十四話
姫宮――いや、愛が卓球部に戻ってきてから、もうすぐ二週間。次に太陽が水平線から昇ってくる頃には卓球部の休部期間も終わりを迎えているはずだ。
相川と同じクラスの西岡さんが愛に対してどんな感情を持っているのか内心ビクビクしていたのだが、案外普通に話していた。時々ペアを組んだりもしており、どうやら西岡さんの敵は男である俺だけらしい。
相変わらずペアのいなかった俺は心優しい最強少年進士君に「しょうがないなぁ」と相手をしてもらったり、コスモスの練習に付き合って彼女の凶刃の第一被害者になったりしながら過ごしていた。
そして本日、公民館での練習最終日。
練習開始前のミーティングに際して、部員たちの輪の中には二人。男子部部長の俺と、女子部部長の愛が並んでいる。
「さて、本日も練習開始な訳だが……」
「今日でここでの練習も終わりだよね。ってことで、皆に大ニュースがありまーすっ」
内容を知っている俺としては愛の浮かべる満面の笑顔が悪魔の微笑みにも見えた。
「な・ん・とぉ」
ほら。そんなにもったいぶるから一年生たちが何か嬉しいニュースでもあるのかと目をキラキラさせてるじゃねえかよ。まあ休部期間が終わったからこその話でもあるから嬉しいニュースに違いは無いんだけど。
さっさと言っちゃえ。それが皆のためだ。
「明日ランキング戦をやりまーすっ!」
『ええ――――!』
不満の声が俺たちを四方から囲い込む。
「何が不満なんだお前ら。楽しい楽しいランキング戦だろうが」
「だって卓球場に戻って最初の部活ですよ。もうちょっとお祝い的な、お祭り的なことしましょうよ」
「お祭りだろうが。ランキング戦」
「それは部長たちだけっすよ」
そう言う割に最強一年生進士君もソワソワしてるじゃないか。
不満を多分に含んだざわめきが体育館に響いていたが、そのまましばらくすると一年生女子からわくわくした感じの弾んだ声が漏れ始めた。
「でも今回の二年生の女子って、面白そうだよね」
「うんうん。相川先輩はいないけど、松本先輩との猛特訓で実力急上昇中の弓削先輩がいるもんねっ。台風の目になりそうな予感!」
コスモス、だいぶ期待されてるみたいだな。
確かにこの二週間でコスモスは滅茶苦茶強くなった。人のを見てすぐに真似できるってのは俺が思っていた以上にすんごい能力のようで、卓球部トップクラスの選手のフットワークを真似してすぐに身につけるし、物珍しいカットなんてものを目にした途端にじっと凝視して、次の瞬間には素晴らしいカットを俺相手に繰り出してきた。
砂漠の砂に水が滲みこむように技術を吸収していったコスモスの今の実力は未知数。はっきり言って、愛でも難しい試合になるかもしれない。
本人も同様に思っているのか一年生たちの声に顔を険しくして、目を細めてコスモスを睨んでいた。その愛らしい顔立ちゆえに相変わらずプレッシャー皆無だったが。
これまでずっと傍観者の立場にいたコスモスにとって注目されるっていうのは未曾有の事態なのかもな。目を大きく見開きながらパチパチと瞬きを繰り返している。
「ともかく。そういうわけだから、今日はいつも以上に気合入れて練習しろよ」
はーい、という返事には残念ながら気合は感じられなかった。
肩を落として台へと向っていく姿に苦笑いしながら、本日も俺にはパートナーがいないいかなー、と寂しい諦観でもって体育館内を眺めていると。
「健二くん」
「健二」
とある二人から同時に声を掛けられた。
その二人とは、
「あれ美月ちゃん。昨日の一年生の子はどうしたの? なかなか息合ってたじゃない」
「愛こそ、毎日一緒に練習してるパートナーはどうしたのよ」
会話にあったとおりだ。言葉に棘があるのは気のせいだと思いたい。
「うぐ…………、………………じゃあ!」
昨日だけと毎日では、練習相手を変えるのに分が悪いと判断した愛は作戦を変える。
結構卑怯な方向に。
「私は部長だから、健二君とちょっと部長同士のお話があるの。そのついでに一緒に練習しようかなーって思ってはいるんだけど」
「あらそうなの」
表面的には平静だが、裏でどうなっているかは知らん。
「でも私も相手がいなくて困ってるの。ほら、今って部員が三十一人でしょ。奇数だから余っちゃうのよね、一人。で、それが私なのよ」
なるほど、妥協したか。
「だから、二人のところに私も混ぜてもらえないかしら?」
「うぐ…………」
再び言葉に詰まる愛。愛はさっき、自分は部長であるとそれとなくほのめかした。そこを逆手に取ったコスモスが上手い返しをしたわけだ。部長だったら困っている部員の頼みを聞かないわけにもいくまい。自分で自分の首を締めちまったな。
「はあ………………、分かった。一緒にやろう」
「ありがとう」
このとびっきりスマイルの裏にはどれだけの権謀術数が渦巻いているんだろうか。マキアヴェリの再来を予見しぶるぶると震える俺の体。シバリングってやつだな。
相変わらず人気のダブルスの台は埋まってしまっており、どうも近頃空前のダブルスブームでも来ているっぽい。それは置いておいて空いていたシングルの台を確保すると、コスモスはラケットを持って我先にとサーブ練習を始めてしまった。一人でもできるサーブ練習を、だ。
その身勝手な振る舞いに面食らう俺たちだが、当のコスモスには正統な理由があった。天然であれ確信犯であれ、そのキョトンとした顔が邪悪に見えてしまうのは俺の誇大妄想もしくは被害妄想か。
