朧げな目を擦り、その画面を写そうにも、充電切れのマークが真っ暗な画面に浮かび上がるだけで、少年はひとつ、枕に向かってため息を吐いた。
足立伊吹。まだ15歳の若い中学生。しかし、彼の身体は酷くやつれ細り、目の下には隈が見え、とても健康とは言い難い容姿をしていた。
重たげに体を起こし、まるで放置した雑草のようにボサボサとした髪を掻いた。ひとつ欠伸を零し、おぼつかない足取りで、その部屋の重い扉を小さく開いた。
リビングではニュースが垂れ流しになっており、また叔母さんが消し忘れたかな。なんて思いながら、伊吹がリモコンを手にした、その時、テレビに“人外”という文字が見えた。
『人外である市民との生活を共にする中で、数々の意見が飛び交っています。』
『人ならざる者に近づくのは危険だという意見が過半数の中、どんな者だろうと受け入れるべきだという意見も多く見られます。』
『人外共生社会に反対派の意見としては、近頃の人外市民による事故や事件が理由として挙げられ---』
「……人外共生社会、か…」
人外……それは美しくも恐ろしい、謎の生命体。妖怪、悪魔、獣人、怪異…全ての意思を持つものが、自由に暮らす社会、それが人外共生社会だ。
伊吹は自分の頬を指でなぞった。彼の左頬には、大きな絆創膏が貼られている。それを少しむず痒そうに爪で擦り、一つ瞬きをして、何事もなかったようにテレビを消した。
冷蔵庫に向かって中を確認すると、ラップで包まれたサンドイッチが目につく。伊吹の叔母が作って置いたものだった。彼の母親は幼い頃に亡くなっており、父親も、とある事件で命を失った。幼くして一人取り残された伊吹を可哀想にと思い、父親の妹が伊吹を預かったのだ。
預かったといえど、彼女にも仕事がある。家に居る時間は少ないが、それでも、こうやって残されたサンドイッチやスイーツのプリンは、彼女なりの愛情表現なのだろう。
伊吹はサンドイッチを取り、コップに水を注ぎ入れて部屋へと戻ろうとした。そのときだった。
〈ピンポーン〉とインターホンを押される音が家の中に鳴り響いた。最初は面倒臭いからと居留守を試みた伊吹だが、その音は鳴り止まない。仕方なく手に持ったものをリビングの机に置き、心底嫌そうな顔をしながら玄関へと足を運んだ。
ドアチェーンを掛けたまま。控えめに玄関扉を開く。久しく浴びていない、眩く細い日光が差し込み、思わず目を一度瞑ってしまった。
「こんにちは!君が足立伊吹くん…かな?」
「え…」
自分の名前を呼ばれ、瞼を開いてドアの先にいる人物を見た。
一人はごくごく普通のスーツをラフに着こなす、明るそうな男性。隣で仏頂面をしながら立つもう一人は、真っ黒な髪の毛と、真っ黒なブレザーをキッチリと着こなす不思議な雰囲気の女性。彼女の手には謎のノートが抱えられている。
突然の来訪者に驚き、声を失っていると、先程声を掛けてきた男性の方が心配そうにこちらを覗き込む。
「ごめんね?突然来訪しちゃって……驚いた、よね?」
「……あ、いえ……大丈夫、です…………どなた、ですか…??」
「あぁ、自己紹介が遅れました。僕は世繋台高等学校の教師を務めています。田中真助って言います。こちらは、同じく教師の…」
「烏乃月丸です。以後お見知り置きを。」
「………学校の先生が、どうしてうちに…」
嫌味ったらしく、そう呟く。伊吹は、中学校生活の殆ど通っていない。3年生になって、高校進学なんて名前を聞くだけでも吐きそうになるのに、寝起きで痛む頭がさらに軋むように痛んだ気がして、その感覚すら日常茶飯事で、顔がすっ…と無表情になった。
そんな伊吹にお構いなしに、真助は天使の如く優しく微笑んで、伊吹の暗く荒んだ瞳を覗き、こう言った。
「伊吹くん、うちの高校に来てみない?」
「………………え、?」
伊吹はまだ知らない。真助の口から飛び出したその言葉で、伊吹の人生が変わってしまうこと。伊吹の周りの人々が変わっていくこと。
この世界の深淵に、足を踏み込んでしまうことを、伊吹は知りもしないだろう。