第8話 突発性遺伝子変異症候群 その1
ここからしばらく、春がTSしたあたりの話になります。
春たちが住まう羽佐間市の住宅街にそびえ立つ白亜の巨大構造物。ひと際目立つその威容こそ近隣一の病床数を誇る『遠野総合病院』である。十階建て。
神経質なまでに清められた院内は、土曜日だけあって平日よりも人の往来は少ない。それでも受付カウンターには列が形成され、多くの人々が忙しそうに動き回っている。
そんな大病院の奥まった一室、『特別総合診断部』の外来で、春はひとりの女医と相対していた。
春は白のブラウスにピンクのカーディガン、下はチェック柄のミニスカートにソックスを合わせている。
これから夏に向かうにつれて気候は過酷に推移するため、どのような服を身にまとうかは、いつも気を遣う。
もうしばらくすると梅雨に入り湿気に苦しむことになる。冬は着込めば耐えられるが夏は脱ぐにも限界がある。人目もあるから変な格好はできない。
あまり自分のセンスに自信が持てない春としては、いっそ制服を着ている平日の方が楽なくらいである。
対する女医は行き過ぎているほどの清潔さを見せる病院という空間にあって、いささか……と言うか、やたらとアクの強い雰囲気を纏っていた。
まだ若い。おそらく20代だと思われる。春は詳細な年齢を聞いたことがない。非常にセンシティブな話題だから。
まず目につくのは緩くウェーブのかかった赤みの強いセミロングの髪。切れ長の眼差しはその目じりを下げていてやや眠たそうな印象。目元にクマが浮かんでいるが、瞳には強い光が宿っている。
顔立ちは十分に美人と言って差支えないほどだが、そこに浮かんでいる表情――特に目力が強くて尻込みする者がいるかもしれない。
白衣の下は小ざっぱりした上下で、黒いストッキングに包まれた長い両脚を組んだまま椅子に腰かけている。遠目に見ている限りでは医者としてはごく普通の佇まい。
しかし、いざ近づいて……こうして面と向かってみると、表現しがたい存在感に圧倒される。
『遠野 雅 (とおの みやび)』
遠野総合病院特別総合診断部部長。首から下げられた名札(仏頂面の写真付き)にはそう記されている。
医者の人事についてはよくわからないが、この若さで部長という役職についていることが、彼女の優秀さを如実に物語っているように思われる。
もっとも、春の母親が仕入れてきた噂によると、彼女はこの病院の院長の孫娘でもあるらしく、そう言った面での采配でもあるらしいが。
春が見聞きする限りでは、院内の医師にせよ看護師にせよ、この病院に勤める誰もが雅に対し一定以上の敬意を持っていることは感じられる。実力か、あるいは人柄か。どちらにせよ『よい医者』あるいは『信頼できる医者』であることには変わりない。
実際のところ彼女は春の主治医でもあり命の恩人でもある。そう口にすると煩わしげに首を横に振るのだが。本人曰く『何もしていない』とのこと。照れ隠しか。
雅は春の方を向いたままパソコンを片手で操作し、電子カルテに目を通している。モニターを眺める瞳が細かく左右に揺れているのが見て取れる。
室内に何とも言葉にし難い緊張感が高まっていき、ややあって――
「今回も特に異常なし。経過は至って良好だ」
ややハスキーな声だった。声質は低めで知的な外見のイメージとぴったりである。
雅が閲覧していたのは、春が受けていた検査結果の一覧。
朝一で病院を訪れた春は、映画やテレビでしか見ないような大がかりな装置を用いて様々な検査を受けていた。
初めて見たときは、『やたらと金がかかってそうな機材』だとか『費用はいくらかかるのだろう』と思い悩んでいたものだが、検査に金は要らないと言われ、何度も病院に足を運んでいるうちにすっかり慣れてしまった。
とは言え、様々な検査を行う関係で時間は思いっきり持って行かれる。遊びたい盛りの高校生としては、土曜を丸一日潰されるのは、なかなかに厳しいものがあった。
まあ……それはともかく検査の結果である。今となってはすっかり定例化したものの、実際に『異常なし』と言われるまでは、毎度のことながら心臓に悪い。
「いつものことだけど、そう言われるとホッとする」
ここでいきなり『実は……』などと深刻な顔をして話を切り出されたら、それこそ困ってしまうだろう。
何もないなら、それに越したことはない。余計なトラブルなど勘弁願いたい。病院とはそういう場所だ。
「ほとんど前例がないことだけに、どうなることかと思ってはいたが……今のところは健康そのものだな」
行儀悪く指でペンを回していた雅の言葉に嘘はない。彼女にしても、この恒例ともいえる定期検診を決して甘く見ているわけではない。
主治医である彼女にとっても、今さら大きな問題が持ち上がってもらっては困るはず。
口調は平坦だが表情は穏やかであり、普段の飄々とした態度とはかなり雰囲気が異なっている。
春は月に一度、家からほど近いこの病院で検査を受けている。雅との問診は月二回。都合隔週で病院を訪れる形になっている。
