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第30話 学生の本分は勉強です その7

ブックマークが100件に到達しました!

みなさま、ありがとうございます!


 ふわふわと闇の中に漂っていた。恐怖はなく、とても心地よい。

 そこに暖かな光が差し込んで来る。輝きは優しく、しかし容赦無く目を灼いてくる。

 ゆりかごにも似た闇がひび割れ、そこかしこから砕かれていく。

 ……微睡みを諦めた(はる)は、抵抗を諦めてゆっくりと目蓋を開いた。

 

「んが?」


 あまり年頃の女子に相応しくない寝言混じりの声が、桜色の唇から漏れる。

 窓の隙間から太陽の光が頬に当たっている。夏の気配を感じさせる眩しさに、思わず目を閉じて布団をかぶり直す。

 ふわりと慣れ親しんだ匂いが鼻先をくすぐった。


「……和久(かずひさ)の匂いがする」


 ぼんやりした頭でぼんやりしたことを呟きながら、もう一度そっと目蓋を持ち上げる。

 見慣れない布団をどけると、見慣れた天井が視界に入ってきた。春の部屋ではない。


「あれ……オレ、どうして?」


 むくりと上体を持ち上げて目蓋を擦る。あくびをひとつ。

 ゆっくりと頭を巡らせてみると、そこは春がよく知る和久の部屋。

 春はベッドに寝かされていた。テーブルの上には教科書やノートが散乱している。

 自分以外は誰もいない親友の部屋。


――えっと……オレ、なにしてたんだっけ?


 寝ぼけた頭で記憶を掘り起こす。

 一学期の中間試験が目前であること。

 試験勉強のために和久の家に泊めてもらうことにしたこと。

 昨日は朝から押しかけて一日中勉強漬けだったこと。

 お礼にと思って晩飯を作ってやったこと。風呂から上がったら和久とニアミスしたこと。

 そして――昨晩の記憶が曖昧だ。

 確か途中まで英語の勉強をしていた気がするのだが、どのあたりまで復習したのかが定かでない。

 付け加えるならば、なぜ自分がベッドの上で眠っていたのかもよくわからない。

 元々は織枝(おりえ)の部屋で寝かせてもらう予定だったはずなのだが……


「和久?」


 ポツリと零れた言葉に返事はなかった。

 部屋の主の姿は見当たらない。今この部屋には春しかいない。

 

「ん~~~~~っ!」


 両手を上げて大きく背伸び。胸のあたりに重量を感じる。もう慣れた。

 枕元のスマートフォンをタップすると、液晶画面に『6:30』と表示された。


「やべ、寝過ごし……いや、日曜日か」


 平日だったらとっくに起きて学校に行く準備をしている頃合いだが、今日は日曜日。大丈夫、問題ない。

 ひとつひとつ疑問にチェックを入れているうちに、少しずつ頭が回ってきた。

 とりあえず――


「シャワー浴びるか」


 汗でべとついた身体が気持ち悪い。



 ★



 早朝の江倉(えくら)家は静謐に包まれていた。きっと全員まだ眠っているのだろう。

 江倉夫妻は昨日も出勤していた。疲れがたまっていることは容易に想像できる。

 彼らを起こすのは具合が悪かろう。口を閉ざしたまま着替えとタオルを持って部屋を出た。

 なるたけ音を立てないように廊下を歩き、階段を降りて脱衣所に足を踏み入れる。

 ここにたどり着くまでの間、誰にも出会うことはなかった。


「すみませんーん、お風呂借りまーす」


 喉の奥の方から小さな声を響かせる。当然ながら返事はない。

 わかってはいても、人様の家で勝手に風呂を使うことに抵抗があった。

 まあ、誰も聞いていないとわかっているにもかかわらず了解を得ようとすることに意味があるとも思えなかったが。

 

