ひとよのこい
ヒトヨの母は人魚であった。宵の空を切り取ったように深い青色をした鱗と同色の髪。朝焼けを思い起こさせる黄金の瞳をしていた。
彼女の娘であったヒトヨも、そんな彼女と同じ黄金の瞳を持っていた。けれども髪は父親譲りの漆黒で、尾鰭も先端が薄紅色に染まっているだけで後は肌と同じ象牙色をしていた。
ヒトヨは父親が生きていた頃の記憶がないため、象牙色の足も漆黒の髪も何とも思ってはいなかったが、ヒトヨの母は父親のそれをたいそう喜んだ。ヒトヨはそんな母とともに、物心ついた頃から、城の奥地にある神殿の中に築かれた大きなため池の中で暮らしていた。
ため池は神殿の中心にあった。池のほとりには木々が生い茂り、周りを大振りの石で覆われておりその外側には手入れのされた芝が敷かれていた。池の在る場所は四面を石の壁で囲まれていて、天井は半球形の硝子が内と外を分けてていた。
その池にいても話し相手は母親しかおらず、毎日果物を持ってくる女人たちはヒトヨとも母とも話そうとはしない。だから、ヒトヨは時折吸水口を通り水路をぬけて、そこから繋がっている森や砂丘付近の湖にでかけていた。そうして森の中の湖で、人間の友人であるリセツと会うのだ。
彼とヒトヨが出会ったのは八年ほど前に遡る。まだ十歳程であったリセツが蛇探しをしているときに、湖から顔をだしたヒトヨと遭遇したのが始まりだった。リセツは彼女が人魚だと知るとたいそう驚き、そして喜んだ。彼の、そしてヒトヨ自身の暮らすこの国は海に面した緑の多い豊国であり、王族はの血族であるため海神を国教としていた。だから人の形を持ちながら海で生きることができる人魚もまた、崇められる神物の一つであった。
リセツは優しく真面目な少年で、人の世に疎いヒトヨの疑問にいつでもつき合ってくれた。分からないことがあれば一緒に考えもした。そうしてヒトヨにとってリセツは、出会ってからの八年間で最も気を許せる人間となった。
◇ ◇ ◇
“人になる方法って知ってる?”
ある日、ヒトヨは湖のほとりで蛇取りの罠を仕掛けているリセツにそう尋ねた。
「ママが言うには、わたし人間にもなれるかもしれないんだって。人と同じような足が手に入れば、陸でも生きて行けるって言われたの。人の足にちょっと似ているでしょ?」
ヒトヨは上半身だけを岩辺に乗せて、水に浸かった肌の色と全く同じ白い足を指し、こちらを振り向いたリセツに向けて首をかしげる。
「ねぇ、わたしの足、どうしたら人みたいになるかしら」
リセツは呆れて首を振った。それから、言い聞かせるように言葉を選んで話しだす。
「君は君の肌と同じ色をした人魚の足を気に入ってるんだろ? 母親から貰った大事なものなんだから、そのまま大切にしなよ。それにね、人魚は神の生みだしたモノで、その形を変えることが許されるのは神だけだとも言われている。だから人が勝手に手を加えてはいけないものなんだ」
僕は神の呪いなんて受けたくないよ、そう言って彼は苦り切った顔をした。
「そうね。でもいつかわたしがこの生活に耐え切れなくなったら、人になる方法を一緒に考えてくれる? あなたは一緒に考えてくれるだけでいいわ」
母と暮らすのは幸せだが、母とリセツ以外と話す機会がないことが不満でもあった。そして限られた場所へしか赴けない現状が、ヒトヨは退屈でしょうがなかった。
足があれば、陸地を渡って海へと行けるのだ。もちろん今すぐにというわけではない。ヒトヨは母を置いてどこかへ行こうとは考えてはいなかったし、退屈ではあるもののこの生活が嫌いではないのだ。ただこの先の生涯で人になりたいと思ったとき、それを知らないのが嫌だった。ヒトヨは人魚だから、リセツとは違い長い時を生きる。出会ったときから八年経って、リセツは大人へと成長した。幼かった顔立ちも精悍さが増し、ヒトヨより細かった手足も、比べるまでもなかった。けれどもヒトヨは出会った頃と変わらず、ずっとあの頃のままの姿をしていた。
