第八話
戻ってみると、当然ながら廊下は大騒ぎだった。とっくに授業開始のチャイムは鳴っており、各教室で授業のある先生方が到着して何事かと駆け寄っていったために今の状況が完成した。
怒りの矛先を向ける相手がいなくなってしまった加藤は進藤に押さえられたまま呆然としており、相川は人目を憚ることなく号泣している。
相川のクラスメイトから話を聞いたらしい先生が思考の停止している加藤の肩を掴んで何処かへと連れて行く。それからクラスメイトは相川を抱えるようにして立たせると、帰還した俺に恨みがましい視線を向けてきた。俺の隣に寄り添っている姫宮にも。
「さいってー」
「何がだ」
「うっわ、開き直った。最悪」
最低とか最悪とか、言われ放題だな。制服の袖を摘んでくる姫宮がいなかったら、さすがに立ち直れなかったかも知らん。
俺は、間違った事は何一つしちゃいない。
「俺が選んだのは姫宮だ。相川じゃない。これって、お前らが興味津々に嗅ぎまわってた一つの恋愛模様に決着がついただけじゃないかと思うんだけど?」
「ちょっ……ふざけんじゃないわよ! 言い方ってもんがあるでしょうがっ!」
お前が振ってきた話だろう。
「あんたのその無神経な言動で奈津子がどんだけ傷付いたと思ってんのよ!」
「事実を言ったまでだろうが」
「アンタ……女を舐めんのも大概にしなさいよ」
俺と相川のクラスメイトによる睨めっこが開始された。
膝が曲がったのは、俺に飛び掛るためかね。
これ以上蹴った張ったの騒動を起こしたくないはないので、どう諌めようかのシミュレーションを開始した、その時。
「何よ……」
水の出尽くした雑巾から無理矢理に水を搾り出そうとするような痛切な声が、俺の鼓膜を振るわせた。
その痛々しい声色に、今にも床を蹴ろうとしていた目の前の女生徒も振り返る。もちろん俺もそちらを見て、声の正体を確かめた。
それは――
「何よ何よ、何でよ! 何でなのよッ!」
涙を流したまま頭を抱えて丸くなり、現実から目を逸らそうとするように涙を振り散らしながら首を振る相川だった。潤み、そして赤くなったその目が捉えているのは、
「っ……!」
姫宮愛。
袖を掴んでいた手にきゅっと力を込めた姫宮を背後に隠すように、俺は一歩前に出る。
その姿を目にした相川の表情は、一層の悲辛を孕んだものに歪む。
「……たった一つ、一つしか無いんだよ! なのに、なのに……!」
震える膝で立ち上がると、酩酊状態のような千鳥足で姫宮に近づいてこようとする。その際にも止まぬ涙は水滴となって廊下に落ち、その相川は苦しそうにしゃくり上げる。
本当に大切なものが、ただ不条理に、自分に為す術なく、どうしようもなく、一切の容赦なく、手元から零れ落ちていった――そんな絶望を、こちらの胸を締め付けるほどに見せつけてきていた。
それが向かう先も決まっている。
「そのたった一つの席に収まるのが、どうしてあたしじゃないのよッ!」
俺への質問なはずなのに、俺など視界にも含めない。歯牙にもかけない。それが規定事項だとでも思い込んでいるように相川は、
「何で愛だけが幸せになって、あたしは不幸になんなきゃいけないのよ!」
制服のスカートのポケットから、何かを取り出した。
それは細長く、高校生女子の手にも納まるサイズの物。
学生なら持っていても不思議じゃない。しかしそれは、人に向けた瞬間に否定しようのない凶器と化す。
コンパスだった。
握る手も小さく震えているが、その先端にある細い針は見る人にそれ以上の震えを与えてくる。
もちろんナイフなどと比べたら殺傷力など大したことは無いだろうが、それを人に向けるのはきっと、人として踏み越えてはならない一線だったはずだ。
それを相川は、越えてしまった。
俺が完全に姫宮の姿を背中に隠すのと、様子がおかしいと気取ったC組担任の女教師が相川を取り押さえるのは同時だった。
踏み出しても踏み出しても一向に近づいてこない、見えてこない姫宮の姿。視野狭窄に陥って、しかも姫宮は俺の背後にいるので相川から見えるはずないが、それでも相川は足を止めようとはしなかった。
痛々しいほどの膝の震えと、滂沱と流れる涙は、とどまるところを知らず。
「……あたしは! 小さかった頃からずっと健二と一緒にいた! 初めて同じクラスになった小学校一年生からずっと、あたしは健二の傍にいたのっ! あたしは健二の事なら何でも知ってる! 健二のためなら何でもして上げられるッ! 加藤とだって、健二が付き合ってみればって言ったから付き合った。それが健二の望みならって好きでもない男と手を繋いだりした!」
