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第七話

 朝練が終わり、学生の本分である勉強に勤しむために教室へと戻った卓球部の面々。同じクラスの俺と姫宮も所属する2年E組の教室へと戻ってきた。先に戻っていた加藤は誰ともつるむことなく自分の席でぶー垂れているので触れることはしない。俺だって腹を立てなかったわけじゃないからな。

 ちょっとした反論の意味も込めて、話しかけてきたクラスメイトの進藤との会話を聞こえよがしにしてやった。まあ、すぐに意地悪かったと自分に苦笑して止めたけども。人間関係、上手くやっていかないとな。

 担任の佐々木氏が引き戸を開けて教室に入ってきた。これより朝のホームルーム。

 クラス委員の「きりーつ」の号令にも従わない加藤は頬杖を突いたまま。幸いにも前で立ち上がった長身の生徒に隠れて佐々木氏に見咎められることはなかったが、見ていた生徒としていい気はしない。そこまで反抗的になる事もないだろうに。

 事務連絡を済ませて佐々木氏が教室から退出すると一時間目開始まで束の間の休憩時間に入る。すると加藤は席を立ち、しかめっ面で教室を出て行った。席に座ったままの俺と姫宮は顔を見合わせて、しかし追いかけるようなことはしなかった。

 再び寄ってきた進藤と談笑を開始する。話題は昨日の野球の試合。お互い贔屓のチームが同じと言う事で入学当初から話す機会も多かった。百八十センチ以上の屈強な体躯に小麦色の肌。短く刈り込んだ坊主頭は正にスポコンの証。典型的な野球部員だ。二年生ながらサードの低位置を奪取しているらしい。

 常に細められている穏やかな目元は男女問わずに好評で、性格も同様に温和なのもあり仏なんてピッタリなあだ名が付いている。野球部のマネージャーと付き合っているという事実は隠しているらしいが誰から見てもバレバレなのは指摘しないでおいてやろう。

 昨日のあのシーンでの采配はどうだっただの、あのピッチャーの変化球のキレがどうだっただの、やはり熱の入り方が違う仏の解説に苦笑しながら付き相槌を打ってやる。

 と、その時。

 きゃああああ! という女子の悲鳴が廊下から響いてきた。

 廊下側にいた生徒たちが顔を出して様子を窺う。それから俄かにざわめきだした。

 なんだか嫌な予感のした俺も廊下へ飛び出した。後ろから進藤も付いてくる。慈悲深い仏は面倒ごとにも自ら首を突っ込んでいくのだ。男にとっても、その安心感は健在。

 しかし、そこで繰り広げられていた惨状には仏も顔を顰めざるを得なかったらしい。

 廊下の先で、男子が女子を殴り倒していた。完全に握りこぶしで。

 そして、俺の嫌な予感は的中。


 ――張り倒された相川に、張り倒した加藤。それが惨劇の構図だった。


 でも、きっとそれだけでは終わらない。この事件は波紋を広げていくはずだ。共に同じ卓球部だが、どう言い換えたところで卓球部員が暴力沙汰を起こしたのだ。この学校も力を入れてくれている卓球部が不祥事を起こしたのだから、下手したら今後の大会への参加を止められることになるかもしれない。

 そう思うと、俺には立ち止まっている事なんて出来なかった。全速力で加藤の背後に肉薄し、倒れた相川へ上げた足を振り下ろそうとする最悪の行為は間一髪で差し止めることに成功する。しかし、周囲には野次馬の同級生たち。もう言い逃れはできない。

「止めろ馬鹿!」

 羽交締めた俺の腕から逃れるように暴れる加藤を、進藤も押さえつけるのを手伝ってくれる。その顔は破戒無慙な教徒を見る阿弥陀如来のように悲しそうに崩されていた。

 相川の所属するC組の女子が相川に駆け寄っていくと、ハンカチを取り出して口元を押さえてあげている。それから憎々しげに加藤を睨みつけた。

 それすらも目に入らない様子で荒い息を吐いている加藤は、

「ふざけんなよ!」

 女子に向かって、いや、付き合っているはずの彼女に向かって口角沫を飛ばしながら怒声を張り上げた。

「お前、何なんだよ!」

 もう一度足を振り上げたので俺は強引に加藤の身体を一歩下がらせる。しかし、加藤の怒りは冷めやらない。

「そんなに卓球が大事かよ!」

 その言葉には、俺も怒りを覚えた。どうしてそんな口論になっているのかは知らんが、コイツは卓球部で活動してる全ての生徒を侮辱した。卓球が上手くなりたくて一生懸命汗水たらして練習してる全ての部員を馬鹿にした。