ヒトヨにとって、一緒に何かを考えてくれる相手はリセツしかいないのだ。
そんなヒトヨの頼みにリセツは肩をすくめて苦笑を返す。
「僕が生きてて、動き回れるほど元気だったら考えてあげるよ。でもまぁ、僕は人魚のほうが良いと思うけどね」
乗り気ではない様子のリセツの答えに、それでもヒトヨは喜んだ。
「約束よ」
渋る彼の手をつかんで小指を絡ませ握り締める、彼が握り返すのを確認すると、笑って水の底へと舞い戻った。そのときリセツがどんな顔をしていたか気づきもせずに。
◇ ◇ ◇
神殿内のため池へと戻ったヒトヨは水底近くでたゆたう母を見つけた。ヒトヨには母が、朝会ったときよりも痩せているように見えた。白い肌は青みを増して、いっそう血の気を感じなくなっていた。
ヒトヨは驚いて彼女へと泳ぎ寄る。
「ママ、どうしたの?」
声を掛ければ、母は薄らと瞼を上げて、目だけでヒトヨへと視線をやった。血の気の失せた唇で、ヒトヨの名前を呼ぶ。力のない小さな声を聞くために、ヒトヨは母の口元に顔を寄せ、その傍らでじっと耳をかたむけた。
「ヒトヨ。人魚にも寿命があるの。人魚は人よりずっと長く生きるけど、それこそ気が遠くなる程の時間を過ごすけど。けれどもやっぱりいつかは海へ還るのよ」
ヒトヨは海を見たことがなかった。けれども物心ついたときから、それが自分の帰るべき場所だと知っている。海で生まれた生物は皆、海で眠りにつく夢を見るのだ。ヒトヨの母は生まれは海であったが、いつしかここに連れ去られ、そしてこの作り物の水槽で生涯を終えようとしていた。
「海へ還れるの?」
不思議そうにするヒトヨに、母は笑いかけながらうなずく。
「けれども、海へ還るには天寿を全うしなくてはいけないの。神から与えられたを自身の手で終わらすことをすれば、天命に背いたことになってしまうから。そして他者を殺めることもまた、神のモノに手をだすことになる。だから決して死を選んだり、他者を害してはだめ。海に還ることを望むなら、理を侵してはいけないの」
いいわね、と言い聞かせるようにして、彼女は何度もその言葉を繰り返した。ヒトヨはその度に強くうなずいて、安心させるように母の手を摩った。
ヒトヨの母が海へと還ったのは、その翌朝のことだった。
◇ ◇ ◇
天頂にある太陽の日差しを受けながら、ヒトヨは森で一人友人を待っていた。母が死んだ日から二月経つが、リセツとは一度も会えないでいた。そのため約束を果たしてもらえずにいる。時々岩の上に果実が置いてあることから、折悪く会えないだけだとは分かっていた。
母を亡くしてから、ヒトヨは足を二つにすることばかりを考えていた。母がいない今、あんなに退屈な空間に居続けることなど考えもしなかった。
「一緒に人になる方法、考えてほしいのに」
岩辺から乗り上げて、森の奥を睨んでもリセツがやって来る気配は少しもしない。森はひどく静かで、いつもなら聞こえる鳥のさえずりも聞こえない。不気味な雰囲気にヒトヨは彼を待つのを止めて、神殿への帰路に就いた。
異様なのは森だけではなかった。
ヒトヨがため池へと戻ると、水面に射す光が影を帯びていた。それも一つではなくいくつも。もう何十年も生きてはいるが、こんなことは始めてであった。揺らめくその複数の黒い帯に誘われるようにして、ヒトヨは水面へと顔をだす。
黒い帯の正体は池を取り囲むように覗きこむ人間の影であった。
見たこともない数の人間が、顔をだしたヒトヨを凝視していた。なぜこんなにたくさんの人間が、池の周りにいるのかヒトヨには皆目見当がつかなかった。そうして戸惑ったまま動かないヒトヨの髪を誰かがつかんだ。