自分の経歴を誇る有名大学出身者のように、姫宮に自分の来歴をひけらかす。
「あたしは、あたしはッ!」
とうとう相川はその場に蹲ってしまい、それ以上は言葉にならなかった。
ここまで想われていたのに気付かなかったのは俺の鈍感さゆえ、なんだろうな。加藤の言うとおりだった。結局、全ては俺の責任か。
相川は顔を膝に埋めたまま。今は嗚咽だけが聞こえる。しかし、その姿、嗚咽、雰囲気だけで、気付いてしまう。
憎んでいる――そう分かってしまう。
負けるはずないと思っていた勝負に負けてしまった、その不条理を。……そして自分の得るはずだった幸せを得た人間を。
「…………不公平よ」
顔を俯けたまま発せられた声は、身の毛も弥立つほど暗澹としたものだった。
「これであたしは途中退場? ……嫌よ、嫌! 絶対に嫌ッ! なんでこんなに不公平なのよッ! 健二を想っていた時間だったらあたしの方が長いのに、どうして高々一年一緒にいただけの女に盗られなくちゃいけないのよ!」
首の筋を違えてしまいそうなほど、ショートの髪を激しく振り乱す相川。
ふえぇ、と泣き出す姫宮の気配が背後から伝わってくる。だから俺は向き直ると、震える姫宮の肩を抱いた。
しかし俺のその行動は、ふと顔を上げた相川の、その狂言に拍車を掛けるだけだった。
「ちょ、どうして……? そっちじゃないでしょ。早くこっちに来てよ。あたしを抱いてよっ! 加藤にも身体は許さなかったから、これは全て健二のものだよ? アンタのこと、満足させられる! 早く、早くうぅ! う、うぅ……」
茫然自失。支離滅裂。それらがかえって事態の深刻さを際立たせた。
いやいやと首を振る姫宮は力いっぱい耳を塞いでいる。俺も姫宮の頭を抱きこみ、腕で姫宮の耳を重ねて塞いだ。
これはまずいと感じたらしい担任は相川を引き摺るようにして姫宮から離していく。喚き散らしている相川に何か言葉を掛けているらしいが如何程の効果も出ないようで、それからはただ黙々と、しかし表情を焦らせながら相川を俺たちから見えない位置にまで移動させた。
廊下に残ったのは静寂。
各教室から野次馬根性丸出しで覗き込んでいた生徒たちも、あまりの事態の重さに口を開く事ができないみたいだ。
向けられた経験なんて無いであろう明確な害意を叩きつけられた愛だが、呪詛に満ちた言葉が聞こえなくなった今でも、純粋な恐怖から溢れ出した涙は止む気配を見せない。泣き止ませる方法など思いつかない俺も、ただ抱きしめる事しかできないでいた。
ついさっきまで加藤を羽交締めていた進藤が、ぽんっと一度、俺の肩を叩いてきた。実のところ教室に戻るのが少し怖かった俺としては、一人でも味方がいてくれたことに安堵すると、胸元の熱に声を掛ける。
「もう大丈夫だ」
少しでも恐ろしい言葉を払拭できるように、少しでも向けられた敵意を忘れられるように、優しく。
「もう大丈夫だから。絶対、俺が守ってやるから」
「…………うん、……うん」
何度も頷いてくるが、それは俺への配慮だと分かってしまう。姫宮自身は、まだ少しも今の恐怖から逃れられていない。
もしくは、何の確証もない俺の軽薄な慰めに気付いてしまったのか。
「…………くっそ」
なんでこうなるんだろうな。此方を立てれば彼方が立たない。双方が成立することなど有り得るのだろうか。いや無理だな。日本が一夫一妻制の国である限り。
それでも日本人は断絶することなく、日本国は今も続いている。少子高齢化が叫ばれてはいる現代でも、確かに毎年新しい命は誕生している。それは一夫一妻制の日本に於いても、ちゃんと愛し合った夫婦が生まれているという事だ。
世の中、上手くいってるよな。
俺にはそれが、奇跡のように低確率な事象に思えて仕方ない。
……幸せになるってのは、こんなに難しいことなのかよ。
想った人と恋人同士になって、しかしそれを快く思わない人間もいて。快く想わない人間は想いの叶った人間に対して殺意にすら達するほどの憎悪を抱く。その憎悪を受けた人間は嬉しいはずの幸せを見失う。
こんなんでは幸せなんて、到底手の届かない高さにある雲を掴むような、絵空事と同じじゃないか。
もちろん、今の俺たちの置かれた状況が最悪のものだからこそ抱く大袈裟な羨望及び嫉妬であるのは理解している。世の中には、上手くいった事例が五万と転がっているんだからな。
それでも俺は、悲嘆を禁じ得ない。
――世の中、上手くいかないもんだ。