 これはもう黙っていられない。俺も一言――

「大事よ!」

 ――言おうとしたのに、それ以外の叫声に妨害されてしまった。

 相川だった。クラスメイトに助け起こされながら、

「今のあたしにとって何より大事よ、卓球が! あんたなんかよりずっと!」

 取り巻いていた女子たちから拍手が沸き起こる。それに後押しされたように相川は険を増した目つきで加藤を見据えた。

「もうすぐ大事な試合があるの! 私には、へらへらして何にも考えてないあんたと遊んでる暇なんてないのよ!」

「大事な試合って何だよ!」

「……っ、…………」

 相川は唇を噛み、口を滑らせてしまったといった感じに黙り込んでしまった。

基本女子と男子は同時に対外練習試合を組み、定期大会などにも男女揃ってエントリーする。だから男子部部長である俺も試合のスケジュールは一通り把握している。その俺が記憶している限り、大事な試合なんて近くにあったか? …………あ。

 同時に加藤も思い至ったらしい。それから顔面の憤怒をさらに凶悪なものにした。

「そういうことかよ……! 初めからそういうことだったのかよっ!」

 俺が思いついたのはランキング戦だ。加藤が思い浮かべたのも、恐らくはそれで間違いないだろう。でも加藤の言葉には俺が考えている以上の裏事情があるのは明々白々。それに思考が至らずに首を傾げている――と、

「…………?」

 次の瞬間。

 気付いた時には廊下に這いつくばっていた。

 じんじんと頬が痛む。口の中にも鉄っぽい嫌な塩味が広がっている。

 どうやら、殴られたらしい。

 思考に没頭しすぎて手の力が緩んだところを見逃さなかった加藤が俺の束縛から逃れて、その場で反転し俺の顔面に握り拳を叩き込んできたらしい。

 背中から倒れた俺がひっくり返ってうつ伏せになり、立ち上がろうと腕を立てたところで、もう一撃。今度は蹴りなのか脇腹に重い痛みが走った。

「……薄々勘付いてはいたんだよ」

 耳朶に届いたのは怒りすら通り越して冷め切った加藤の言葉。倒れた際に床に打ち付けたのか、痛みにギンギンする頭では認識するのがワンテンポ遅れるが、どうにか内容を理解することはできた。

「二人でいても、なんだかよそよそしかった」

 俺に寄ろうとしたところで進藤が進路を遮る。己の道を塞ぐものは全て敵と認識した破戒僧のように仏にすら手を上げようとした加藤だが、いつも百三十キロ以上の動く物体を見ている野球部の進藤には簡単にかわされ、逆に羽交締められる。それでも視線に宿る怒気、いや殺気は減じることはなかった。

 その殺気は、ただ真っ直ぐ、俺に向けられている。

「話してても殆ど俺の話題。誰とどんな話をしたか、しつこく聞いてきても俺は気付かないフリをした。俺のことを知ろうとしてくれてるんだって、思い込もうとした」

 進藤に抑えられ、その場から動く事は叶わないが、それでもガムシャラに前に進もうと足を踏み出す。

「や、やめて……」

 誰かの消え入りそうな声が聞こえた気がしたが、それが誰の口から漏れたものか、進藤の影になって確認する事はできない。

 しかし、その懇願は加藤の中で燃え盛る火に油を注いだだけだった。ついでに酸素でも送り込んだのか過呼吸でも発症したように不揃いな呼気を細かく吐き出している。

 遂には目から、涙も溢れさせた。

「結局、こうなるのかよ」

「やめてよぉ……!」

 後方からの涙混じりの哀願にも加藤は閉口する気配を見せない。

 涙だか唾だか鼻水だか汗だか、とにかく顔面から出せるあらゆる体液を俺に向けてぶちまける。

 そして、こう叫んだ。

「結局お前なのかよ!」

 全くもって意味が分からない。そもそも何で殴られたのか、そこからして俺は理解していなかった。俺はコイツにここまで恨まれるようなことをしたか? こんな殺意を向けられるほど憎しみを買っていたのか?