強い力で岩の上へと引きずりだされる。髪を引く痛みにうめくヒトヨのことなど気づきもせず、回りの人間たちが歓声を上げた。
「やっぱり人魚はいたんだ」
「王族は嘘つきだった。傲慢な独裁者め」
「これで疫病が治る」
「誰か縛る物と瓶を持って来い」
「逃げちまうだろ、ちゃんと上まで引きずりだせ」
口々に飛び交う言葉にヒトヨはわけがわからないでいた。呆然としている内にヒトヨは更に上へと引きずられた。ぬるい空気が彼女の足をなでる。声が途絶えた。
沈黙の中で人の視線が何に集まっているのか気づくと、ヒトヨは髪をつかむ男の手に爪を立てた。痛みに拘束がゆるんだ隙を突きその手を振り払う。転げ落ちるようにして水の中に飛び込んだ。顔をだしたままため池の中心まで泳ぎ、自分を凝視する男たちと対峙した。
先程までの騒がしさが嘘のように、辺りは静まり返っていた。血走った何対もの目が、ヒトヨを凝視していた。その異様さにヒトヨは池の真ん中で縮み込む。
「蛇だ」
静まり返る神殿の一室で、そう口火を切ったのは誰だったか。
「人魚じゃないじゃないか!」
部屋に一つだけある扉の、すぐ横にいた男が叫んだ。
「人魚はどこだ、どこへやった!」
「濃紺の尾を持つ人魚だと聞いたぞ!」
彼らの口にする“人魚”が母のことだというのはヒトヨにも分かった。けれども人魚はもういない。二月前に海へと還った。だから亡骸もない。
喚き立てる男たちの中で、一人だけ口を開かない者がいた。男の不思議な色合いの瞳が、静かにヒトヨを捉えていた。温度を感じさせないまなざしが、死に際の母の瞳の仄暗さを思い起こさせる。ヒトヨは小さく頭を揺すって視線を振り切ると、衆目から逃れるようにして水底へ潜った。吸水口をり、使い慣れた水路を通って森へと向かった。
リセツに会えれば、自分の置かれた状況が分かるかもしれない。蛇めと罵られたこの身を人にする、何か良い方法が見つかるかもしれない。
ヒトヨは森へと繋がる水路の中を泳ぎぬける。肌に触れる水は、奇妙な程に凪いでいた。
◇ ◇ ◇
森の湖にリセツの姿はなかった。だが神殿にいた人間たちに嗅ぎつけられるとも知れない場所に、長居などできない。ヒトヨは湖のほとりへ身を乗りだして声を張り上げた。近くにいるなら、リセツは湖へと来てくれると信じていた。
程なくして、こちらへ足早に向かってくる足音がした。リセツである。
彼は肩から大きな革袋を担いでいた。小柄な人ならなんとか一人入りそうな大きなそれをヒトヨの前に下ろす。リセツは膝を折ると、彼女に目線を合わせ言った。
「一緒にここを出よう。海へ連れて行ってあげる」
その言葉にヒトヨは目を見張る。海という一言に胸が躍った。けれどもそんな気持ちはすぐに消え去る。神殿の一室で言われた、蛇という称呼がヒトヨを躊躇わせる。手を伸ばしてくるリセツから身をよじり距離を取った。
「だめよ。わたし、ママと違うもの。こんな足じゃ、きっと受け入れてもらえない」
うつむき首を振りながら、ヒトヨは水の中に沈んだままだった足を持ち上げた。人に足を見せるのは、神殿でため池から引きずりだされたときを除けば始めてのことだった。
「わたしの足、蛇だって言われたわ」
ヒトヨの足の全貌を始めて目にして、青年は言葉を失った。白く細いそれはとても人魚の尾とは言い難いものだった。
強いて言うならば、人の持つ二本の足を無理矢理くっつけ合わせたような形をしている。その細く歪な姿は、彼女の肌の白さと相まって白蛇を思い起こさせた。
「ねぇ、あなた。わたしが前言ったこと覚えてる? 人になる方法を一緒に考えてくれるっていう話」
