第4話 ある女子高生(?)の日常 その4
「それっ」
キュキュッとシューズが体育館の床にこすれる音が聞こえた。
駆け回る足音にノイズはなく、一連の動作からは相当な連度を窺わされる。
掛け声とともに背の高い女子が跳んだ。次の瞬間、間近で打撃音。ホイッスル。
「あ……」
転々と転がるボールを立ち尽くしたまま目だけで追いかける。
ネットを挟んだ向こう側ではハイタッチの快音が響く。
1ポイント。
「小日向さん、しっかり~」
コートの外から掛けられる、あまり気合の入っていない声援に戸惑いを覚える。
冷やかされているような居心地の悪さを覚えるのは被害妄想だろうか。
味方側のコートに立つ十和は、そんな声の出所に厳しい視線を向けている。
体育の授業、バレーボールの練習試合の真っ最中だが……春はバレーボールがあまり得意ではない。
得意な球技はドッジボールやサッカー、そして野球と言ったあたり。
どうしてバレーが苦手なのかと考えてみたが、結局のところ単純に経験が足りていないだけだった。
これまで体育の授業でも部活動でも、バレーボールに触れたことがほとんどない。
「春、一本取り返そう」
コート内のメンバーがチェンジ。もともと生徒は全員が常にゲームに参加しているわけではない。
ちょうど今、休憩していたみちるが入ってきた。
目力がある。やけに気合が入っている。もともと体を動かすのが好きなのだろう。
「お、おう……」
思わず返事をしたものの、春の気は晴れない。
自分の知識が確かならば、バレーボールは基本的に身長の高いものが有利なスポーツのはずだった。
クラスの中でも背が低めなみちるがどれほど活躍することができるのか、どうにもイメージができない。
……まぁ、棒立ちの自分が言えた筋でもなかろうが。
教師の口のホイッスルに次いで、相手コートからサーブでボールが飛んでくる。明らかに動きの悪い春が狙われている。
左右の手を組んでボールを受けるも、レシーブ失敗。肝心のボールは味方に還ることなく、あらぬ方向へ飛んでいった。また1ポイント。
「わ、悪い……めっちゃ足引っ張ってる」
「気にしないで。……まったく、バレー部のくせに授業で素人狙って何が楽しいのやら」
十和が苛立たしげに吐き捨てると、敵陣の女子(バレー部らしい)がわずかに動揺した。しかしそこまで。十和もたかが授業で相手を追い詰めるつもりはないようだ。
その代わりにちょいちょいと春とみちるに指で合図してくる。何やら作戦があるようだが……そこでまたもやホイッスル。残念、話を聞く暇はなかった。
再び春に向かってボールが飛んでくる。咄嗟に構えようとしたところに――
「春ッ、アタシに任せて!」
「お、おう!」
みちるの声に導かれるままに横にずれると、後ろから小さな身体のみちるが飛び込んできてボールを上手くレシーブ。
放物線を描いてコートに放り込まれたボールは、勢いを殺されて緩やかに宙を舞っている。その軌道は春の眼でも追うことができるほどにゆっくりだった。
「小日向さん!」
叫ぶ十和に目をやると、彼女は振り向くことなくネット際に駆け寄っている。
つまり、今この瞬間に春が求められているのは……
――両手で受け止めるように……だっけ?
