第二話
「カットマンやってくれカットマン。なあなあ松下ぁ」
「俺は松本だ。ボケ加藤」
青春を謳歌するが如く降りしきる雨の中を走って帰ったのは昨日のこと。帰ってすぐに風呂に入ったので、風邪菌に負けることも無く何とか事なきを得た。
それとも、その時だけは俺の頭が馬鹿になっていたのか。あんな会話の後だったしな。それも無理はない。
現在の時刻は授業開始前の午前七時四十五分。
ただ今、体操服に着替えた俺はブルーの長方形の卓を挟んで同じクラスの加藤と向かい合っていた。
「サァ!」
流行に乗せられやすいコイツの叫びからも俺たちが何をしているのかお分かりいただけるだろう。つまるところ、卓球部の朝練だ。
いつもの事だが、この場に顧問はいない。『朝っぱらから面倒くさい』んだそうで、卓球場の鍵を生徒に預けるという教師としてあるまじき行為にも躊躇いなく手を染める。そんなダメ人間がこの卓球部の顧問、高橋女史だ。そのお陰で部員が団結できてるってポジティブな解釈をするやつもいるみたいだけど、俺は断じてそれはないと思う。
何の変哲も無い下回転サーブを繰り出してくる加藤に望み通りカットで返してやりながら、向こうにしてみればさぞ気持ち良さそうな大振りでドライブを打ってくる。そのまま十数往復ラリーを続け、満足そうなどや顔を浮かべる加藤に腹が立ってきたので俺も攻勢に出ることにした。
一気に前に出てドライブをドライブ返し。それはヤツの球以上の回転を伴って相手コートの左奥隅にバウンドし、シュルシュル言いながら向こうの壁にぶつかりやがてその動きを止めた。
加藤が恨めしげな目で見てくるが、それがどうした。
「何で攻撃すんだよー」
「カットマンだって攻撃するぞ。ドライブ打つ事だけに酔いしれていたお前が悪い」
「ちぇ、つまんね」
「何のための練習だボケ」
見当違いにも不貞腐れた加藤は自分の荷物が置いてあるところまで歩いていき、タオルを乱暴に手に取ると汗を拭い始める。天パの髪をこれまた乱暴にわしゃわしゃとタオルで拭いている。
練習相手のやる気が冷めてしまったため、手慰みにシェークハンドのラケットを掌の中でクルッと回す。一人でサーブ練習するのもなんだったので、俺も相方に倣って自分のタオルを引っつかみ一服することにした。
スポーツドリンクをごきゅごきゅ喉に流し込みながら顔面の汗を拭っていると、誰かの足音が近づいてくるのが聞こえた。
「何よマツ。あんた、もう休憩? 体力無いわね」
タオルを取り払ってみると、俺の目の前に体操服を着た一人の女子が立っていた。ミディアムボブでナチュラルブラウンの明るい色の髪に対して怜悧に細められた瞳が何ともサディスティック。この呼び方からして思い当たる人物は一人しかいない。
「あ、奈津子ちゃん。はよー」
登場した途端に顔を綻ばせて挨拶したのは加藤だ。
「あ、うん。おはよ。隆くん」
奈津子ちゃんと呼ばれた少女(本名相川奈津子)は加藤(本名加藤隆)の声に一転、朗らかな笑顔を浮かべると朝の挨拶を返す。先に休憩始めたのは加藤なのに、俺に声を掛けるときとはまるで別人だ。
ま、それもそうだろう。この二人は付き合ってるんだからな。俺としたら高校生の男女がファーストネームで呼び合ってるってのが既に信じられないが、これは俺の方が男として色々遅いんだということに最近気付いたので嘲弄は勘弁。
それから二人はにこやかに会話をスタート。何も見せ付けるように話さんでもよかろうに。いや、この場合は俺のが邪魔なのか。俺がキューピッドになってやったってのに、その恩は記憶にないらしい。
「へいへい、お邪魔しましたよ」
「おう邪魔だ邪魔だ。とっとと去れ、この陰険カットマン」
「全てのカットマンに謝れ。あと俺は本来カットマンではない」
立ち上がりざまに加藤に一言くれてやると、俺はそのまま歩き出す。向かうのは受験勉強の息抜きにと朝練に参加している男子卓球部元部長とその相方さんが猛烈に打ち合っている台の横。そこに小さく体育座りすると小気味いいカコンカコンという音を連続させる二人の打ち合いに見入った。
