第29話 学生の本分は勉強です その6
江倉家の面々(と春)が一堂に会した夕食の席で協議された結果、本日の一番風呂は春が頂くことになった。
なお、夕食の後片付けは母親からの圧力に耐えきれなかった江倉兄妹が担当である。
「おばさんたちは仕事で疲れてるんだから、先に入れば?」
「別にいいわよ、お客さんが先」
「客って言われてもなぁ」
これまでにも、正確にはTSする前にも何度となく江倉家には泊まりに来たことがある。
小日向家と江倉家は家族ぐるみの付き合いで、今さら客扱いされることに違和感を覚えてしまう。
「まあまあ、そんなこと言わないで。春ちゃんも疲れてるみたいだし」
「え、そうすか?」
何だかんだと結局押し切られてしまった。ひと目でわかるほど疲労が顔に出ていることにちょっとショック。
夕食を作るのは別にどうということはなかったのだが……午前中からずーっとぶっ通しで勉強タイム。疲れていないと言えばウソになる。
せっかくの厚意を無下にすることも躊躇われるし、ここは素直に従っておく。
和久の部屋に戻って着替えをピック。脱衣所で服を脱ぎ、裸になって浴室へ。
もうもうと湯気が立ち込める中、身体を洗って頭を洗って……しかる後に湯船にイン。
小日向家のそれよりも少しだけ大きめな江倉家の湯船に肩まで浸かると、全身から疲労が溶けだしていくよう。
特に肩のあたりから。伊達に重いものをふたつもぶら下げてはいない。
「ふぃ~~~~~」
思わずだらしない声が漏れる。
湯船のお湯を両手で掬って顔に掛け、再び全身をお湯に浸す。
ぼんやりと天井を眺めることしばし。身体の内側からホカホカと暖まってきたところで、
「……そろそろ上がるか」
休日だというのに働きに出ていた江倉夫妻、一日中勉強に付き合ってくれた和久、あと織枝。
風呂に入りたがっている人間が後につかえている。あまり長湯はできない。
浴室を出て、バスタオルで身体を丁寧に拭う。髪の水気を別のタオルで取ってから、下着を身につけ――
ガラッ
不意に脱衣所のドアが開いた。
「……」
振り向いた春の視線の先に立っていたのは、春よりも頭ひとつ背が高くて短い髪に銀縁眼鏡の……
「……なに見てんだよ?」
「え? ……ああ、その、すまん」
まるで石像のように硬直してしまっていた和久は、春の声を聞いてビクリと身体を震わせた。
和久の視線は、お風呂で温められて桃色に染まった春の肌に吸い寄せられて微動だにしない。
水滴が柔らかな肌を伝い、淡く色づいた胸の先端からしたたり落ちる。その一部始終を凝視している。
ゴクリと唾を飲み込む音が、狭い脱衣所に大きく響いた。
なおも睨み付けていると、ようやく正気に返ったらしい和久が申し訳なさそうに目を逸らす。今さら過ぎる。
「ドア、さっさと閉めろ」
「あ、ああ、そうだな……それじゃ、また後で」
和久はしどろもどろになりながら、ドアを閉めた。
春が何も言わなければ、ずーっと硬直したままだったに違いない。
下着を身につけた春は、続いて部屋着に袖を通し――
「何やってんだ、あのバカ」
小さな声で、独り言ちた。
★
春の次に風呂に入るのは、和久の母親らしい。
『春→江倉母→織枝→江倉父→和久』の順になる。
これがそのまま江倉家の権力構造を顕わしているようで、ちょっと愉快な気持ちになる。和久ざまぁ。
「あ、春姉ぇ」
「ん? どーした、織枝?」
リビングに戻るとテレビがついていた。ニュース番組だ。
誰も見ていなかったと言うかリビングに誰もいなかったので、リモコンで別のチャンネルに変える。
バラエティ、ドラマ、料理番組。……どれもピンとこない。
ソファに座ってテレビを見ていると、織枝が傍にやって来てペタンと床に腰を下ろした。
「兄貴と何かあった?」
「え、なんで?」
織枝の問いは直球だった。
「兄貴がさっき部屋に戻って行ったじゃん。めっちゃ慌ててた」
「……さぁ、何かやること思い出したんじゃねぇの?」