うつむきがちになったリセツの顔は青く、血の気が失せていた。物言わず放心している彼の異変に気づかないまま、ヒトヨは語りかける。
「わたしの足、どうしたら人の足になれるかしら」
ヒトヨは必死にリセツに請うた。頼れる存在はもう彼しかいない。
人は彼女を蛇だという。母と同じ人魚でないなら、出来損ないの身であるなら、せめて母の愛した父と同じ人でありたかった。
「時間がないの。お願い、何か良い案はない?」
そう言って伸ばした手が、リセツに触れることはなかった。彼自身によって避けられたのだ。
どうして避けられたのかが分からず固まるヒトヨの目の前で、うつむいたリセツの唇が動く。搾りだすような声音は低すぎてヒトヨの耳には届かない。そこでようやっとヒトヨは彼の様子がおかしいことに気がついた。
顔を上げたリセツは侮蔑の色を浮かべてヒトヨを睨んだ。青白さは影をめ、顔色は赤く憤怒に染まっていた。
「僕をだましたな、蛇の分際で人魚を語るなど! その上人に成りたいだと!?」
リセツは革袋を手にすると、それを持ったままヒトヨに向かって振り上げた。わけが分からないまま避ける間もなく殴られたヒトヨは、乗り上げていた岩から土の上に転げ落ちる。落ちる際に岩にぶつけたのか、鈍い音とともに額が熱を持ち、何かが顔の上を流れ落ちるのを感じた。それにかまける間もなく次が来る。
繰り返し嵐のように身を打つ暴力から身を守ろうと、ヒトヨは小さく丸まって耐えた。それは彼女が意識を失い、青年が村へ戻るまで続いた。
青年がいなくなってしばらくして、ヒトヨは意識を取り戻した。流れる血はもう止まっていた。曲がって痛む手足を何とか伸ばして、傷だらけの体に鞭打って、這いずって岩を乗り越え湖へと落ちる。まともに動かない体を水底で休めながら仄暗い水の中をたゆたう。傷が塞がるまでそうして過ごして、体が動くようになるとヒトヨは湖の底にある吸水口を潜った。
地下に設けられた水路を進みながらヒトヨは人が繰り返し口にしていた言葉の意味を考える。
“蛇”という存在が嫌われているのは明白だった。蛇がどんなものかは、ヒトヨも知っていた。リセツと会うとき、彼はいつも蛇を捕まえるための罠をこしらえていた。実際に何度か、湖に入ろうとする蛇の頭をナイフで貫くのを目にしたことがあった。毒があるから殺すんだと言ったリセツの言葉を、ヒトヨはそのまま受け止めていた。
けれどもこれはどういうことだろう。たしかにヒトヨの足は白く細く蛇のそれに酷似している。けれども母は人魚で父は人間だ。細く頼りないながらも、母と同じように泳ぐこともできる。ヒトヨはどこにも蛇の血など流れていない、鋭く尖った牙もない。ましてリセツは八年もの間、友人として接してきたのだ。ヒトヨが毒を持っていないことなどよく知っているはずだ。
毒が原因でないならば、どうしてヒトヨは殺されかけたのか。"蛇"とは一体何なのだろう。
けれどいくら考えてもヒトヨが答えを得ることはなかった。
◇ ◇ ◇
神殿のため池に戻る気にはならなかったため、ヒトヨは地下から繋がる水路をたどって別の湖へと顔をだそうと考えた。けれども砂丘の湖も別の森の泉も、これまで一度も人と遭遇したことはないのに、どうしてか今度ばかりは何人もの人が水辺でたむろしている。どんな目に遭うかも分からないから、ヒトヨは人影を見るとすぐに引き返した。全ての水場を回り終えた頃には、体中に残っていた痣すらも全て綺麗に消えていた。
リセツと出会った森の湖へ行く気にはならず、結局ヒトヨは神殿のため池へと向かった。そこが一番深さが有り、水が澄んでおり水底に射す影がよく見えた。誰か水辺にいれば水中からでも分かる。
ヒトヨは水中から人影がないかを確かめながら淡く光る水面へと顔をだした。誰もいないことを確認して息をつく。
