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第9話 突発性遺伝子変異症候群 その2


「『突発性』だったわりにはずいぶんと落ち着いているなぁ」


 電子カルテに目を走らせながらしみじみと(みやび)は語り、相対(あいたい)している(はる)は頷いた。

 春はTS経験者である。しかし、春のTSは普通の『遺伝子変異症候群』ではなかった。

 頭に『突発性』がつく『突発性遺伝子変異症候群』である。

 これはTSの中でもかなり特殊な症例で、文字どおり突然発症し急激に身体の構造が作り替わる。

 通常の性転換が概ね1年ほどかけてゆっくりと身体を変化させていくのに対し、突発性の場合はほんの1か月ほどの間で身体が作り替わる。

 それだけでも十分に異常であるのだが、春の場合は発症のタイミングも異常だった。

 春のTSが発症した時期は中学3年生。つまり去年だ。通例の発症時期――第二次成長期前――をとっくに過ぎた後での突発的TSであった。

 この場合、全身にかかる負担の大きさは通常の性転換とは比較にならない。下手をしなくとも命に係わる。

 気を失っていた春ですら、診断を下した際の医師たちの混乱が容易に想像できてしまうほどの大事であった。



 ★



 前兆は、特になかった。

 夏休みを間近に控えた中学3年生のある日。

 春は当時サッカー部に所属しており、中学生最後の大会に向けて練習に励んでいた。

 毎日朝から晩まで仲間とボールを追いかけていた。肌は真っ黒に焼けて、身体は生傷が絶えない日々。通っていた久瀬川中は特にサッカー強豪校と言うわけではなく、春も別に将来性のある選手と言うわけでもなかった。それでも充実していた。

 TSが発症したのは、ちょうど昼過ぎごろ。午後イチの授業中に教師にあてられた時だった。苦手な数学の授業だった。

 しぶしぶ席を立って黒板に向かおうとしたところで、急に締め付けられるような激痛が頭を襲った。

 声を出す暇もなかった。あっという間に視界が真っ暗闇に染まり、覚束ない足元には力が入らず体勢が崩れた。

 はじめは何の冗談かと冷やかしあるいは怒りに満ちた表情を浮かべていた教師やクラスメイト達も、その尋常でない苦しみぶりに緊急事態であることを理解させられた。

 最後に覚えていたのは、離れた席から駆け寄ってくる親友、和久(かずひさ)の顔と声。


 そこから後は、控えめに言って地獄だった。

 全身をバラバラに引きちぎられるような痛みと、ぐちゃぐちゃにこねくり回されるような悍ましい感覚。

 身体の内外から発する凄まじい熱に灼かれ、意識は途切れ途切れに明滅する。

 気絶している間はまだマシな方で、おぼろげに意識が戻っている時は、全身を苛む苦しみから逃れる術がない。

 視覚はなかった。何も見えない。聴覚もなかった。何も聞こえない。触覚もなかった。暗闇にひとりぼっちの曖昧な浮遊感。

 これまでに冗談半分で『死にたい』などと口にしたことはあったが、この時は冗談抜きで『死にたい。いっそ殺して……楽にしてくれ』と心の中で何度も叫んだ。

 もちろん、声は出なかった。仮に出たとしても自分の声を聞くことは叶わなかっただろうが。

 朝夕の感覚も、日にちの感覚も、曜日の感覚もなくなった。ただひたすらに苦しい。死ぬほど苦しい。でも死なない。死ねない。

 自分の身に何が起きているのかわからない。考えることもできない。そもそも意識を保つことすらままならず、意識があってもただひたすらに苦痛に埋め尽くされる。

 あらゆる感覚を失い、それでも苦痛だけは残った。正気か否かも定まらないまま、どれほど立ったのかすらわからない日々が続いた。


 そして――ある時、意識が不意に戻った。全身を苛んでいた苦痛が嘘のように消えてなくなっていた。

 身体に力が入らず、動かすこともままならない。しかし、どこも痛くない。苦しくない。それがどれほどありがたかったことか!

 反面、心のどこかで『もしや、ついに死んだのか?』と訝しんだところで、耳元から声が聞こえた。


「大丈夫か? 意識はあるのか? ……ああ、いや、答えるのは無理か。すまない」


 ハスキーな女性の声。聞き覚えのない声だった。

 久しぶりに耳にふれた、人間の声。

 灼熱の闇に飲まれて孤独だった。人の声が、こんなに嬉しいものだとは知らなかった。だから、応えたかった。

 どうにかできないものかと身体に残されていた力を振り絞り――


「目蓋が動いた? ……安心しろ。君は生きている。だから、今は休め」


 その声に導かれるままに、再び意識が闇に沈む。

 先ほどまでとは違う。自分はひとりではない。この闇は孤独ではない。

 ただ、ゆっくり休むだけ。あの地獄を乗り越えたのだと、消えゆく意識の片隅で理解した。



 ★



 次に目が覚めるまでに、さほどの時間はかかっていなかったと思う。

 肌に涼しい空気を感じた。あの燃えるような熱は既に身体から失せていたが、心地よいことに変わりはない。

 ぼんやりした頭で『意識が戻った』ことを自覚した。まるで夢の中にいるような、そんな感覚。身体を起こそうとしたけれど――起き上がれない。

 地面に縫い付けられたような(実際はベッドの上だった。肌触りの良いシーツの感触が心地よかった)異常な重力を感じて、おぼろげに体力が落ちていることを理解させられた。

 どこか身体を動かせそうなところを探して、すぐに思い至った。目蓋を開いたら、光が痛かった。すぐさま目を閉じた。

 まだあの地獄が続いているのだろうかと不安になったそのとき、


「無理するなと言ったはずだが」


 記憶にある声。ついこの間意識を取り戻した時に聞こえた女性の声。

 口調は苛立たしげだったが、穏やかでもあった。怒りは感じなかった。


「ふむ、こちらの声は聞こえているようだな」


 聴覚は回復している、と。

 傍に立っていると思われる女性は、ひとりで納得したようなことを口走っている。


――オレはどうなったんですか?