思い当たることと言えば、さっきの脱衣所の一件ぐらいしかなかったが、それを織枝に伝えることは憚られた。
和久もわざとやったわけではないだろうし、家族から覗き魔扱いされることは本意ではなかろう。
注意していなかった春のも問題はあった……ような気がする。
「ふぅん」
じろじろと春を眺めていた織枝は、
「うりゃ!」
「……おい、なにすんだ、くすぐったい!」
背後からいきなり春を抱きすくめた。
前に回った織枝の両手が、豊かに膨らんだ春の胸を弄り始める。
精いっぱい広げられた織枝の両の手のひらで掴んでなお余りある双丘が、沈みこんだ手の動きに合わせて柔らかく形を変える。
「あ~、やっぱおっきい。いいなぁ、春姉ぇ」
背中に押し付けられた織枝の胸の感触は、春のそれよりも大分小振りだ。
年頃の少女としては気になるところなのだろう。
「ちょ、お前なぁ」
「うりうり~」
思いっきりセクハラだったが、相手は妹分の織枝だ。
あまり荒っぽい解決は望ましくないし、別に不快でもない。飽きれば勝手にやめるだろう。
そういうわけで、しばらくなすがままになされていたが……織枝の手が止まらなくて、だんだんおかしな気分になってくる。
「……お前たち、何をやっているんだ?」
「あ、兄貴。戻ってきたんだ」
「おい、和久、織枝を止めろ」
ジト目で自分たちを見つめてくる親友に助けを求めると、和久は織枝の頭をポカリと一発。
「春樹が嫌がってるだろ」
「いいのいいの、女の子同士なんだから」
「そういう問題じゃない」
「え~? 気持ちいいよね、春姉ぇ?」
「……暑苦しいから放してくれ」
「冷房つければよくない?」
「よくない。さっさと離れろ」
和久の低い声に危険を感じ取ったか、織枝は名残惜しげに春から離れた。
「妹を脅す兄貴サイテー」
捨て台詞を忘れない妹。
「時と場合をわきまえないお前が言うな」
織枝と揉み合っているうちに乱れた部屋着を戻している春に、和久が声をかけてくる。
「春樹、そろそろ勉強再開するぞ」
「おう……」
織枝と間合いを開ける言い訳としては上出来の部類……と言うか、そもそも今日は勉強しに来たのである。
ぬっと突き出された和久の手を取ると――その大きな手は僅かに湿り気を帯びていた。
★
「ん~、ちょっと休憩」
夕食と風呂を挟んでまた勉強。
今日はいったいどれくらい勉強したのだろう。佐倉坂に入学してから一番勉強している気がする。
立ち上がって軽く背中を逸らせて伸びをする。
ふと、和久の机に目をやると――
「あれ、これ……お前家でも描いてるのか?」
机の上には見覚えのないスケッチブックが置かれていた。
美術部員の和久が家で絵を描いていることは不自然ではない。
しかし放課後に部活で絵を描いて、家でも絵を描いて、さらに勉強までとなると……和久の日常はどうなっているのか、親友としてちょっと心配になってくる。
何気ない風にスケッチブックを開こうとしたところ――ものすごい勢いで横から伸びてきた手に奪い去られた。
「……なんだよ?」
スケッチブックを奪ったのは、もちろん和久だ。
「これは勉強には関係ない」
「ちょっとぐらいいだろ、ケチ!」
躍起になって春が手を伸ばすと、和久はスケッチブックを高く持ち上げた。
ただでさえ身長差があるのだ。そんなことをされたら春には届かなくなってしまう。
しかし――そこまで見せたくないものとなると、余計に気になってしまうのが人情というもの。
さらに接近してつま先立ち。そして腕を伸ばすと……
「お、おわっ」
「おい、春樹!」
案の定バランスを崩して倒れかかってしまった。
「いっててて……」
ふたりしてもつれるように転倒。
床との間に和久を挟んでいるので、痛みはまったくない。
ただ――胸のあたりに感触。
「……」
視線を下げると、そこには春樹の大きな胸をわしづかみにする和久の大きな手。