自分の置かれた状況を整理して、いかに難しい状態かを思い知る。水の中にいればヒトヨを捕まえようとした人間たちから逃れることはできる、しかしそれが長引けば餓死するのは目に見えていた。神殿のため池から繋がる水場は全て、ヒトヨ以外の生き物がおらず、食えもしない水草が少しばかり生えているだけだった。
ヒトヨの呼吸に合わせて水面に生まれる波紋を目でたどる。空を覆う硝子越しに星の瞬きが降り注いで、水面を白く輝かせていた。光が柔かったのは朔の日であったからだった。月がない。
あまりにもたくさんの人間と接したせいか、ヒトヨはひどく疲れていた。ぼんやりと母親の髪と同色の夜空を眺めていると、ふと視線を感じて振り返る。誰もいないと思っていた影の中で何かが蠢いた。
視線の先に男が一人、扉の傍に立っていた。昼に見た不思議な瞳をした男だった。
とっさに水の中に潜ろうとするヒトヨを、男は一言で留まらせた。
「人にしてやろうか」
動きを止めるヒトヨの背にもう一度言葉が投げかけられる。
「お前のその足を、人のものにしてやる」
聞き間違いではなかったその言葉に、ヒトヨは目を眇める。どうしてこの男がヒトヨが人になりたいということを知っているのか。その話をしたのは友人であったリセツ一人であるのに。けれどもそんなこと聞いている暇はない。ヒトヨは男が口にした言葉の真偽だけに意識を向けた。
「本当に?」
男が扉のすぐ横から動かないことを確認しながら、ヒトヨは尋ねる。唯一の頼りだった友人は最早ヒトヨを助けてはくれない。この狭い水の中で一人生きることなど、考えられなかった。だから、目の前の男が本気でそう言っているなら、信用ならない相手でも縋るしかない。
ヒトヨに話を聞く意思があると見て取ると、男は凭れ掛かっていた壁から背を離し水辺へと足を進める。ヒトヨは男の一挙一動を見逃さないように目を見開いた。
「ああ。だがその前に、お前が真実人魚の血を引いているというなら、その血を寄越せ」
「わたし、人魚じゃないわ。出来損ないだもの」
首を振るヒトヨの姿に、男は目を眇める。
「聞き違えるな。俺は人魚に用があるんじゃない。万病を癒すその血に用があるんだ」
人魚だろうが、出来損ないだろうが、奇形だろうが蛇だろうが何だって構わないんだよ。そう言って男は懐から小さな瓶を取りだした。青い液体が少しだけ入ったそれを見て、ヒトヨは顔を顰めた。揺れてもいないのに、青い液体の中では小さな星の瞬きが生まれている。月のない夜空を凝縮したような光景。それがヒトヨが落としていった血だと、彼女にはすぐに分かった。
なぜそんな物を男が持っているのか。
「見ていろ」
男は懐から取りだしたナイフで己の左の親指を裂いた。ヒトヨは小さく声を上げて後ずさる。男はぱっくりと口を開けた傷口をヒトヨが見える向きに置くと、瓶から取りだした液体を数滴落とし塗り込んだ。そうして血に染まった指を池の水で濯げば、確かに存在したはずの傷は跡形もなく消えていた。
「あれだけの血痕を残しておいて、既に一つの傷もないその生命力を見る限り、人魚の言い伝えそのものだ。それに間違いなくお前の血は、これまで出回っていた薬と同じ外形をしている」
「……薬?」
ヒトヨは首をかしげる。
「この国では昔から、数十年に一度疫病が流行るんだ。どこからやってくるとも知れない。その度に王族からされる神薬によって患者は助かってきた。けれども一月前に広がりだした疫病に対して、王族は薬はないと言う」
「当人がないというのなら、そうではないの?」
「神薬とは王族の血のことだと言って彼ら自身がばらまいた。海神の血族だからそれを生みだすことができると言ってな。だから民衆は王族をそれと崇め、納めた税で彼らが暮らすのを黙認している」