「お前ら二人して俺で遊んでただけじゃねぇか! 馬鹿にすんのも大概にしろ!」

「やめてぇ!」

 どういうことだよ、これは。何でいきなり俺が当事者の仲間入りしてるんだ。

「紹介してやるとか言っといて最初から鼻で笑ってたんじゃねーか! 二人で結託して無様に熱を上げる俺を見て笑ってたんじゃねーかよぉ!」

 加藤は誰の目も憚ることなく泣き叫ぶ。

 そこでようやく俺の思考が追いついてきた。加藤に相川を紹介したことを言っているようだ。がしかし、結局のところ分かったのはそれだけ。確かに加藤に乞われて相川を紹介したのは俺だが、そこに何か問題があったのか?

 全てが、次の言葉で氷解する。

「幼馴染の二人でとっくにデキてたんじゃねえかぁ!」

 ……加藤の言いたい事は理解した。俺と相川が付き合ってる上で俺が加藤に紹介したとか考えているらしい。

 もちろん、当たり前だが、そんな事実は一切ない。

 俺はそこまで人でなしになったつもりは無い。

「んなわけあるか」

 俺は立ち上がりながら、

「それはお前の勘違いだ」

「まだ言うか、この野郎!」

 俺と加藤の視線が交錯する。俺は繊維一本だけでかろうじて繋がっている注連縄のような加藤との関係を修復すべく誤解であることを伝えようと試みるが、突然。


「そうよ!」

 と、加藤の思い込みを肯定する言葉が割り込んできた。

 ――他でもない、相川の口から。


 唐突な叫びに進藤も身体の位置をずらし声の主を見た。そのお陰で俺からも見ることができたのだ。

「あたしとマツは付き合ってる! あんたとは遊びよ、遊び! ようやく気付いてくれたわね! 分かったんならこれ以上私に付きまとわないで!」

 手前勝手な告白に加藤は悲憤慷慨を露にするが、当の相川はそちらなど欠片も見ちゃいなかった。相川が意識しているのは、間違いなく俺の背後。

 再び嫌な予感に襲われてそちらを振り返ると、そこには――

「…………っ」

 息を呑む姫宮の姿があった。続いて涙ぐみ、身を翻す。

「お、おい姫宮!」

 駆けていく姫宮の背中を目で追いながら、俺に与えられた選択肢を確認する。

 一つ、ここに残って加藤の誤解を解く。どういう意図で相川がそんなことを言ったか……いや、それはもう言を俟たない。ここで考えるべきは俺の意志だ。

 一つ、走っていった姫宮を追いかけていき、今の言葉が根も葉もない嘘っぱちであることを伝える。

 ここでの俺の行動が、二人への答えになる。自惚れじゃなけりゃあな。

 …………。

 数瞬で気持ちは固まった。

「! 待ってよ、なんで行っちゃうの……?」

 相川の表情が悲痛に歪む。それを見ても俺の心は変わらなかった。

「何でよぉ……こんな、に……待っても、ダメ……なの? それじゃああたしは、どっどうすればいいのよぉ……!」

 泣き崩れる相川の姿を見て胸が痛まないと言ったら嘘になる。確かに俺の心臓は内側からズキズキと、丑の刻参りの標的にされ五寸釘を打ち込まれたような痛みを訴えているんだからな。