和久はと言うと、最後まで右手に掴んでいたスケッチブックを春から遠ざけようとしていたせいか、おかしな風に落下した模様で、いまだに目を閉じたまま。
ただ、左手はしっかり春の胸をホールドしている。指がにぎにぎと蠢いているところから、意識はあるようだ。
「……」
「……うおっ!?」
ようやく目を開いた和久は至近距離に春の顔があることに驚き、左手の感触に疑問を覚えて視線を下ろし……大慌てで左手を離す。
「す、すまん」
それでも、スケッチブックを死守している。そこまでして見られたくないのかと呆れてしまう。
「や、オレの方こそ無理やり見ようとして悪かったよ」
「あ、いや、そのだな……」
しどろもどろになっている和久を放置して、広げられたノートや教科書の前に再び腰を下ろす。
視線を感じる。チラリと顔を上げると、和久はすっと顔を逸らせた。耳まで真っ赤に染めながら。
★
「さっきは……その、すまなかったな」
英語のテキストにマーカーを引いていると、不意に和久が謝罪の言葉を口にした。
どっちのことを言っているのか……いや、両方か。春は軽く息を吐き出した。
「別にいい……いや、よくはねぇけど。まぁ、事故ってことで」
「ほんっっっとうに、すまん」
春が教科書から頭を上げると、和久がすぐ横で土下座していた。
「何もそこまでせんでも……」
「……怒らないのか?」
「別に怒りゃしねぇよ。大体一緒に風呂に入ったことだってあるだろうに、今さら過ぎるだろ」
「……それ、いつの話だ?」
胡乱げな和久の声に促されるままに記憶を遡る。
春の記憶に誤りがなければ、小学校低学年の頃だと思われる。
顔だけ僅かに上げた和久と、見下ろす形になった春の視線がぶつかった。
「とにかく、ずっとそんなことされてたら勉強にならねぇだろ」
「しかしだな……」
「オレは何にも見られてないし、何にもなかった。誰にも言わない。この話はこれで終わりだ。……蒸し返したらぶん殴る」
「……お前がそれでいいなら、まあ……わかった」
和久はそれだけ口にして対面に戻る。
それからしばらくの間、ふたりとも無言。
階下から、和久の父親から風呂から上がったと声がかかる。
「次、お前だろ」
「ああ、風呂入ってくる。……サボるなよ?」
「サボらねぇよ。さっさと行け!」
シッシッっと部屋の主を追い出して、テーブルに身体を横たえる。
身体との間に挟まれた胸が柔らかくたわみ、その奥で脈打つ鼓動がやけに大きく響いてくる。頬が熱い。
目を閉じて耳を澄まし、和久が階下に降りたのを確認して、
「……ばぁ―――か」
小さな唇から漏れた小さな言葉は、誰の耳にも届かなかった。
★
和久が戻ってくるまでに思ったよりも時間がかかった。
男の風呂なんてあっという間だろうという春の予想は裏切られた。
……何があったのかは聞く気になれなかった。
お互いにほとんど口を開くことなく、ひたすら勉強に励む。
春としてはわからない部分はさっさと教えてもらいたいのだが……室内の空気が重くて話しづらい。
ただでさえ難解な英文が、まるで魔法の呪文のように見えてきて。
自分の口から漏れているテキストが、耳に潜り込んできて頭を揺らす。
だんだん視界がぼやけて曖昧になり、全身から力が抜けていく。
――あれ、そう言えば、今……何時くらいだっけ?
思考がまとまらない。だるい。
「おい春樹、しっかりしろ!」
「和久……もう、むり……」
「寝るなら織枝の部屋に行け! ほら!」
身体を揺すられても無理なものは無理。動けない。頭もまともに働かない。
一日中勉強漬けだったせいで、想像以上に疲労が堪っている。主に脳みそに。
「すまん……おやすみ」
頬にテーブルとノートの感触。
落ちてくる目蓋を持ち上げることができない。
「寝るな、春樹! 春樹!?」
すぐ傍に居るはずの和久の声が遠い。
春の意識は急速に闇に飲まれて行った。
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