十五話
再起動するまでに一時間以上を要した愛。はっと顔を上げた頃には、俺たちのダブルスの順番は終わってしまっていた。
河豚みたいに膨れていた愛は、不謹慎かもしれないが可愛かった。
ネットを受付に返却する際に部員を代表してお世話になったことのお礼を言い、外で解散の挨拶を済ませると夕刻も過ぎており、辺りには夜の帳が下りていた。
もう十月だからな。だいぶ日も短くなった。
部長二人で部員たちを見送り、それじゃ俺たちも帰るか、となったところで、
「私もご一緒していいかしら?」
またもや自称レズビアンが接近してきていた。いつの間にか日本も随分オープンな社会になったもんだ。
「……帰ってなかったのか」
「体の火照りが冷めなくて。ちょっと夜風に当たっていたのよ」
火照りとか言うな。部活中からの会話の流れを考えると色々ヤバイ。
隣を見てみれば愛が断固拒否とでも言うように、俺に向かってふるふると首を横に振っている。これはさすがに無視するわけにもいくまい。
そこで思い付いたのは、先ほど有耶無耶にしたままだった話題。
「これから部長同士の話があるんだ。スマンが、今日は一人で帰ってくれ」
こうはっきり言えばコスモスも諦めるだろう――ってのは安易な空想に終わり、俺に先見の明が無いことを自覚せざるを得なかった。
「だったら私もそのお話聞いてみたいわ」
歩き出していた俺と愛に追いついてくると、問答無用で俺を挟み愛と反対側に並ぶ。抑えるどころかエスカレートしている気がするってのは気にしない方がいいのか。
愛がむくれているのでどうにか追い返せないものかと俺が思索の淵に没入したところでコスモスは言葉を繋げてきた。
「それって部長になったら必要になってくるお話なんでしょう?」
きっと、今の愛にとって最大の地雷を自ら踏んだ。
「…………それって、どういう意味かな」
声のトーンが落ちたことに俺は焦燥を覚える。それを知ってか知らずか、コスモスは俺に口を開く暇を与えなかった。
「あら、伝わらなかったかしら? 私が部長になった時に必要になるかもしれないから、ってこと。最近じゃあ俄然現実味を帯びてきたし、こっちとしても準備はしておいた方がいいかなって思ったのよ」
なぜ人から憎悪を向けられる事態を懸念していたお前が、そんな相手の神経を逆撫でするような言い方するんだよ。
「……なれると、思ってるの?」
いよいよ愛の声がデンジャラスな域にまで低くなってしまった。
これはマズイ。
「落ち着け愛。美月さんも止めろ」
「ええ、思っているわ」
どうにか仲裁しようと声を掛けるのだが、俺の言葉は鼓膜に触れる前にシャットアウトされるようで聞いちゃいなかった。馬だってもう少しはまともに念仏を聞いてくれそうなくらいに。
もしくは聞いた上で無視しているのか。でも、そうだとしたらコイツがそんなリスクを犯す意味は何だ。意味が分からない。
そもそも最近のコスモスはおかしかった。出会った時からおかしかったって話もあるが、最近はそれに輪をかけて変だったのだ。
やたらと愛にちょっかいをかけ、俺にもよく話しかけてくるようになった。
傍から見たら、俺を略奪しようとしているみたいに。
――まさか。
そこまでするのか。他人の不幸を見たいがためにそこまでするのかよ。外から眺めているだけだったコイツの心変わりがいつどこであったのかは知らんが、このままではいつかの二の舞になってしまう。
今歩いている通りには幸い人影が無い。ちょっとくらいなら声を張り上げても大丈夫だろうと高を括った。
「止めろ二人とも!」
「健二君は黙ってて」
「黙ってられるか!」
二人の手を取り強引に握手させようとするのだが、それを察知した二人は俺を間に入れて睨み合いながら先手を打って拳を握ってしまう。
ごつん、とぶつかった振動だけが無慈悲に俺の手に伝わってきた。
「私はね」
拳を開こうとはしない。
「奈津子ちゃんと約束したの。私と奈津子ちゃん、部長になるのはどっちか。奈津子ちゃんが帰ってきたら、私たちで決着をつけるの」
愛のものとは思えない冷徹な声音。鋭利に細められた愛くるしいはずの目元。
間近で目にしたその圧力に、俺の喉は引き攣った。
「あら」
コスモスはこれ見よがしにキョトンとしながら『何を言ってるの、この人?』と視線で愛を挑発。
「でも部長ってランキング戦一位の人がなるんでしょう? 私が一位になってしまえば何も問題ないんじゃないかしら?」