授業の最初に倣ったとおりに膝のクッションを使う。みちるが上げてくれたボールを受けて十和の方にトス。
鋭く床を蹴る音。そして夜闇を思わせる髪がネット際で揺れ、打撃音。長身のバレー部員が作った壁の合間を縫って、ボールは敵コートに叩きつけられた。1ポイント。
『さすが十束さん!』コートの外から歓声が上がる。してやられたバレー部の面々は悔しそうに十和を目で追っている。
「ナイス、春!」
「ナイストスよ、小日向さん」
みちるも十和も春のところに駆け寄ってきて互い違いに手を上げる。
首をかしげた春に業を煮やしたか、ふたりは無理やり春の左右の手を取って自分の手のひらと合わせた。快音。
――あ、ハイタッチか。
手のひらの痺れに、ようやく思い至った春。
しかし……無理もない。春にしてみれば、自分が活躍したという実感がない。
バレー部のサーブを捌いたのはみちるで、春はトスを上げただけ。
そして長身のバレー部のディフェンスを抜いて点を取ったのは十和。
スポーツ万能のふたりの狭間で春はオロオロしていたのだから。
ホイッスルが鳴った。メンバー交代。
春と十和はコートを出て腰を下ろす。
夏に近づきつつある陽気の中で身体を動かしていたせいか、全身が熱を持っている。
すぐ傍で荒い息をついている十和の白い肌も、朱に染まっている。
流れる汗の雫、その煌めきが目に入り、春は思わず息を呑んだ。
「どうかした、小日向さん?」
「あ、いや、何でもないです」
「そう」
『十和に見惚れていました』などと本人に直接語ることは憚られた。
視線を動かしコートに目をやると、元気いっぱいのみちるが右へ左へ大活躍。
さすが現役陸上部員だけのことはある。相当な運動量だ。
――うん?
横合いから視線を感じた。
チラリと瞳を動かすと、十和がじっと春を見つめている。
「えっと、何か?」
「……髪」
「え?」
十和の視線は春の髪に注がれている。
後ろで適当にまとめてゴムで縛っただけの、そっけない髪型。
「乱れてる」
「そうか?」
「ええ……ちょっとそのままでいて」
言うなり十和は後ろに回ってゴムを外し、春の艶やかな黒髪を指で梳き始めた。
すぐ背後から十和の吐息が春の首筋を撫でる。その感触に春の顔が熱を持つ。
緊張感に耐えきれず、春は思いつくままに口を開いた。
「さっきはその……悪かったな」
「……何が?」
「バレ―、全然わかんなくって」
「ああ。別にいいわよ。体育の授業なんて楽しくできれば」
生真面目な十和らしくない言葉に思わず振り向きかける。
十和の手が左右から春の頭を固定したため、叶わなかった。
「そもそも個人競技でもないし、みんなで助け合えばいいじゃない。ひとりで自分を責めることはないわ」
「そうかな……それじゃダメな気がする」
「そうかしら?」
「ああ、みんなの負担になるのは嫌なんだ」
「私は気にしないけど」
「オレが気にする」
「強情ね」
「悪いか?」
「いいえ。小日向さんのそういうところは好きよ」
「は?」
十和の唇から漏れた『好き』という響きにガチで振り返る。
先ほどとは異なり春の髪を弄っていた十和は、その動きを阻止できなかった。
「なに?」
視線と視線が絡み合う。
キョトンとした表情からの穏やかな笑み。
「い、いや……」
「向上心のある性格は好ましいってこと」
普通でしょ?