「薬を与えられない王族は、王族じゃないっていうの?」
「海神の血族であるしるしの薬を齎すこと、それだけが王族の仕事だ。薬がないというならこれまでの薬はどこからでていた。前の疫病から王族は生まれこそすれ、死者はでていない。ならば王族は血族ではなくなったのか、それとも出し惜しみをしているのか。もしくは、そもそも血族などではなく、神薬を生む何かがいるのではないか、という話になった。病が国全体に広まった頃、城仕えの女官が薬の持ち主が別にいることを漏らした」
「それが、人魚だった」
「そうだ。だから人魚の血を引くお前の血が必要なんだよ」
「神のモノに手を加えてはいけないと、そう聞いたわ。それでもあなたはわたしに足をくれるのね?」
強い口調で確認するヒトヨの言葉を、男は一笑した。
「俺は神など信じてはいない。そんな物は所詮信仰の偶像で、誰かが創り上げた幻想にすぎない」
だからお前を人間にしてやったところで、神罰が下るなどと少しも思わないと男はのたまう。
ヒトヨは男の言葉を聞きながら、母の話した内容を思いだした。母は天寿を全うし、他者を害さないことだけを説いた。ヒトヨが人になったところで、自害したわけでも他者を害したわけでもない。自分の姿を変えてほしいという望みを叶えてもらっただけだ。仮に神罰が下るとするならば、足を与えた張本人こそではないか。そしてその本人は、神を信じていない。
ヒトヨは自身の考えに息を呑んだ。
例え男がヒトヨに人の足を与えるという行為が、他者を害することに該当したとする。けれど、ヒトヨはただ足が欲しいと請うただけで、それを行ったわけではない。そして、害することに値する行為は、ヒトヨにとっては他者ではなく当事者だ。
その結論にたどり着いたとき、ヒトヨは喜ぶとともに男を哀れに思った。神は確かに存在するのだという事実を、ヒトヨは生まれたときから知っている。だけどそれを男に教えてやれる程、慈悲深くはなかった。
「お前に足をくれてやる。変わりに血を寄越せるな?」
思い耽り黙り込んでいたヒトヨに、畳み掛けるようにして男が問う。
「ええ、いいわ」
男の目に視線を据えて、ヒトヨは一つうなずいた。
彼女の返しに男は満足げにうなずくと、指を切って見せた方の腕を彼女に向かって差しだす。ヒトヨの中にその手を取ることに対する躊躇いは、どこにも有りはしなかった。
つかんだ手を引き上げて、ヒトヨを担ごうとした男は、彼女の体に張りつく長い黒髪を見て舌を鳴らした。邪魔だな、とその髪を見て呟く。
ヒトヨの背丈程もある髪は水を吸って重く、絞っただけでは水気は拭えないことは明白だった。髪を拭ける物がないから、担いだときにそのせいで服が濡れるのが嫌なのだろう。男はヒトヨの髪をつかむと、切るぞと彼女に声をかける。ヒトヨは文句一つ口にせずそれに従った。
ヒトヨの髪が男の手によって少しずつ切り落とされていく。その反動で小さな頭が微かに揺れていた。ヒトヨは切り落とされた髪が肌の上を滑って池に落ちるのを目で追う。視界の端に映った自身の足を見つけると、思いだしたかのように口を開いた。
「あなた、“蛇”が何か知ってる?」
「爬虫類だろ」
簡潔すぎる返しに、ヒトヨは戸惑った。爬虫類という言葉が何を指すのかが分からなかったのだ。
「爬虫類だと殺されるの?」
男はヒトヨの言葉に眉を顰めた。そうしてようやっと彼女が聞こうとすることを理解する。
「そうではない。毒を持つ生物が基本的に忌み嫌われるんだ。山や森では蛇が、町では蜘蛛が、砂漠では蠍が蔑視される。けれどお前が殺されかけたのは、おそらく“人魚”だと偽ったと思われたのが原因だ」
「偽ってはいないわ。確かに母は人魚だった」