 しわくちゃになっていた寝間着と下着を脱ぎ、一糸まとわぬ姿になって風呂場に入る。

 湯船には昨夜の残り湯が張られたまま。そちらには用がない。

 蛇口をひねってシャワーを浴びる。

 ぬるめのお湯で軽く汗を流してから、冷水へ。

 冷たい水を浴びると、身体がブルリと震え、頭の中がスーッと鮮明になってくる。

 しばらく水で身体を引き締めてから、再びお湯に戻す。

『冷水→温水』を何回か繰り返してから、少し熱めのお湯で身体を温める。

 ベタベタと身体にまとわりついていた汗はすっかり流されて、同時に頭の中もはっきりしてきた。


「ふんふんふーん」


 髪を洗って身体を洗って、鼻歌交じりで全身を丁寧に流して風呂場を後にする。

 バスタオルで水気を拭っていると、唐突に昨晩の記憶がフラッシュバックする。

 脱衣所のドアが急に開いて、和久とエンカウントした記憶が。

 ついとドアの方に視線を送り耳を澄ませてみるも……今朝は誰もドアを開ける気配はない。

 

「まぁ、そうそう何度もあることじゃないよな」


 ひとりで勝手に納得して、下着を、そして衣服を身につける。白地のTシャツとデニムのショートパンツ。

 鏡に向かい、ドライヤーで髪を乾かす。

 春の髪は腰まで届くストレートの黒髪。

 誰もが褒め称える黒髪は、しかし日々の手入れが中々に億劫。

 ボリューム豊かな髪は乾かすだけでも一苦労。

 あまり長い間ドライヤーを当て続けていると、それはそれで髪を痛めてしまう。

 めんどくさいことこの上ないが、せっかく手に入れたきれいな容姿だ。

 適当に手を抜いてクオリティを下げるのはもったいない。

 丁寧に、それでいて手早く髪を乾かしていると、唐突にガラッと脱衣所のドアが開いた。

 ドライヤーのせいで外の足音を聞き逃していたのだ。

 そこに立っていたのはシルバーフレームの眼鏡をかけた背の高い……見慣れた男、和久。


「残念だったな」


 ギョッとした目で春を見つめてくる和久に、ニヤリと笑みを浮かべてやると、大柄な幼馴染は憮然とした表情を浮かべる。

 何を当てこすられているのか、思うところがあるのだろう。


「別に。残念でも何でもない」


「あっそ。何か用か?」


「顔を洗おうと思ってたんだが……」


 最後まで言葉をつづけることなく、後頭部をボリボリと掻いている。


「悪い。もうちょっと待っててくれ」


 泊めてもらっておいて横柄にふるまうのは心苦しいところではあるが、髪を乾かすにはもう少し時間がかかる。


「わかった」


 素直に頷いてドアを閉める和久。

 考えてみれば……この家には織枝がいるわけだから、似たようなことはままあるのだろう。

 和久の対応はごくごく自然で慌てた様子はどこにもなかった。

 ひとりっ子の春にしてみれば驚きのイベントも、和久にしてみればありふれた日常の一風景に過ぎないと言うわけだ。

 再び脱衣所でひとりになった春は、


「ふぃーっ」


 ひとり、大きくため息をついた。



 ★



 髪を乾かし終えて和久に脱衣所を明け渡した春が向かった先は――台所。腹が減っては戦はできぬ。

 昨日と同じくヘアゴムで髪をまとめ、エプロンを装着。

 食パンを2枚トースターに放り込み、つまみを回す。

 熱したフライパンに冷蔵庫から取り出したベーコンを投入して火を通す。

 沁み出してきた脂がパチパチと爆ぜる音と香ばしい香りが立ち昇ってくる。そこに生卵。フライパンに蓋。

 

春樹(はるき)