 そう質問しようとしたが、舌が口の中に張り付いて動かなかった。

 苦痛は取り除かれていても何もできない。身体が動かないことをストレスに感じる。


「君が倒れてからかなり時間が経過している。その間、身体を動かしていなかったのだから、体力が相当落ちている。外部からの刺激にも慣れていないのだろう」


 日常生活を送る上では特に気にもならなかった光でさえも、今の自分にとっては強い刺激になるということらしい。


「まあ、もう峠は越している。少しずつ慣らしていこう」


 また来るから、とにかくゆっくり休みなさい。

 この前と同じことを言われた。


――峠を越したってことは、何かの病気だったのか?


 わからない。

 しかし、それ以上考えることはできなかった。眠い。

 喋っていたのがどこの誰かはわからなかったが、体力が低下しているという話だった。

 これまで入院するような病気にかかったことはなく、今の自分が『普通』の病人(おかしな言い方になるが、とにかくそういうこと)かどうか判断できなかった。

 それでも、もう苦しくはない。休んで体力を取りもどせば、きっとまた元のとおりになるはずだ。

 そう信じて眠ることにした。



 ★



 たびたび春樹のもとを訪れる女性は『遠野 雅』と名乗った。

 住宅街のど真ん中に立っている『遠野総合病院』に入院していると教えてもらった。

 学校で倒れて意識を失い、救急車で運ばれて――すでに一か月以上が経過しているという。

 その話を聞かされたとき、一番最初に頭に浮かんだのは『部活のサッカーの試合が終わってしまった』ということだった。

 自分が参加できなかったことはもちろん悔しかった。みんなは無事に勝ち上がることができたのだろうか。聞きたいことは山ほどある。ただし口が動かない。

 実際に口に出すまでに、さらに一週間以上の時間を要した。最初にそれを聞いたとき『そんなことを心配している場合か』と呆れられてしまった。

 それでも、翌日には『残念ながら一回戦負けだったそうだ』と教えてくれた。ぶっきらぼうにすら聞こえる声の持ち主だが、かなりいい人らしい。

 中学最後の試合は残念な結果に終わってしまったが受け入れるしかない。サッカーは高校に入ってから、また続ければいい。

 そう口にしたところ、雅医師は何も答えなかった。後から思い返してみると、この時すでに違和感はあったが……気づくことはできなかった。


 視力を取りもどすまでに、さらに一週間以上の時間を要した。

 部屋の明かりを弱めてもらい目蓋を開く訓練を行った。雅医師の立会いの下でだけ、と言う念の入れようだった。

『物を見る』という行為にこれだけの労力が必要であるということを思い知り、随分と驚かされた。普段何気なく扱っている人間の身体の神秘性に思いを馳せた。

 目蓋を開けても何も見えない白い闇と、目蓋を閉じた黒い闇。ふたつの闇を往復する日々が続いた。

 純白に支配されていた世界に、次第に色がつき始めた。ぼんやりと曖昧だった輪郭が次第に像を結んでいく。その経過に感動すら覚えた。

 そして、訓練を始めて10日目の昼頃、ようやく自分に付き添ってくれていた雅医師の顔を見ることができた。

 緩くウェーブのかかった赤みの強い髪。どこか気だるげに見えて鋭い光を宿す瞳が印象的な美人。想像していたよりもずっと若い。


「さて、気づいているかどうかはわからないのだが、一応伝えておかねばならないことがある」


 視力を取りもどすなり、雅医師はそんなことを口にした。

 はて、なんのことだろう?

 よくわからないまま頷く。まだ、あまり身体が動かせない。

 雅医師は『驚くなよ。いや、驚くだろうが……そもそもまだ気づいていないのか? 本当に?』などと訳のわからないことを言いながら、何かを春樹(はるき)の鼻先に突き付けてきた。


 美少女が映っていた。


 黒目黒髪、透き通るような白い肌の美少女だった。肌はカサカサ、髪はボサボサ。ほかにも色々残念なところはあった。

 こんな姿を写真に撮られたらショックだろうなと思わされるその姿は、しかし紛れもない美少女だった。これまでお目にかかった中でも間違いなくトップクラス。

 思わず見惚れてしまった。だから気付かなかった。その姿が『何に』映されているかを。

 ふいに視線を逸らせたときに気が付いた。


 鏡だった。


 ?


 首をかしげる。鏡?

 鏡の中の美少女も首をかしげた。可愛らしい。

 ふいに疑問が脳裏によぎる。これは鏡だ。テレビではない、ガラスでもない。鏡だ。

 鏡と言うのはこうやって真正面に突き付けられると、当然その表面に映されるのは正面にいる相手の顔になるはずだ。

 つまり、今この鏡が映している美少女は……


 喉がカラカラになった。何だか目眩もしてきた。

 頬をつねろうとして、しかし腕はまだ動かなかった。

 代わりに何度も瞬きする。鏡の中の美少女も瞬きした。

 

「率直に言おう。『小日向 春樹』君、君はTSした」


 その言葉はどこか遠くから聞こえた。

 春樹は意識を手放した。

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