「させるわけないじゃない」
「でもね。あなたが部活に戻ってきてからずっと、あなたの実力を見てきたけど、なんだか負ける気がしないのよ。何と言ってもこっちは、あなたがサボっていた時からずっと卓球部最強の男子にコーチングしてもらってたんだもの」
俺の話題を出すことで、更に愛の頭に血を上らせようとしているのだろうことは明らかだ。なのに今の愛はそんなバレバレな意図にも気付けない状態だった。
一方のコスモスも、見せ付けるように俺に流し目をくれることからして、愛の心の逆鱗に触れる意志がありありと窺える。
「…………何が言いたいの?」
「分からない? 愉快なおつむね」
見下しつつ鼻で笑う。こんな下衆い顔もできたのか、お前は。
くそ、この先の言葉を言わせたらいけない。それなのに引き攣って、しかもカラカラに乾いている喉は声を発せられる状態に無い。無理矢理声を出そうとしたら嘔吐いてしまいそうだった。
こうなったらとコスモスの口を塞ごうと手を伸ばすのだが、あっさりとかわされてしまう。自分でも驚くほど緩慢だった動き。緊張していたのは喉だけではなかったらしい。
そして、言葉は紡がれた。
紡がれてしまった。
「愛でもなくて、奈津子でもなくて。本当に健二のパートナーに相応しいのは、私じゃないのかってことよ」
空気が止まった。
周囲に人がいなかったとはいえ、それでも自然と耳に入ってきていた遠くの喧騒も、今では聞こえない。鳴虫たちの合唱も鼓膜には届かない。まるで空気自体が音を伝達する仕事を放棄してしまったかのように。
そんな中。
――バチンッ! という薄い紙が張り裂けたような鋭い音だけが、やけに大きく脳天に響いた。
「痛っ……」
コスモスの正面に回った愛が、コスモスの頬を張った音だった。
愛の表情には何もない。喜びも怒りも哀しみも楽しみも、全ての感情が欠落してしまったような、マネキンみたいな無表情。
ビンタされた方のコスモスは一瞬痛みに顔を顰めたものの、すぐに元の不敵な笑みを取り戻し、さらに言葉を重ねる。
「実力で勝てないからって暴力? 単純――!」
バチンッ!
しかし今度は一発で終わらなかった。
バチンッ!
往復ビンタ。両頬を張られたコスモスはさすがに頬を押さえて蹲ってしまう。その様子すらも据わった目で見下ろしている愛。俺がようやく体のコントロールを取り戻したのはその陰惨な目を見た瞬間だった。
「止めろっ!」
一足遅かったが、これ以上愛に手を上げさせないように後ろから肩を抱きしめ、そのまま軽い身体を少し持ち上げるようにして後ろに下がらせる。案外素直に従ってくれたと思ったら、愛はいつもの穏やかな印象を取り戻して、自分の肩に回された俺の腕に軽く触れてきた。
まるで、掛け替えのない宝物を撫でるかのように、愛おしそうに。
それから口を開く。
「分かる? 健二君が抱きしめたのは私。健二君が選んでくれたのよ、私を。あなたが入ってくる隙間なんてないよ」
心までは取り戻していなかった。
いつもの愛ならこんな言い方はしない。
俺はコイツほど部長に向いている女子は他にいないと思っていた。軽口を言っていても、そこには聞いている人に気付かれないような多くの配慮が感じられ、後輩の指導に当たる際もどうしたら分かりやすく伝わるか、どういう言い方なら正しく伝えられるか、それをいつも考えていた。
同じ部長という立場だからこそ分かる愛のその優しさこそが、俺が好きになった理由かもしれなかった。
しかし、今の愛にはそれがない。
自分が選ばれた事を嬉しく思うならいい。他の人を蹴落としてしまったことに申し訳なさを感じるのもいい。
でも、選ばれた人が選ばれなかった人を貶すのは違うだろ。
愛にはそんな人間になって欲しくなかった。
だからこそ、俺は愛を諭――
「……どう?」
そうとしたところで、コスモスの呟きに機会を奪われた。しかしながら、その呟きはこれまでの舌戦の相手であった愛に向けられたものではなくて。
いつか見た、とびっきりの笑顔で俺に届けられたものだった。
意味が分からない。今の会話の流れで『どう?』と問われても『何が?』と返すしかないだろう。
俺の困惑を見透かしたように蹲ったままのコスモスはくつくつと小さく笑うと、もう一度俺に問うてきた。
今度は俺にも分かるように、明確に。
「幸せ?」
それは俺が今、愛に抱きついていることがか?