「ちょっと待ってろ。すぐできるから」


「あ、ああ」


 脱衣所から戻ってきた和久は、そのままテーブルについた。チラチラと何か言いたげに春の様子を窺ってくるが、めんどくさいのでスルー。

 洗ったキャベツを適当に手でちぎって小皿に敷き、冷蔵庫に作り置きがあったポテトサラダを載せる。

 フライパンの蓋を開けてベーコンエッグを皿に移し、もう一度ベーコンをフライパンに投入。

 トースターから焼けたパンを皿に。かぐわしい香りが鼻をくすぐる。

 

「ほれ、できたぞ」


 食パン、ベーコンエッグ、サラダ。

 さらに牛乳をコップに注いでテーブルに運ぶ。

 まずは和久の分から。


「ああ、すまんな」


「別にいいって」


 今度は春自身のベーコンエッグを作るために再びコンロに戻る。

 和久はそんな春を見ながら、パンをちぎって口に運んでいる。


「春樹」


「ん?」


「あ、いや……お前、いつの間に料理できるようになったんだ?」


 料理しているという話は昨日もしたと思っていたのだが……


「ん~、高校入ってからかな。雅センセに勧められた」


「先生? 病院のか?」


 和久と雅は一応面識こそあるものの、それほど深い仲と言うわけではない。

 直接関係のある間柄ではないのだ。『どういう性格なのか』とか『普段春とどういう話をしているのか』とか、その辺りはよくわかっていないだろう。

 病院帰りに和久が迎えに来てくれることは多いものの、春もあまり細かいところまでは説明していない。


「ああ。『作って楽しい』『食べると美味しい』『褒められると嬉しい』から、やることないんだったら料理でもどうだって」


「へぇ」


「まぁ、別にできるって程じゃねぇよ。ほとんどレシピそのまんまやってるだけだし」


「いや、大したものだと思うが」


 和久の賛辞を苦笑で流す。

 大抵のことは何とかしてしまうこの男は、実は料理をはじめとする家事全般はさっぱりであることを幼馴染である春は知っている。


「お前も織枝も家事何にもやってねーだろ。手伝ってやったらおばさん大喜びだぞ」


 江倉夫妻は休日出勤までするような忙しさ。

 子どもたちが家事を手伝ってくれたら喜びもひとしおだろう。

 ひょっとしたら自分の至らなさを悔やむことは……それはさすがに考えすぎか。


「それはまあ、そうなんだろうが……いや、まあ、よかった」


 今の流れから『よかった』などと言う言葉が出てくるのは、ちょっとよくわからない。

 自分の朝食をテーブルに並べて『いただきます』

 サクサクの食パンに半熟卵のベーコンエッグ。特に手をかけたわけではないが美味い。

 朝食を味わいつつも、さっきの和久の言葉が気になる。だから聞く。


「『よかった』って……何が?」


 春の問いに和久はしばし視線を中空に彷徨わせた。

 何やら言葉を探している様子。ややあって――


「……お前が何もやってなかったわけじゃなかったんだなってさ」


 和久のその言葉は、心の底からホッとしたような、安堵に満ちた声色だった。


「なんだよ、それ?」


「いや……サッカー辞めちまって、どこの部活にも入ってないし、正直なところ心配だったんだ」


「それはまあ、そうだな。心配かけてすまん」


 和久には部活に入ったらどうかと勧められたこともある。

 春が何かやっていることがわかって安心したということらしい。

 ……余程心配かけていたのだと思い知らされて、心の中でため息をついた。


「謝らなくていい。俺がアレコレ言わなくても、お前が自分で考えてちゃんとやってるのなら、それでいい」


 朝食を食べ終わった和久は、そう締めくくった。


「さ、勉強するぞ」


「へ~い」


 最後に残っていたパンを口に放り込み牛乳で流し込む。

 ふたり分の食器を洗いつつ、これからの予定(勉強、勉強、また勉強)に思いをはせると……なんだか朝も早よからどんよりしてきた。

 これはダメな奴だ。頭をブルブルと振ってネガティブな思考を振り払う。


 中間試験は明日から。頑張れ、春!

ここまでお読みいただきありがとうございます。

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