「あら? 部長同士でお話があるんじゃなかったの?」
こいつは自分に有利に働きそうな他人の言動なら一生でも平気で憶えていそうだ。また己の発言に足元を掬われた愛が半べそを掻く寸前のように鼻をすんすん鳴らし始めたので、そろそろ助け舟を出してやるとしよう。
「急ぎの用件でもないから後でいいんだよ。今は練習だ」
「……ふーん、そうなの」
なぜだか胡乱な目で俺を見つめるコスモス。なんだその倦怠期に突入した奥さんが旦那を見ているような視線は。
「まずは二人でどーぞ。俺はちょっくら他の台巡回してくっから」
部員たちが部長である俺のアドバイスを聞いてくれることを祈りつつ、俺はその場から離れ――ようとしたが唐突に腕を引っ張られたためにできなかった。
何事かと振り返ってみれば、愛が俺の体操服の袖口をぐわしっと掴んでいた。
「……………………何だ?」
「混合ダブルスの練習しよう!」
「……ダブルスが回ってきたときに練習すればいいだろ」
「その時にすんなり入れるように、こっちで練習しとこう!」
チラッとコスモスを見てみればラケットとボールでジャグリングを始めていた。自分の才能を持て余して、暇潰しでさえ高度な事をやってのけるのはもう見慣れた感がある。
「……ちなみに、俺の相棒はどっち?」
「……どっちがいいの?」
そう来たか。
ドラマなどで見ていて、俺はいつも思う。こうした『どっちがいいの?』という問いは選択肢を二つ用意しているように見せかけているだけで、最初から片方しか選べないように細工されているのではないかと。その高度な精神的トリックの鍵は、目の前の愛が現在遂行している上目遣いであるのは間違いない。
こんな目をされて期待を裏切れる男がいたら見てみたい。ちなみに俺は無理だ。
というわけで――
「えへへー」
愛になった。
「いくよ、美月ちゃんっ」
「……ええ、どうぞ」
いい加減その自分じゃない女の髪の毛を見つけた倦怠期の奥さんみたいな目を止めてもらえないか。俺にそんな筋合いは無い。
「そー……れっ!」
初めはにこやかだった愛もサーブを打つ瞬間には牡鹿を前にしたスナイパーの目になっていて、卓球始めてまだ一ヶ月もたっていない新入部員に向けて己の必殺サーブを仕掛けた。どんな意図があったのかは訊かないでおこう。
コスモスに対して遠慮すると痛い目に遭うのは過去の俺を見て確認済みだろうしな。
今の愛の下回転サーブは九分九厘、大会でも使っている実戦用サーブだった。
そう、本気だったのだ。
「…………っ!」
バチコーン! と。
――その本気を真正面から打ち砕かれた。
返せなかった俺を誰も責められまい。愛が障害となってしまって物理的に取れないコースに打たれたんだから。
愛の下回転サーブは強力だ。これを無理にドライブで返そうとしたらほぼ百パーセントの確率でネットに掛かってしまうので同じ地区のライバルたちの間でもセオリーどおりツッツキで返すのが常識となっている。
なのにコスモスは常識などお構い無しに高速ドライブで打ち返した。
もちろん不可能ではない。打つときのラケットの角度を上手くすれば返せないこともないだろう。しかしそれは、愛と同レベルの人たちでさえ諦めるほどの技術なのだ。
コスモスはいつも通りの涼しい顔で『どうしたの?』とでも言うように可愛らしく首を傾げている。その仮面の下にあるのは性悪などや顔だろう。
愛の絶対の自信を液体窒素に数十秒浸した薔薇の花みたく木端微塵に粉砕したんだから。
「あら、愛どうしたの?」
塩をかけられた菜っ葉みたいにへなへなと崩れ落ちる愛を無邪気に眺めながらそれを言うか、この確信犯め。
「文明の更なる発展に思いを馳せてるんだよ」
「? 相変わらず意味分からないわ」
「俺だって分からねえよ」
愛の肩を叩いてやるが、反応は返ってこない。手首を掴んで確認してみるとちゃんと脈は動いており、ショック死は避けられたようで一安心。
しかし立ち直るまでには相当な時間が掛かる事が予想された。
「どうしてか愛も動かなくなっちゃったし、私たちで練習しましょう」
どうしてか、ってか。なんてヤツだ。
「お前さあ」
「名前」
しまった忘れてた。
「美月さん、さぁ」
「何かしら」
「愛はある意味病み上がりなんだから、不幸に陥れて楽しむの止めてくれないか」
「あら、気付いてた?」
ここまであからさまに俺に付いて回られたらな。
「今の実力なら他の人を相手にすれば、ほぼ確実に勝てるだろ」
「んー、けど。どうしてか無性に愛の不幸が見たいのよね」
それはただのイジメではないだろうか。
「第三者的に妥協した幸せが本当の幸せなんじゃなかったのかよ?」
「? どうしたの、急に?」
「気付いてないのか? 美月さんがもうとっくに第三者の立ち位置じゃなくなってるの」
コスモスは顎に人差し指を添えて首を傾げる。それが絵になるから始末が悪い。
「……そういえば、そうね」
「だろ? もう今では自分で手を下して他人に不幸をプレゼントしているわけだ。これじゃあ敬遠していた他人の恨みを盛大に買うことになるぞ」
「確かにそうなんだけど。でもどうしてか愛がいいのよ。私レズビアンだったのかしら」
変なカミングアウトをするでない。
「まあ、そうね。これからは少し抑える事にするわ」
「……少しなのか」
「ええ、少しよ」
あまり期待できそうにないな。