検査を受け始めてから、あと少しで一年になろうかというところだが、現在のところ体に異常は見受けられない。
当初は、どうしたものかと心配していたけれど、今となってはただの定期健康診断と変わりない。
無料で身体の異常を見つけてくれるというのだから、逆にありがたいくらいだと両親は笑っている。初めて春に付き添って病院を訪れた時は、その仰々しい機器の数々に顔を青ざめさせていたくせに。
雅はペンをデスクに放り出し、立ち上がって戸棚からマグカップをふたつ取り出した。そのまま電気ポットから黒い液体を注ぐ。
鼻を刺す苦み走った香ばしい香りから、それがコーヒーであることが察せられる。彼女はかなりのコーヒー党だ。
デスクに運ばれてきたお盆には、ふたり分のコーヒーと皿に盛られたクッキーが載せられている。
病院内で医師と患者が共に間食などと言うと場違い感があるけれど、春と雅の間ではこれも恒例のこと。
検査のために朝食を抜いていた春は早速クッキーを摘まんで口に運ぶ。広がる甘味と小麦粉の風味。
続けてコーヒーを口に含むと、苦味と酸味が程よくブレンドされた黒い液体が口の中を綺麗に洗い流す。
ほう、と溜め息ひとつ。
「あれからあと少しで1年か……」
コーヒーを啜りつつぽつりと呟かれた雅の声に、感慨深げな思惑が含まれていることを春は敏感に察知した。
自分が初めてこの病院に担ぎ込まれた時のことを思い出しているのだ。
とは言うものの、実際のところ春はその日のことを覚えていない。
記憶があるのは、その日学校で倒れたあたりまで。病院にやってきたときにはすでに意識を失っていたのだ。
実家の近くにあるとは言え、普段はまるで縁のないこの大病院に自分が入院することになったと知ったのは、意識が回復してからのことである。
「もうそんなになるんすね。なんかあっという間だったな」
さらにクッキーを摘まみつつ、春は相づちを打った。
春がこの病院に初めて運び込まれてから、約10か月。
雅の言うとおり、もうすぐ1年が経過する。
入院してからしばらくは色々あったものの、退院して以降は比較的穏やかな日々を過ごしている。
「オレが……女になってからもう1年、か……」
軽く背を反らせて天井を見やると、白々と室内を照らす灯りが目についた。
春がこの病院に初めて足を踏み入れたのは、春が女になったから。性別的な意味ではあるが、性的な意味ではない。
意識を失って、目が覚めたら文字どおりの意味で女になっていた。人生がひっくり返ったあの日から、1年が経過しようとしている。
口に出してみると、そのことを改めて実感させられる。
★
『遺伝子変異症候群』という病気がある。雅によると厳密には病気ではないらしいが、世間一般の認知では病気扱いになっている。
何とも仰々しい病名がついているが、実際の症状はどのようなものかと言うと……読んで字のごとく遺伝子が変異する。
もう少し詳細な説明を加えると……具体的には性別が変わる。『男→女』『女→男』の両方のパターンがある。『どちらでもなくなる』という事例は今のところないとのこと。
いわゆる性転換(TSあるいはトランスセックス)と呼ばれる現象であり、自然界ではこのような例はいくつか存在する。
クロダイ、クマノミ、ハゼやらエビやら。主に水中の動物が多いが、極めて低い確率で陸上生物でも起こりうる事は周知の事実。日本の場合は学校の保健体育の授業で習うので、国民全員が知識としては持っていることになっている。
長期にわたる研究と蓄積されたデータ分析によると、人間における発症率は概ね0.001%とされる。国や民族による違いは報告されておらず、元々の性別による違いもない。発症原因は完全に不明で遺伝性でもなく感染することもない。
数値だけ見るとほとんど奇跡と言っても差支えないほどの相当に低い確率に感じられてしまうのだが、大雑把に日本の人口を約1億人と仮定するとTS経験者は約1000人となる。
人口比率を無視して47都道府県で割ると、1県当たり約20人以上。これを多いと見るか少ないと見るかは微妙なところだ。
大半の人間は発症率の低さに驚き、次いで実際の人数を聞かされると再度驚かされる。可能性としては低いが決して他人事ではないと。
通常この性転換は第二次成長期前に発症する。だいたい生まれてから10歳くらいまでの間が多いとされている。
TSが始まると、性器を始め全身がゆっくりと時間をかけて変化していくのが通例とされているが……
「『突発性』だった割りにはずいぶんと数値が落ち着いているなぁ」
雅はしみじみと、そう呟いた。
その言葉に、春も軽く頷いた。
今、こうしてふたりでコーヒーを飲み交わしていられることが、それこそ奇跡的にすら思えてくる。
『突発性遺伝子変異症候群』
それが春が罹患した病名。
読んで字のごとく、突発的に性別が変更された。
つい一年前まで……春は男だった。それが(春の主観では)唐突に女になった。
中学3年生の夏、思春期真っただ中のことであった。