そもそも会話の流れが幸せとは真逆の方向だったろうが。
ニコニコしたまま黙っているので、俺の答えを待っているのだろう。正答なんて分かりゃしないから正直に答えるしかない。
「……いんや」
「そう。……あなたはまだ幸せになってくれないのね」
立ち上がり、両手を広げた。
「もっと私を見て」
意味不明な会話に付いていけず呆けていた愛も、それには瞬時に頭を沸騰させる。
次の瞬間、愛は精一杯足を伸ばしてコスモスに蹴りを入れようとした。なりふりなど構わずに。
そこには、ただの害意しかなかった。
「見ないよ! 見るわけないでしょ!」
無我夢中で足を振り上げる。何度も、何度も。
いつしかその目からは、白色の街灯でキラキラと光る雫が散っていた。
その姿の何もかも、見ているのが辛かった。
どうしてだろう。これまでクラスの男子や卓球部の同級生から気遣われた時は堪えることが出来た涙が、こんなにも溢れそうだ。
こんな涙こそ、絶対に流したくないのに。
コスモスは、それでも訳の分からない懇願を続ける。
「見て! もっと私を見て!」
叫ぶ、また叫ぶ。
どう見たって危険な、緊迫した状況。
「おい! 止めろ愛っ!」
愛を離させながら声をかけ続けたが愛はじたばたする動きを止めようとはしない。親の仇敵でも見つけたような顔で、ただ目の前の少女を睨みつける。
あまり見たくない、痛切な表情で愛は振り返った。
「……なんで庇うの、健二君? ねぇ、なんで? まさか、この子のこと好きとかじゃないよね?」
クルッと反転して俺の両腕を掴む手には、男ですら痛みを感じるほどの力が込められていた。
「違う! 違うから、とりあえず落ち着け! な?」
じっと愛の目を覗き込む。俺の目を覗き込ませる。
そして、再び静寂が訪れた。空気が凍り付いてしまったのかのように、呼吸するたびに肺が痛む。それでも俺は目を逸らさない。
「憶えてるだろ? この場所」
弾かれたように辺りを見渡す愛。
シマトネリコの街路。
寒々しい白色街灯。
愛が己の中の恐怖に打ち勝ち、立ち向かう覚悟を決めた場所。
「あの日の愛を思い出してくれ。頑張って頑張って、幸せになるために俺のところに走ってきてくれた、強くて優しいお前を、思い出してくれ。頼むから」
「……ふぇ……」
強く強く俺の腕を掴み、そこに確かに存在することを確認する。それから俺の胸に顔を押し付けると、そのまま声を押し殺して空知らぬ雨を降らせ始めた。
「いつも強くなんてなくていい。でも弱さを見せるときは他の人に当てるんじゃなくて、俺に向けてくれ。ちゃんと受け止めるから。お前の弱さを、俺も一緒に持ってやるから。これから俺も、きっと愛に弱いトコ見せるはずだし。それを愛にも持ってもらって、それでお相子だ」
擦りつけられた首の動きからして、頷いてくれたんだろう。
夜になれば多少肌寒く感じるようになってきた今日この頃。胸に降り注ぐ熱い涙は、心臓を温めるのに丁度いいかもしれない。
「あら、フラれちゃったわね」
腰に両手を当て呟かれた暗いニュアンスの言葉は、しかしさっぱりした表情から出ていた。
全くこいつは、いけしゃあしゃあと。
「好きな子を苛めたい小学生男子みたいに調子乗ってんじゃねえよ。また卓球部が休部にでもなったらどうするつもりだったんだ。今度こそ俺は辞めにゃならん」
「違うわよ」
「何がだ」
「私がレズビアンだってこと」
ここにきてその話題か。
「……だったらどうした」
ウンザリしつつ言い返す。
お前がレズビアンだろうがそうでなかろうが俺には関係ない。
しかしコスモスが言いたかった核心は、そんな部分ではなかった。
コスモスは例のとびっきりスマイルを浮かべると、こう言ったのだ。
「私、あなたに幸せになって欲しかった」
予想外の言葉にポカンとしている俺から視線を切り、言い終えるとすぐに反転して背中を向ける。それから既に真っ暗な空を仰いだ。
