プロローグ
俺には夢がある。
――嘘だ。そんなものこれっぽっちもありはしない。
小学生の頃は逸遊に勤しんではヘラヘラ笑って楽しい毎日を存分に謳歌していた。卒業文集にも『プロ野球選手になりたい』とか『宇宙飛行士になりたい』とか叶うはずもない壮大な夢想を無邪気に書き記していたのだろうが、生憎と現実社会に摺れてひねくれてしまった俺は純粋だった頃のそんなこっ恥ずかしい思い出なんざとっくにデリート済みだ。
夢のような六年間を経て中学生になると大人はその夢に現実味を帯びさせようとする。本当に自分がなりたいもの、やりたいこと、この世に五万どころか五億とありそうな漠然とした選択肢の中から何か現実的なものを子供に見つけさせようとする。
俺からしてみれば、それは子供に夢を見ることを止めろと言っているも同然のように聞こえたもんだ。
そして高校生にもなれば、その雑音は耳を劈くほどのものとなる。早いヤツは高一の頃から進学塾に通い始め、三年後に控えた受験戦争を勝ち抜くための戦闘力をしこたま頭に叩き込む。そんな高校生の頭の中にあるのは、大人から植え付けられた実際に叶えるために夢と勘違いさせられた夢っていう名の現実なんじゃないかと思うのだがどうだろう。
その時分になれば、周囲の大人は『いつまでも夢を見てるんじゃない』とか喚き始めるしな。一体どっちだってんだ。
この世には、そんな相反する言葉に臼で挽かれる小麦のようにゴリゴリ転がされて、将来なんてモノに想像を膨らませられない子供が増えているんじゃないかと思えてならないね。ま、かく言う俺もその一人なんだけど。
なんて、大仰に語っておきながら俺が言いたいのはそんな事ではない。本題は、何のために夢を持つのかって事だ。
答えは一つ。幸せになるためだ。
とか、自分で口に出しといて現実味のない言葉だな。幸せ? 何だそりゃ。何になったら幸せなんだ? 夢だと思い込んだ現実味のある確立で実現可能な未来を手繰り寄せたら幸せなのか? 好きな人と結婚したら幸せなのか? 長生きしたら幸せなのか?
まあそのどれもが幸せなんだろうさ。俺は一つも該当しないから分からないけど。
でもその幸せには人数制限があるんじゃないだろうか、と思う。
例えば大学生が希望の企業に就職できたとなれば自分の代わりにその企業に入社できない人が居る。例えば女性が好きな人と結ばれて結婚したとなれば相手のことが好きだった別の人は悲恋に慟哭するんだろう。
幸せになると人はどう思うんだろうな。自分は幸せだから嬉しいのか、他の人を蹴落として幸せになってしまったから悲しいのか、幸せってこの程度かと落胆するのか。
そう考えると、なんだか幸せってつまらないな。
どうだ、このひねくれっぷり。何せ俺も時々脳ミソがどうかしてるんじゃないかと真剣に悩む時があるくらいだ。ある種の人から見たら不良なんだろう。高二にもなって志望大学を決める事すらせず、というか大学の名前すら知ろうとせず、本気で努力して所望の大学のブランドを狙っている人からすると俺なんて目障りでしょうがないんだろうな。
それでも、こればっかりはどうしようもない。何も思いつかないんだから。
夢って何だ? 幸せって何だ? 喜びって何だ?
こんな漠然とした言葉を漠然とした頭でぼーっと考えながら既に高二生活も無気力なまま五ヶ月が過ぎた頃――俺は出会った。
――幸せを勘違いしたアイツに。