 相川とは小学校から同じクラスになることも多く家も近所だったため親同士が仲良くなり、以降腐れ縁と称すことができるような関係を保ってきた。

 そのように長くつるんでいる俺でも、あんな弱々しい泣き顔は初めて見たのだ。いつもの攻撃的な言動は影を潜め、まるで心だけが時間遡行を成功させ幼少に戻ってしまったかのように俺に縋る目を向けている。いつもの怜悧な印象はそこには無く、ただ眉尻を下げて夫婦喧嘩の末に出て行ってしまった父親を引きとめようとする娘のような純粋な涙に煌めく瞳が、真っ直ぐ見上げてくる。

 それでも。俺の脳裏に浮かんでいるのは昨日の部活の後に姫宮が見せた、あのはにかんだ笑顔だった。そしてリフレインされるのは『マツケン君に会えた事かもっ』や『ランキング戦。私、絶対勝つからね。また一緒に部長やろうね』といった言葉。

 これが思い浮かぶってことは、悩むまでもなく答えは一つだろう。

 真っ直ぐ姫宮の走っていった方向を見据える。遠ざかっていた背中はしかし、まだ追いつける距離にある。この学校の廊下は長い。階段の影に隠れられたら見失ってしまいそうだが、それまでにある程度距離を詰められれば問題ない。

 ここはいっちょ、男の走力を見せてやりますか。

「行かないでよぉ……!」

 相川の涙ながらの懇願が与えてくる迷いを振り切って俺はリノリウムのタイルを蹴った。これでもリレーの選手に選抜されるだけの脚の速さを持っている。……補欠だけどさ。

 でも相手は女子だ。十分追いつける。

 後方へと過ぎ去っていく風景の中では、教室から顔を出した同級生たちが何事かと日和見しているが外聞なんて気にしていられない。戻ってきたときが思いやられるが、後でどうにかするとしよう。

 前方の背中があと数メートルまで迫ったところで廊下の終着点に到達する。姫宮は左にある階段をつんのめりつつ駆け上がって行き、体力の限界がきたのか踊り場で立ち止まった。

「姫宮」

 目の前でビクッと震える姫宮の背中。振り返るのが、もっと言えば現実を直視するのが怖いとでもいうふうに、頑なにこちらを見ようとしない。

 だから俺は、その肩を掴むと強引にこちらを向かせた。身体の方は比較的すんなり回ってくれたが、やはり瞼は懸命に閉じられている。

 目尻に溜まった涙が一筋、流れた。それは流れども流れども溢れてきて、止まる気配がなかった。

 全く。このままだったら今日の授業はどうするつもりだったのか。

 その涙が止まらなかったら。

「さっきの相川の言葉は全くもって違うぞ。そんなん身に憶えはない」

 とりあえず己に出せる最大限の優しい声音で語りかける。それにしても我ながら、言ってること浮気した男のそれだよな。これは将来的に女の尻に敷かれることになりそうだと心の中だけで苦笑する。

 目を閉じたまますんすん鼻を鳴らしていた姫宮もようやくその瞳を見せてくれる。それはしかし、まだ疑いの晴れていない上目遣いだった。

「俺は相川とは付き合ってない。この身は清廉潔白だ。っていうか、いっつも部活で一緒にいるお前は知ってるだろ。そんな様子が皆無だったの」

「………………………………ほんとに?」

 胡乱な目ながらも姫宮は口を開いた。どうやら信じてくれるらしい。だから、俺はここで最大の武器を放った。

 さっき俺が、自分の意志で選んだ選択肢を。

「ほんとだ。俺がここに来たのが、その証拠だと思ってくれ」

 すると姫宮は一度目を伏せ取り出したハンカチで目元を押さえる。

 顔を上げると目はやはり赤かったが、しっかりと開いてはいた。

 ちゃんと俺を見てくれていた。

「私」

「ん?」

「マツケン君が好き」

「ん、さんきゅ」

「私と、お付き合いしてください」

「喜んで」


 こうして俺と姫宮は恋人同士になった。

 姫宮の赤くなった目元をどこかで見たことがある気がしたのは、デジャビュでも何でもなく実際に見たことがあったからだ。それは昨日の放課後、部活動の最中。それにしても花粉症で納得した俺はどうなんだ。

 俺もそろそろ、女心ってものを学んでいかないといけないな。


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