「私には、これしか思いつかなかった」
顔面に腕を持っていく。袖で目元を押さえる仕草。
それでも拭いきれなかった雫が、白く煌めく。
それはあたかも、遠くにあって掴めない、星のようだった。
「幸せになる方法を一つしか知らない私は、こうすることしか思いつかなかった」
上げていた腕を勢いよく下ろすと、両手を背中側で組んだ。
「こうして私の不幸を見てもらうことしか、思いつけなかった」
日本の都市圏では、もう殆ど星空は見られない。
その真っ黒なスクリーンにも今日は、一つだけ強い煌めきを放つ星が見つけられた。
「初めてなのよ、こんな気持ち」
コスモスは、覚束ない視線を括り付けられるものを探していたのか、その星を見つけると顔の動きを静止させる。
すぐにでもへたり込みそうになるのを堪えるように。
その頼りない光に、縋るように。
「誰かに不幸せになって欲しいとは何度も思っても、誰かに幸せになって欲しいなんて思ったこと、これまで一度もなかった」
唯一動いているはずの口元も、こちらからでは見ることはできない。
「私の父、今どこにいると思う?」
突然の問いかけ。コイツのこれまでの言動を推測すると、答えは一つしか浮かばない。
「宇宙、とか?」
もう星になっている。つまり、既にこの世を去っている。
そうとしか考えられなかった。
「ふふ。それだったらどれだけ良かったかしら」
どうやら正答ではなく、その実感の込められた言葉は、痛々しいほどに切なかった。
そうして、コスモスの口から紡がれた正解は、そんな生温い予想を嘲笑うような衝撃を伴っていた。
「父は今――刑務所にいるの」
良くニュースなどでは耳にする単語ではあるが、しかしそれはメディアを介した音声情報でしかない。
実際に肉声による発音で、その単語を耳にすると、こうも強烈なのか。
自分には縁遠いと、遠目から笑っているだけだと思っていた場所が、思ったよりも身近にあった。
途端に足元が心許なくなった。
隣からも、息を呑む気配が伝わってくる。
「複数の女性と不倫した挙句、母にバレてその全員を殺そうとしたそうよ。幸い、全員が無事だったらしいけど、殺人未遂、傷害罪、その他諸々余罪が付いて懲役六年。法廷で反省の弁なんて何一つ言わなかったらしいわ」
笑っちゃうわね、とコスモス。
ふざけるな、と。そう思う。
父親のこともそうだが、何よりこの壮絶な過去を自ら口にして、それを笑いながら言おうとしているコスモスに対して。
何気なく言っているが、今、どれだけの痛みが伴ったのか。
それを伝えろ、と。そう思う。
「母や親戚の人が私をマスコミから守ろうとしてくれたし、その地域からも引っ越したんだけど、その話が――私が一時期大きなニュースになった犯罪者の娘だってことが、どこかからクラスメイトに伝わったらしくて」
その結果なんて目に見えている。まず一部からの無視が始まり、続いてクラスのほとんどを巻き込んだ嘲笑になり、嫌悪になり、やがてイジメに発展する。そうなってしまっては、数多の学生が満喫しているであろう中学校生活が、一片も残らず消し去りたい記憶に早変わりする。
俺の予想は、あながち外れてもいなかったらしい。
抑揚の無いコスモスの平坦の声色。思い出すのも嫌なのだろう。
「何度も引っ越したけど、噂は付いて回ってくるのね。どこに行っても結果は同じだったわ。それでも時間の流れの中で騒ぎは収束していったけれど、落ち着いた頃にはもう、私は周囲との付き合い方を忘れてしまっていた」
結局、一人なのは変わらなかった、と。
皮肉だな。
でも、とても人事ではなかった。
もしその場に俺がいたら、どうしていただろう。
改めて自問するまでもない。
俺だって――コスモスを追い詰める有象無象の一人になっていたに違いない。
逆に俺が彼女の立場だったら……
そう考えてすぐ、俺は続きの思考を放棄した。
放棄し――逃げてしまった。
