第3話 ある女子高生(?)の日常 その3
「春も更衣室使えばいいのに」
体育の授業前の休み時間に、ポツリとみちるが呟いた。
その口調には基本的に陽性である彼女に相応しくない、強い不満が滲んでいる。
春に対する同情を見せる者、嫌悪感を露わにする者、我関せずとスルーする者。
みちるの声に対する反応は様々だった。ただ、みちるが満足するものでなかったことだけは、彼女の表情を見れば容易に窺い知れた。
「だったら俺たちと一緒に着替える?」
すかさず繰り出された太一の軽口に、男子一同がうんうんと頷く。
冗談だとわかってはいるが――いや、冗談だと思われるが、その割に瞳に浮かぶ光は、笑い飛ばすにしてはあまりに真剣みを帯びていた。
この年頃の男子は……案外本気かもしれない。太一をめねつけるみちるの視線が厳しい。脳天にチョップが落ちた。
離れたところでは十和もビクリと身体を震わせており、周囲に不可視の冷気を振りまいている。
「セクハラだぞ、それ。まぁ、嫌がる奴がいるのはしゃーない」
しかし当の春は、特に気にした様子でもない。
慣れたものだと肩をすくめ、着替えを入れたバッグを抱えて教室を後にした。
大げさにため息をつく男子どもを後に残して。
常世高校の体育の授業では、男子は教室で、女子は更衣室で着替えを行う。
春が向かった先は更衣室――ではあるが、女子生徒用ではなく女性教員用。
「失礼します」
「あら、小日向さん」
そっとドアを開けて室内に入ると、先に着替えていた年配の女性の教員は、穏やかな笑顔で新一年生を迎え入れた。
春は自分にあてがわれたロッカーに向かい、おもむろに服を脱ぎはじめる。
制服に押さえつけられていた肢体が露わになり、同性でありながらも教師が、陰でその肌の美しさに感嘆のため息を漏らす。
「すみません、ご迷惑をおかけして」
「いえ、別に小日向さんが悪いわけじゃないでしょ」
ちゃんと更衣室を用意できない学校側に問題がある。
今は春に負担をかけることになって申し訳ない。教諭はそう続けた。
ちゃんと自分のことを気にかけてくれる人がいることを嬉しく思いつつ、
「でも、先生たちは大丈夫なんすか?」
自分と同じ部屋で着替えて。
春の問いに、教員は首を縦に振った。
「当然でしょ。今のあなたは……どこからどう見ても女子そのものじゃない」
★
着替えを済ませて体育館に足を踏み入れると、すでにA組の生徒が集まっていた。
微妙な空気に気付かない振りをしつつ待っていると、チャイムが鳴るなり教員が現れて授業の説明が行われる。今日はバレーボール。
「ケガしないようにちゃんと柔軟すること。ふたり一組になれ!」
体育教師の指示に従って手近な者同士で女子がペアを組み始めたが、春の傍には誰も近寄らない。
いつものこととは頭で理解していても、心の奥底に巣食う昏い気持ちは抑えきれない。
だが――何ごとにも例外は存在するものだ。
「ねーねー、春、アタシと一緒に……」
「小日向さん、私とペアを組みましょう」
こんな時、春に声を掛けてくれるのは、いつも十和とみちるであった。
ふたりの気遣いをありがたく思う。ただ……このパターンでは、春はどちらかひとりを選ばなければならない。
どちらを選んでも角が立ちそうなこの選択。これはこれで体育のたびに頭を悩ませる一因である。
右にみちる、左に十和。しばらくふたりの間に視線を彷徨わせていた春が選んだのは――十和だった。
「この前はみちると一緒にやったから、今日は十束にお願いしようかな、と」
「え―――!?」
控え気味に申し出て様子を窺う。
不満を露わにするみちる、何故か勝ち誇った風に胸を張る十和。
毎度のこととは言え、間に挟まれた春としては気が気でない。
できるだけ友人を傷つけないように慎重に言葉を選んだつもりなのだが……
「身長が近い者同士の方がやりやすいし、当然ね」
十和は容赦がなかった。身も蓋もない。
彼女の言うとおり、どちらの方がやりやすいかと言えば十和なのである。
春と十和の身長はほぼ同じ。対するみちるは10センチほど小柄だ。
「せ、背は低くてもアタシの方がパワーあるし。春くらいちゃんと背負い投げできるし」
――投げてどうする?
