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第26話 学生の本分は勉強です その3


「それで、どの教科がヤバそうなんだ?」


 (はる)がテーブルの傍に座り直す一部始終を(と言うかエロ本漁りを諦めたことを)、シルバーフレームの眼鏡の奥の瞳が捕え続けている。

 キンキンに冷えた麦茶と皿一杯のチョコチップクッキーを見つめていた春は、肩をすくめて和久(かずひさ)の問いに答える。


「ぶっちゃけ全部」


「……おい」


 即答した春に、苦虫をかみつぶしたような表情を見せる和久。

 その顔を見て、春は慌てて言葉を付け加える。


「いや、だってさ……高校に入ってから教科は増えるは授業は早いわで……ちょっと酷くね?」


 春としては、ここで和久に見放されては困るので必死に弁解を試みる。

 オレは悪くない、悪いのは学校だ。日本の教育システムそのものだ。

 懸命の主張は、しかしまるで功を奏することはなく――


「毎日ちゃんと予習復習を忘れるなって言ったよな?」


 わざわざ念を押してくる和久のひと言ひと言が、ズドズドと春の胸に突き刺さる。

 その圧力に大きくノックバック。ぐっと力を込めて体勢を立て直す。

 友人の手をわざわざ煩わせようとしている春は、イチイチそんなことで怯んでいられない。


「それができたら苦労はしない」


春樹(はるき)、お前……」


 返す答えは明瞭に、胸を張って堂々と。

 ……向けられた和久の眼が『馬鹿に付ける薬はない』と無言で語っていることには気づいていた。気づかない振りをするが。


「ま、まあ、時間はたっぷりあるんだ。ひとつひとつやっていけばいいじゃん」


「確かに……全教科やるとなると、夜も使わないと間に合わんだろうが……」


「だろ? やっぱ泊まりにして正解だろ?」


「そう思っていたのなら、なぜ俺に言わなかった?」


「秘密」


 とりあえずすっとぼけておくが、内心では和久がなぜここまで詰問してくるのか、首をかしげてしまう。『お泊りとか今さらでは?』と思わずにはいられない。

 和久は、そんな春の様子をしばらく眺めていたが、溜め息をついて浮かしかけていた腰を下ろす。

 大きく大きく息を吸い込んで、吐き出した。熱くなりかけていた頭をクールダウンしている模様。


「時間がもったいないな。さっさと始めよう」


「おう」


 春の扱いは慣れたものと言ったところ。追及はあきらめて建設的な判断を下す。

 こういうところは流石長年行動を共にしている親友だと感心させられる。

 原因を作った張本人がどの面で……と突っ込む輩はここにはいない。


「それじゃお願いします、和久先生」


「スパルタで行くから、そのつもりでな」


「スパルタって……なんかエロいな」


「お前、帰れ」


「ウソ、冗談! 助けてください、マジで!」


 テーブルに春の黒い前髪が放射線状に広がる。

 始まる前からテーブルに額をこすりつける破目になるのであった。

 まさしく『口は禍の元』の生きた見本である。



 ★



 中学校と高校では、春の言うとおり科目の数が違う。

『英・国・数・理・社』の五科目だった中学時代に比べれば格段に総数が増している。

 中間試験で取り扱うのは全教科ではない(保健体育や音楽と言った教科は試験がない)のに、もうすでに厳しい。期末試験はいったいどうなってしまうのだろう。今考えるのはよそう。

 高校では国語ひとつとっても現代文と古文に別れるし、数学だって数学Aと数学1の二種類に分かれている。ほかの科目もむべなるかなと言った有様だ。

 さらに進学校である佐倉坂は授業の進度が早い。そして教師はできない生徒を待ってはくれない。

 おかげでギリギリ入学できた春のような生徒は入学してたったの一月半程度でもうグロッキー。

 おそらく本日別の場所で勉強会を開いている十和たち(と言うかみちるや太一)も同じように苦戦しているはずだ。

 和久は口を酸っぱくして予習復習の重要性を説いてはいたが、残念なことに春には実行に移したことはなかった。


「お前、帰宅部だから時間はあるだろうに」


「正直なところ、部活に入ってる連中がどうやって勉強しているのか謎過ぎる」


 和久の言葉に対する答えは、春が高校生になって以来ずっと気抱いている疑問であった。

 強制ではないと言うものの、佐倉坂高校に在籍する大半の生徒は何らかの部活動に所属している。

 彼らはいったいどうやって勉強する時間を捻出しているのだろう?

 時間はみんな平等に一日24時間しかないはずなのだが。なんかおかしくない?