それが何より俺を苛む。
自分の情けなさに、彼女への申し訳なさに、もっと簡単に言うなら度胸も勇気も何も無い己の弱さに、彼女からしたら願い下げだろう後悔を得る。
次の一瞬、俺はコスモスの背中を見つめていた顔を伏せてしまった。
「友達の作り方なんて指南本があるとしたら、それはきっと相対性理論より難解よ」
そんな押し殺した苦笑に釣られるほど、俺たちは馬鹿じゃない。
「どうにかやり直そうとした。なのに、世の中ままならないものよね。何もできないまま、そのうち教室で談笑する声が煩わしくなった。私は孤独、周りはグループ。何だか腹が立った。理屈なんて何も無い」
その頃なのだろう、コスモスが幸福について考えるようになったのは。
あの空しい結論に至ったのは。
「今考えるとお門違いもいいところだけど、それを心に押し込めて我慢できるほど大人でもないのよ、私。あなたと一緒で」
上空に向っての独白は、冷えた空気に溶けていくように、仄かに滲んで届いた。
「今の高校に入ってもそれは同じ。周囲のクラスメイトが笑顔を浮かべている中で私一人だけ俯いてた。時々話しかけてきてくれる子はいたけど、すぐに他の子に止められたりして。集団生活してる人間なんて薄情なものよね。集団から外れる事を怖がるから」
シニカルな語り口に、俺は少しだけ共感を覚えると同時、こんなにも見苦しいものなのかと身震いした。
「何の感慨もないまま二年生になって、何の気概も湧かないまま四ヶ月を過ごして」
一旦、言葉を止めた。その先のセリフによって大きく動くはずの、自分の中の気持ちを整理でもしているのだろう。
俺も、覚悟しておこう。
「――あなたに出会った」
いつしか泣き止んでいた愛も、コスモスの話に聞き入っている。それが彼女の心の内を認め、受け止めようという気持ちの表れなら嬉しいよな。
「比喩でも何でもなく、生まれて初めて誰かと触れ合った気がした。そっけない態度取ったけど、凄く嬉しかったのよ。あなたの言葉」
演技派だな。そんな様子これっぽっちも見せなかったくせに。
「あなたが帰ろうとした時、どうにか引きとめようとして話しかけた。そしたら、何だか私と似ている気がしたのよね。言葉遣いが擦れてるところとか」
小さすぎた苦笑は吐息だけ。
「次の日、あなたがよく卓球で表彰されてるのを思い出して卓球場に行ってみたら、あなたは沢山の人に囲まれて笑顔を浮かべてた。それが無性に悔しくてね。何が悔しかったのかは私にも分からなかった。その時は」
晒し者じゃなかったのかよ、とは口には出さない。ただ黙って続きを待った。
「でもね、気付いたのよ。あの日、廊下で奈津子の叫びを聞いたときに」
胸元で愛が息を呑んだのが分かった。予想できたんだろう。その言葉の続きが。
「この気持ちは、奈津子のそれと同じなんだって」
愛は目を伏せる。逆に俺を掴んでいる手には力を込めた。
「あなたが他の女の子と笑い合ってるのが悔しかった。私以外の女の子と楽しそうにしているのが凄く嫌だった。新鮮だったわ、私が言うのも何だけど、こんなに黒い気持ちは初めて感じたから」
それでも俺の気持ちは愛に向いている。それを伝えるように愛の手に力を返した。
「どうしたらいいんだろうって考えて、自分の将来とかそんなもの以上に一生懸命考えて思いついたのは、あなたに私の不幸を見てもらって幸せになってもらうっていう、どうしようもなく救いようのない方法だけ。さすがにこれまでの私の人生を恨んだわ」
ふふ、という笑い声が今度は鼓膜に届いた。笑みの種類は自嘲だろうか。
「でも、それでもあなたは幸せになってくれなかった。あんなに痛い思いしたのに、何の見返りもなし。まったく、割に合わないわ」
……全く。なるわけねえだろ。
「幸せになんかなるわけねえだろ」
「……あなたもドSね。これ以上追い討ち掛けるなんて」
「違う」