内心のツッコミを何とか飲み込み、手刀を切りながら謝罪の言葉を口にする。
「すまん、みちる。今度は一緒にやろうな」
「ぶー、絶対だよ、春!」
頬を膨らませたみちるは、しかし後に引きずることはなくペアを組めていない女子を求めて動き出した。
春が孤独でないのなら、他にボッチになってしまっている女子の面倒を見ることに決めたらしい。こういう切り替えの早さは見習うべきだと常々思わされる。
みちるを見送ってから決まったばかりの相方に向き直る。春と十和は中学時代(3年生終盤)もこうしてペアになることが多かった。
当時も体育の授業のたびに孤立気味だった春に対して、クラス委員であった十和なりに気にかけてくれていたのだろうと考えている。
整いすぎた容姿と近寄りがたいオーラのおかげで距離を置かれがちな十和だが、近くに寄ってみれば心優しく、そして正義感の強い人間であることがわかる。
それだけに、みちるに対する厳しい態度を見せることがどうにも解せない。いったい何が彼女にそうさせているのか。
十和もみちるも春にとっては大切な友人だ。できればふたりには仲良くしてもらいたいものだが……どうすればいいのか見当もつかない。
「十束はみちるのこと苦手なのか?」
互いに背中合わせで腕を組むと背中に十和の体温を感じる。
鼻腔をくすぐる芳香は整髪料か。優しいイメージと高級感があり、いかにも十和らしいと思わされる。
そのまま、代わる代わる身体を前に傾けると重量、いや質量あるいは存在感そのものと言うべき感覚が伝わってくる。
十和の名誉のためにあえて付け加えるならば重くはない。体格を鑑みれば軽い方だろう。
そんな失礼なことを考えつつ先ほどのやり取りについて春が尋ねると、
「いえ、別にそう言うわけでは……ううん、やっぱり苦手かも」
すぐ傍に居る春にだけ聞こえるように小声で呟いた。
十和が特定の個人に対してネガティブな評価を下すことは珍しい。
少なくとも春が耳にしたのはみちるに対する言葉のみだ。
「いい奴だぞ、アイツ」
出会っていまだ一か月少々とは言え、春とみちるはすでに親友。
眉を顰める十和に対してフォローを入れることは忘れない。
友人同士が互いに悪印象を持つ状態はあまり望ましくない。
「それは……そうでしょうね。ただ、彼女みたいにグイグイ来る子がこれまであまりいなかったから……」
慣れないのよ。
ボヤくような声色だった。
「『久瀬川中の撃墜王』が何を今さら」
「……その呼び名は止めて」
十和の声に冷ややかなものを感じて、春は慌てて口を噤んだ。常夜中は春たちが通っていた中学校である。
中学生の段階でほぼ完成されたルックスを誇っていた十和は、当時からすでに多くの男子から告白されるほどの人気があった。
おそらく校内で十和に興味を抱かない男子はひとりもいなかったのではないかと、春は推測している。
そんな十和に対する告白の返事はいつも『NO』で、在学中に誰かと付き合うと言ったことはなかった。グイグイ来る男子たちを片っ端から絶望の谷に叩き落していた。
そのあまりの撃墜率から十和につけられたあだ名が『久瀬川中の撃墜王』だ。脅威の撃墜率100%であり、現在は戦場を佐倉坂高校に移して記録を更新し続けている。
「大体、それを言うならあなただって……」
逆に十和から話を振られて面食らう。嫌な予感がする。
腕を組んだままなので逃げられない。
「今日もラブレター貰ったらしいわね」
「……何で知ってるんだ?」
おかしい。教室の中では鞄から手紙を出してはいない。
みちるも口にはしていなかった。どうやって十和は情報を手に入れたのだろう?
「ふふ、私の情報網を甘く見てもらっては困るわ」
この手の話題ではいつも自分のいないところで弄られる側だったせいか、やたら楽しげな口調であった。
なお、十和本人の目の前で堂々と彼女を弄る人間はいない。ひと睨みで舌を凍らされるのがオチだから。
話の流れで零れた軽口だったのに、とんだ藪蛇になってしまった。10秒前の自分の頭を叩いてやりたくなる。
春を逃すまいとする十和の腕に力がこもっている。ちょっと痛い。
「それで、小日向さんはどうするの?」
「どうもこうも、相手が誰だかわからんのに答えようがない」
「署名はなかったの?」
「いや、あったけど」
「名前を教えてくれたら、調べてあげる」
「いらねぇよ。どんな相手であろうともプライバシーがあるだろ」
「……それはそうね。小日向さん、そう言うところは真面目よね」
別に期待はしていなかったのだろう。
十和はあっさり提案を引っ込めた。
「まあ、なんだかんだ言って今回も断るんでしょうけど」
「別にいつも断ろうと思ってるわけじゃないんだが……」
「そうなの?」
佐倉坂高校の恋の戦場にエースはふたり。『小日向 春』と『十束 十和』のツートップ。
両者ともに撃墜率は100%を誇り、どうにかしてこのふたりを落とすべく、学校中の男子が機会をうかがっているともっぱらの噂。
入学してたったの一か月しか経っていないのに、すでに校内のふたりの名前と恋愛事情を知らないものはいない。だいたい新聞部のせい。
言い訳をするなら、春は最初から断るつもりでいるわけではない。結果として断っているだけだ。恋愛そのものに興味がないわけではない。
「そういう十束こそ、どうなんだよ?」
「ん~、秘密」
腕を外して腰を下ろし、脚を開いた十和の背後に回り背中を押す。
十和は子どものころからバレエを習っていたそうで、その身体はとても柔らかい。
脚は180度近く開かれるし、春の介助無しでも上体が床にペタンとくっつくくらい。
交代して春が脚を開くも――残念ながら十和のようにはいかない。背中を十和に押されつつも、身体は床に近づかない。
「あ痛たたたた……」
「小日向さん、硬いわね」
「うるせー」
背中に這わされた十和の腕に力がこもる。
徐々に体操服を押し上げる胸の双丘が板張りの床に接近する。
「痛い痛い痛い、十束、無理、無理だから!」
「あら……ちょっとやり過ぎたかしら」
背後からの圧力が消える。
割り開かれていた両脚を閉じて、太腿の内側に手を這わせる。
普段使わない筋肉が伸ばされて、引き攣るような痛みが走っている。
涙目で十和を睨んでも、本人はどこ吹く風と余裕の表情。
「柔軟は毎日お風呂上がりにやっておいた方がいいわよ」
身体を柔らかくしておいて損をすることはないのだから。
恨みがましいまなざしを向ける春に、十和はそう微笑んだ。