 目の前に座っている和久だって美術部で相当な時間を消費しているはずなのに……


「自分を基準に物を考えるな」


「へーい」


 あまり意味のない問答はここまで。とりあえず数学から始めることにした。

 和久に促されるままに教科書を最初から読み直す。

 内容がすっかり頭から抜け落ちていることに気付かされて地味にショック。


 それはさておき。


 和久流の勉強法はいたってノーマルだ。

 公式をはじめとする重要箇所にマーカーを引き、例題を解き、答え合わせを行う。

 間違っていた箇所は、どこでミスを犯したのかチェック。

 問題集でさらに練習問題を追加。どうしてもわからない部分は和久のヘルプを頼る。

 和久はいきなり答えを教えてはくれない。まずは春に自分で問題を解かせるようにしている。


「なんかさあ、こう……パーッとやる方法はないもんかね?」


 教科書に向き合ってわずか10分で春は音を上げた。

 両手を後ろについて天井を見上げる。

 自然と反らされた背中に合わせて、豊かに膨らんだ乳房がツンと上を向く。


「そんなもんあるか」


 勉強が嫌いな学生らしい春の発言は、下を向いたままの和久に一刀両断された。

 和久は美術に傾倒してはいるが、学業を疎かにはしていない。

 自分でしばしば口にしているように、しっかり予習復習を行っている。

 決して天才と言うわけではないが、勉強関連でどん詰まったところは見たことがない。


「ほ、ほら、まずはこの問題やってみろ」


「へ~い」

 

 コップに手を伸ばして麦茶をひと口。コクコク喉を鳴らしてから、和久に示された問題に挑む。

 効率的な方法はないと口にしてはいても、和久が春に解くように勧めてくる問題は厳選されている。

 和久自身はすでに試験範囲の復習はひととおり完了しており、後はサラッと見直す程度と言ったところ。

 これは今回に限った話ではなく、勉強に対する和久の取り組みは中学生時代からずっとこんな感じである。

 よって、春は実際のところかなり効率的に学習できているのだが、その事実に本人は気づいていない。


「ヒントくれ」


「……公式を当てはめるだけだろ」


「え、どれ?」


 サラッと言われてできるのなら苦労はしない。どの公式を使えばいいのかがわからないのだ。

 そのあたりを教えてくれないと困る。

 僅かにお尻を浮かせてテーブルから身を乗り出し、和久に顔を近づける。


「お前なぁ……」


 溜め息をついた和久の声が――途中でストップ。

 春はその異常にしばらく気付かないまま、和久の手元に開かれた参考書に視線を寄せる。

 ……いつまでたっても助けが入らないことを怪訝に思って頭を上げると、軽く仰け反って明後日の方向を向いた和久の顔がそこにあった。


――ん?


 怪訝に思い眉を寄せつつ表情を観察する。

 お馴染みの仏頂面ではなく、怒っている感じでもない。あえて言うならば焦っている、あるいは動揺しているといったところか。

 何かやらかしてしまったかと先ほどまでのやり取りを脳裏で反芻してみるも……特におかしなところは思い当たらない。

 しかし、何もないという顔ではない。とても気になる。わからないことは本人に聞くしかない。


「何やってんだ、お前?」


「いや、そのだな……」


 和久の言葉は要領を得ない。春に勉強をさせようとする圧力がすっかりどこかに行ってしまっている。

 奥歯にナニカが挟まったような物言いで、春と目を合わせないようにしつつ麦茶の注がれたコップを口につけている。

 その胡散臭い一連のリアクションをジト目で見つめていた春の脳裏に、突如電光が走った。


「お前、なんかエロい事考えてね?」


「ゴホッ、な、何をいきなり言い出すんだ!?」


 麦茶を気管に流し込み咳き込む和久。

 春の目の前で挙動不審のレベルが上がっている。動揺が露骨すぎる。

 どうやら図星だったようだ。


「誤魔化しても無駄だぞ。リアクションでわかる」


 勉強中にエロ妄想とはけしからん奴だ。春はこんなに苦しんでいるというのに。

 それにしても……この男は最近どんなお宝を扱っているのやら。凄い興味ある。

 やはり和久が戻ってくるまでに探索しておくべきであった。後の祭りである。隙を見て探そう。

 本人が聞いたらメチャクチャ怒りそうなことを考えつつ、腰を下ろそうとして――ふと気づいた。


「ああ、お前、おっぱい星人だもんな」


 視線が自分の身体をかすめた瞬間に答えを得てしまった。

 一般的な高校1年生を大きく逸脱した春の巨乳がテーブルの上に乗せられているのだ。

 重力に引かれた乳房が柔らかく形を崩しつつ、その質量を存分に誇示している。

 必死に否定しようとしているが、和久の視線がどこに向けられているかは明白だ。

 春は元男だ。男子の疚しい心なんて手に取るようにわかる。


「……触ってみるか?」


「触るかッ!」


 胸を右手で掬い上げて和久に見せつけるも、思いっきり否定されてしまった。

 しかし顔を逸らしてはいるものの、頬を真っ赤に染めた和久の視線は春の胸に固定されたまま。男のサガだ。

 春はその本能を否定するつもりはない。


「いつも世話になってるから、ちょっとぐらいなら構わんぞ」


「春樹、お前な……いい加減にしろ」


 軽いジョークをかましたところ、和久はゴホンとひとつ咳払い。

 コップの麦茶を一気に飲み干して、氷をガリガリと噛み砕いた。

 その音がふたりきりの室内にやたらと大きく響いている。

 ……かなり怒っている。これ以上からかうのはマズい。


「わかった、わかったから。悪かったって」


「大体、勉強しに来るだけなのになんでそんな格好を……」


 機嫌を取るために必死に謝っている春を余所に、ごにょごにょと口の中で呟く和久。

 ふたりっきりの狭い部屋、たったひとつのあまり大きいとは言えないテーブルの上で顔を突き合わせているにもかかわらず、その言葉は春の耳に届かなかった。


ここまでお読みいただきありがとうございます。

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