はっきりと口にした否定の言葉に、コスモスは反射的に振り返った。それを待ち構えていた俺はその視線とばっちり目を合わせた。
いつかの仕返しだ。
せめてもの情けとして、赤くなった目元には触れないでおいてやる。
「あのとき美月さんが言ってた幸せには、一つ前提条件がある」
「…………なに?」
「不幸せになるのが、赤の他人でなきゃいけないってことだ」
真面目に語る内容でもないな。なので俺は苦笑に表情を改めた。
「残念ながら、俺たちはもう赤の他人ではない」
「あら、婚姻でも結んでくれるのかしら?」
飛びすぎだ、ボケ。
「友達だ」
「…………」
そう。目を見開いているお前が難解だと言った、あの友達だ。
「残念ながら、友達が傷付いているのを見て嬉しくなれるほど、俺の心も、この世界も、荒んじゃいないんだよ。残念ながら、な」
「……じゃあ、どうすればよかったのよ。私にはそれ以外に思いつかないのに」
コイツ、卓球に関してはあんなに器用なのに、こういう人間の機微みたいなところにはてんで不器用なんだな。
相変わらず神様も人が悪い。長所と短所、バランスよく配分してくれちゃって。
「俺だってよく分からねえよ。同じく恋愛ビギナーなんだから」
「女の子に修羅場演じさせた人がよく言うわ」
うぬ……、そう返されると言葉に詰まる。
「でもさ」
急に愛が俺を見上げてきたと思ったら、俺の手が自然と愛の頭を撫でていた。
「あんだけすぐに卓球の動きを憶えられたんだ。愛や、相川の様子を見てたら分かるんじゃないか? どうすればいいかなんて」
「……分からないわよ」
物分りの悪い生徒は困る、なんてな。ちょっとした意趣返しに心を良くしたので、そろそろ俺なりの解答をレクチャーしてやるか。
「多分だけどさ、どうもしなくていいんだ」
「? どういうこと?」
「俺はさ、愛に何かをしてもらったから好きになったわけじゃない。もちろん伝えられた言葉で心臓がバクバクした事はあるが、それだって特別な事じゃないだろ? つまりさ、そのまんまの自分で会話してればいいんだ。そこに気持ちが表れて、性格が表れて、それを見たり聞いたりした好きな人に自分の事を知ってもらう。逆に相手のことを知ろうと、たくさん話しかけたりもしてさ。そういうのの積み重ねが恋愛になるんじゃないかって、ひねくれた俺は思うぞ」
ふう、長いモノローグだった。
恋愛なんて語れる年齢ではないのは百も承知だが、それでも何も分かってないコイツになら考え方の一つを教えてやるのもいいだろう。
相川のぶー垂れた顔を思い出す。心で何かを思ったところで、口に出さなければ、それは人には伝わらない。表面を取り繕って、違う自分を演じていたら本当の自分を見てもらうことなんてできない。
それだけなら簡単にも見えるが、ところがどっこい、これがまたかなり難しい。
好きな人の前でいいカッコを見せようと理想的な自分を演じる。それは裏返せば本当の自分を見せて嫌われる事への恐怖でもあるはずだ。そりゃそうさ。本当の自分が嫌われたら完全に望みは絶たれるんだからな。
でも、本当の自分を見せ合って好いたもの同士なら、それこそ一生のお付き合いになる可能性だってあるだろう。ま、そんな人と出会える可能性がどれだけかは知らないけど。
それでもやっぱり、この世界では確かに一生を添い遂げようと誓い合った夫婦が次々に生まれている。もちろん離婚する夫婦もその中からは出てくるだろうが、そんなネガティブな話題はどうでもいい。最初から離婚を前提として結婚する人なんていないんだから。
何が言いたいかって、やはり夫婦っていうのは、ちゃんと自分に合った人を見つけ出した結果なのだ。
そう、どこかでお互いに妥協してさ。
そこから最大限の幸福を得ようと努力する事で夫婦というものが成立していく。
ポジティブかネガティブかの違いは有れど、コスモスの言っていた『妥協』という言葉は的を射ていたのかもしれないな。