およそ卓球部には勿体無い百八十センチ以上の身長を誇る男子卓球部元部長の平野先輩は県大会ベストエイトの常連だった。最後の大会では残念ながらそこまで届かなかったものの、その実力は我が校男子の中でも屈指。加えて整った相貌に清潔的な黒髪短髪、理知的な眼鏡も相まって部長の男前度は相乗効果で鰻登り、それはそれは同じ男として嫉妬のしようがないほどの美男子だった。
相方さんの橘先輩も短めの髪を少し脱色しているが、それでもやはり見目良く卓球の実力も相当ある。大会のために二人が揃って学校を効欠することもしばしばあった。
白熱した打ち合いもやがて橘先輩が追い詰められ、部長のドライブが台のエンドライン上にバウンドし、一分は続いたラリーに決着が付いた。
ふう、と満足そうな笑顔を交し合った二人は台の脚を繋ぐ横棒に掛けてあったタオルを手に取る。それを見ながら俺は声を掛けた。
「さすがっすね。部長も、橘先輩も」
「何言ってるんだ。今の部長は松本だろう? 僕は元だよ」
「俺がまだ現役だった頃に一度も勝たせてくれなかったくせに。なにがさすがだっつーの」
この高校には卓球部専用の卓球場が体育館の二階に設けられていた。目の前の二人を含めた先輩たちが華々しい成果を残してくれたお陰で学校側も卓球部にお金をかけてくれているのだ。そのため部員に圧し掛かってくるプレッシャーも大きいが、幸運にも毎年すんごい選手が出てきてくれているお陰で、その恩恵を現在も享受し続けている。
設備が充実していることもあって卓球というマイナー球技にもかかわらず毎年男女合わせて十人以上の入部希望者が来てくれ、三年生が抜けた今でも男女合わせて三十人以上の部員が所属している。
一応男子卓球部と女子卓球部はそれぞれ独立しているのだが、練習場所は同じ卓球場なので、特に陣地の奪い合いなどもなく仲良くやっていた。部長や橘先輩の代までは男子が目立った成績を残す事が多かったが俺たちの代はやたらと女子が強い。しかも今年の一年生には卓球推薦で入ってきた女子が一人おり今後の女子卓球部の著しい興隆を予想させた。
また、我が校卓球部では男子女子ともに伝統として学年の最優秀選手が部長と副部長の襷を継ぐ決まりがあり、俺も今のところは学年で一番強いということになっている。つまり平野元部長が部長だった頃には俺が副部長。現在は俺が男子の部長で、一年の最強少年進士君が副部長を務めている。
「それで、どうしたんだ? そんなに縮こまって」
「……練習相手が理不尽でして」
三年生の二人は俺が先ほどまで練習をしていた付近に目を向ける。そこで相川と談笑している加藤の姿を見つけたようだ。緩んだアイツの表情からは、練習に復帰する気配なぞ微塵も感じ取れない。
「……ああ、加藤か」
「そういえば、何でお前はいつも加藤と組んでるんだ? あいつ、お前の相手できるほど強かったっけ?」
橘先輩が首を捻る。
「……それでも、二年男子で俺の次に強いの、アイツですから。でも最近は色恋に夢中なようでして。ますます練習に身が入らなくなってるような」
「そ、そうか。それは…………ご愁傷様」
「……はい」
嘆息交じりに答えた俺の姿がよほど哀れだったのか、平野元部長――部長でいいか――はふむと顎に手を当てて何事かを思案すると、それから笑顔を浮かべた。
「それじゃ、久しぶりに僕と勝負しないか?」
「え、いいんすか!」
「ああ。僕としても今の部長が腑抜けていないか確かめたいしね」
「よっしゃ! やりますやります!」
即行で自分のラケットを取ってくると橘先輩に場所を譲ってもらう。橘先輩はそれから部長の数メートル後ろで立ち止まると目付きを真面目なものにする。どうやら部長のコーチ役らしい。
新旧部長対決だッ……! とわらわら集まりだした後輩たちに少し気恥ずかしさも受けながら、俺は構える。
部長は卓球場の時計を見た。
「もう八時か。あと三十分しかないから、二セット先取な」
「了解っす」
確かに着替える時間も考えると、始業の八時半に間に合わせるにはそれが妥当だ。つまり短期決戦。
先に波に乗った方が勝つ。
じゃんけんをして勝った俺はサーブ権をゲットし、それから第一セットが始まった。