ヒトヨが強い口調で返すと、男は口端を上げて首を振った。
「その事実を証明できなければ、同じことだろう。神の血族だと示せなかった王族のように、首を落とされても可笑しくはなかった」
「わたしが流した血を見て、神薬だとは気づかなかったのかしら」
最初に殴られた時点で、ヒトヨの額からは血が流れでていた。それを目にしてなお、ヒトヨは嬲られ続けたのだ。
「それは王族の証明だ。人魚の証明にはならないだろう」
人魚の証明はその足にあるのだから。男はナイフを手にしたままヒトヨの足を指す。彼はそのしぐさで、その足では人魚だと言って信じてもらえることはないと言外に示していた。
「王族の所有する神薬を持っていても、蛇の足をしているから、人魚じゃないってことなのね。神物である人魚だと、わたしが偽ったと思ったから彼はわたしを殺そうとした」
ヒトヨは小さく息を吐く。白く細い自身の足は、母のそれとは全く違い光に波打つ鱗もない。だけどヒトヨは、そんな自分の足でも確かに愛していた。父のそれと似ていると語った母の優しいまなざしを思いだす。少し形が違っても、ヒトヨは人魚の血を引いている、それだけで人魚である自信になった。
けれども足を見た人間たちが、口々に“蛇”だと言ってヒトヨを指したとき、自分の見た目が人魚と違うことを知った。そうしてその認識を持つのが人だけではなく、人魚もまたヒトヨを仲間だと認識することはないだろうということも。
ヒトヨの足を好きだと言った母でさえ、彼女を“人魚”だと言ってくれたことはなかったのだから。
「そういえばお前、名前はあるのか?」
髪を切る手を止めて、男が言う。なぜそんなことを尋ねるのかヒトヨには分からない。けれど黙る理由もないから答えて返す。
「ヒトヨというの。一つの夜と書いて、一夜よ」
ヒトヨは自分の名を紡ぎながら、その名前の中にさえ人間を表す音が入っているのに気づいた。名をつけた母の心情を思うと、ヒトヨはどこか複雑な気分になった。
にもかかわらず、男はヒトヨの名を聞くと鼻を鳴らして笑い、正しくそうだななどと呟く。何が正しくないのかとヒトヨは後ろに立つ男を振り向こうとする。けれども、動くなと頭を押さえられてそれは叶わなかった。
「まだらだ」
男の放った内容に、ヒトヨは一瞬何を言われているのか分からなかった。けれどすぐにそれが彼の名だと気づく。
男は名の通りの外見をしていた。彼は肌も髪も爪も、瞳の色でさえ不同であった。肌は白く黒く黄色くと、切り継ぎを繰り返したかのように疎らな彩りをして、爪も全てにおいて異なる色彩をしている。その上瞳でさえ、虹彩の中ではいくつもの色がひしめき合っていた。
話しながら男は最後の一束を切り落とすと、手に落ちたその髪を池の中へと捨てた。長かったヒトヨの髪は、うなじが晒される程の短さになっていた。
男はヒトヨの髪を切り終えると、彼女を水から引き上げた。来ていた上着を一枚脱ぎ濡れたヒトヨの体を拭いて、彼女の一本の足をそれで巻く。異様に長かった髪と、足さえ隠してしまえば彼女は唯の人に見えた。外形上は。
切り落とされた長い黒髪が水面で揺れるのを見つめながら、ヒトヨはいかにして彼が自分に足をくれるのだろうかと慮る。
「どうやって、わたしを人にするの?」
今更な疑問を口にするヒトヨに、男は喉の奥で押し殺すように笑って返した。
「足が一つしかないというなら、二つにすればいいだけだろう」
簡潔な返答の意味を、正しく理解しているのは口にした本人だけだった。
ヒトヨは理解する間もなく男の肩に担がれて、彼のなすがままに住み慣れた一室から連れだされる。遠ざかる池のを見つめながら、もう二度とそこへ戻ることはないのだと悟った。
そうして、その夜。男はヒトヨの足を、ふたつにわった。