今は夫婦の例を出したが、夢に関しても同じ事が言えそうだ。
人はきっと、夢に優先順位をつけるのだ。その第一志望から実現できる可能性を吟味していって、叶えられそうになければバッテンをつけて一個下へと降りる。それを繰り返して己に実現可能な夢の中で最大限に幸福を感じられる場所を見つけて、そこで『妥協』する。
これこそが、上手く行ってる人間社会のシステムの根幹なのだ。
『妥協』っていい言葉だな、と俺が変質的な結論を得ながら、そんな結論を導くきっかけとなった人物のことを思い出した。
その人物――コスモスはどんな反応をしているかね。自分の過去と照らし合わせて何事かを考え込んでいるだろうか。俺の威厳ある持論に感涙を流しているだろうか。
果たして結果は――
「ふあぁぁ~」
――欠伸を、していやがった。
「……………」
……それはないだろう、いくらなんでも。こっちはあんな小っ恥ずかしい長台詞を送ってやったというのに。
俺の険の籠った視線に気付いたのか、コスモスはいつかみたいに俺を宥めるように手をひらひらさせ、
「だって長いんだもの」
この恩知らずが。
「でも、これが素の私よ」
「なに?」
「だから、これがそのまんまの私」
「……何が言いたい」
「あら、好きになってくれないの?」
「なるかボケ!」
俺の魂のシャウトを叩きつけてやるとコスモスは五月蝿そうに耳を塞いで、子蝿が集団飛行している球体ゾーンに突入してしまったかのように顔を険しくした。
「何よ、結局違うんじゃない」
「お前の捉え方が間違ってるんだっつうの!」
俺だけが体力を消費する言い争いに、しかし先ほどまでの険悪なムードは微塵も無かった。その証拠として、先ほどまで険悪ムード形成因子であったはずの愛が、今では小鳥の囀りのように小さく笑っている。
この上手くいってる世の中を生きている人々の雑踏や、むしろけたたましくもある虫の鳴き声。街路樹の立てるさらさらした葉擦れの音まで、全てが俺の外耳道に我先にと侵入を果す。
戻ってきたいつもの空気に俺は胸を撫で下ろした。が、
「愛」
と、コスモスが呼ぶ声を聞いてもう一度ビクッと身体を緊張させた。この期に及んで何を言うつもりだ。
「あなたたちの悋気諍いに、私も入れてくれないかしら?」
「……ふっふふ、あははっ」
突然の笑い声に背筋を震わせる俺だが、それはしかし、いつもの愛のスタッカート気味な笑声だった。
つうかリンキイサカイって何だ? ……『リンキー酒井』? 誰だその一発屋の臭いがぷんぷんする芸人は。最近流行ってるのか? リンキー酒井。
愛は普通に分かっているらしい。女子には人気なようだ。
「はは。うん、分かった。いいよ。あんなに言われちゃったら断れないよ。皆、気持ちは一緒なんだもんね」
「ふふ、ありがとう」
「いいえ。趣味が一緒ってことは気が合うってことだもん。これからは仲良くなれそうだし。だから」
愛は俺から身体を離すと、コスモスと正面から相対する。そして、
「さっきはゴメンね、嫌なこと言って」
頭を下げた。
「別にいいわ。それくらいじゃないと私も張り合いが無いから」
「言ってくれるね。でも、負けるつもりは無いよ。今現在の部長は私だってこと、忘れないでよねっ」
ランキング戦の話か? だとしたら悋気諍いってのはランキング戦の隠語か。
――なんてボケをカマスほど俺は鈍感ではないのだ。さすがにもう意味は読めている。
俺の今の状況は『女難』って言うのだろうか。結構満更でもなかったりするのだが。
でもこの関係は、ちょっとした外力が作用しただけで簡単に争いの火種になるだろう。俺だって満更でもないとか気を抜いていられないな。
ともかく俺は今、愛の彼氏なんだ。
それをもう一度自覚しよう。
ふと見上げた空は滲んでいて、等間隔に並ぶ街灯や遠くのビルの明かりが視界一杯に広がっている。
満天の星空に、見えなくもなかった。