軽く首をかしげながら尋ね返されると、変に意識してしまった自分の方がおかしいのではないかと思えてしまい、頷かざるを得ない。
「きれいね」
「え?」
「小日向さんの髪。癖がない。手入れはちゃんとしてるみたいね」
「おかげさまで。一応気を遣ってます」
「よろしい」
ふふ、と軽く笑って髪を流し、両手で形を整えてゴムで縛る。
春の側からは見えないが、先ほどまでよりも首筋の周りがすっきりした感じがする。
「さ、これでいいわ」
「さんきゅ」
「せっかくだから、私もお願いしようかしら?」
「え?」
「髪」
春の答えを待つことなく、十和は自分の髪を縛っていたゴムを解いてしまう。
ふわり、あるいはサラサラと広がり落ちる髪は、重力を感じさせない。
「ほら」
「……あんまりうまくできねーんだけど」
促されても『はい、わかりました』などと答えることはできない。
慣れない素人に貴重な芸術品を磨かせるようなものだ。尻込みしてしまう。
「何事も練習よ」
「はぁ……」
押し切られる形で引き受けたものの、十和のきれいな髪に指を通すことに罪悪感すら覚えてしまう。
星々が輝く夜空を溶かしこんだような、ある種の畏怖すら覚える髪。
指を入れると抵抗なくするりと流れる様はまさに液体のよう。
同じ黒髪なのに十和の髪は春のそれよりも繊細で。その輝きにはもはや嫉妬の感情など沸かない。嘘……ちょっと悔しい。
自分が身だしなみに気を遣うようになったからこそ、誰もが羨む十和の容姿がどれほどの努力の積み重ねの上に成り立っているのか理解できてしまう。
……余計なことを考えていたからだろうか。甘やかな香りが鼻先をくすぐってきて酷く落ち着かない。
緊張のせいか時間の感覚がおかしい。ほんの少ししか触っていないはずなのに、もう長い間ずっとその官能的な手触りに酔いしれているような不思議な感覚。ずっとこのまま触り続けて……
――いやいやいや、何考えてんだ、オレ!
ぶんぶんと首を振り、丁寧に髪を梳いてゴムでひとまとめにする。
汗をかいた十和のうなじが目の前で艶めいていて、思わず唾を飲み込んだ。
胸の奥がドキドキする。間近にいる十和に聞かれていないかと心配になるほどに。
十和の髪をまとめ終わるころには、春の肌にじんわりと汗が浮かんでいた。
ほとんど動いていないはずなのに、休憩に入る前より身体が熱い。
「どうかした?」
振り向いた際にちらりと見えるその唇の瑞々しさが心臓に悪い。
「な、なんでもねーよ」
咄嗟に誤魔化してそっぽを向く。
「そう? ……うん。ありがとう、小日向さん」
髪の具合を確かめていた十和は……どうやら満足した様子。
「どういたしまして」
そのひと言を口にするだけで、喉はカラカラになってしまっている。
十和が唇を開く。少し戸惑っているよう。声は聞こえてこない。
春が首をかしげ、耳を近づけようとしたそのとき――
「あー! アタシが走り回ってる間に春と十束さんがイチャイチャしてる!」
『アタシも混ぜろー』とコートからダッシュしてきたのは、今しがたまで走り回っていたみちる。
その小さな身体を軽くいなして十和は立ち上がった。
「さ、行きましょ、小日向さん」
「ぶー!」
エネルギッシュが自慢のみちるは、しかし走りづめだったせいか汗びっしょり。
一度腰を落ち着けてしまうと立ち上がることができなくなっているらしい。
頬を大きく膨らませて不満を表明しているが、身体が付いて来ていない。
少し遅れて春も立ち上がり、十和の後を追った。
「……お前、ほんとみちるに当たり強いよな」
「言ったでしょ、苦手だって」
「さっきはあんなに息ピッタリだったくせに」
十和とみちるは掛け声だけで互いの姿を見ていない。
それでも動きに一切の躊躇いがなかったのは、それだけ相手のことを信頼していることの証左であるように思えるのだが……
「あれは……小日向さんが間に入ってくれたからよ」
ほんの僅かに眉をひそめながら、そんなことを言う。
ここまで彼女が『苦手』とする相手は本当に珍しい。
同じ中学校出身の春でもほとんど記憶にない。
「そういうもんか?」
「そういうものよ」
この話はここでおしまいと言わんばかりに、十和は軽く春の肩を叩いた。
「このままじゃダメだって言うのなら、頑張りましょうね」
「お、おう……」
何となく話をはぐらかされたような気がしなくもない。
しかし言い出したのは春自身なので文句は言えない。
だらしない格好で座り込んでしまったみちるを置いて、ふたりは再びコートに戻る。
結局、今回の授業で春のレシーブは一度も成功しなかった。