第22話 放課後モデル その7
美術室でのモデルを終えて校門を後にするころには、太陽は西に傾いて空が暗くなり始めていた。
グラウンドを走り回っていた運動部員の姿もまばらになって、街は夜に向かって加速していく頃合い。
春も和久もずっと無言のまま。ただ靴音だけがアスファルトで舗装された道に響く。
ふたりの周りには佐倉坂高校から駅に向かう生徒が何人も歩いているのだが、誰もがただならぬ雰囲気を醸し出している春たちの様子を遠巻きに見守っている。
――う~ん、やっぱり謝るべきだよなぁ。
口を閉じたままの春の脳裏に占めらているのは――謝罪の意思。
今日の雰囲気が悪かったのは、元をたどれば朝の痴漢の一件が原因。
あの時はついカッとなって和久に当たってしまったが、よくよく考えてみれば和久に分があることは明白で。
ただ自分のことを心配してくれていただけなのだ。それは十分わかっている。
時々男だったころの感覚で行動してしまう自分が悪い。
こんなことで意地を張り続けるのは申し訳ないという気持ちはある。
しかし――
――あの状況で助けないってのは無しだろ?
痴漢などと言う卑劣な犯罪者、到底見過ごせるはずがない。
元男の感覚で言えば、男の風上にも置けないクソ野郎。
現女の感覚で言えば、控えめに言って死ね。
男と女、両方の感性を持つ春にとっては、痴漢の存在そのものが許しがたい。
そんな悪が目の前でのさばっている。しかも同い年の女子を襲っていたのだから。
咄嗟に一撃食らわして彼女を助けた自分が頭を下げる道理なんてない……という気もする。
むしろあの状況で彼女を助けなかった和久をはじめとするほかの男どもは、いったい何をやっているのかと腹立たしくさえ思えてくる。
――でもなぁ……
チラリと隣を歩いている和久の様子を窺うと、互いに視線がかち合った。
「……なんだよ?」
後ろめたいところがあるせいか、どうにも声に力が籠らない。
それでも後に引けないところがあって、結果としてどことなくいじけた口振りになる。
横斜め上から見下ろしてくる和久の眼を見つめながら尋ねると、
「すまん、春樹」
和久の口から出た言葉は、想定外のものだった。
「え、何が?」
思わず春の口から疑問が零れ出た。
どういう話の流れで自分が謝られているのか、それがわからない。
春に問い返された和久は、頭の上に疑問符を浮かべている。
「モデルの件だが、他に何かあったか?」
「え……あ、いや、別に。モデルがどうかしたか?」
内心の動揺を誤魔化すために、春はさらに問う。
攻撃は最大の防御。戦術の基本だ。
「モデルを頼んだときに、何日も付き合ってもらうことになると説明しておかなかった。俺の手落ちだ」
「ああ、そう言うこと」
ようやく得心がいった。
同時にいちいち細かい奴だなと呆れる。
……気を遣いすぎではないのかと。
「そう言うことって……さっきかなり怒ってなかったか?」
怪訝な眼差しを向けてくる和久を見ていると何だかおかしな気分になってきた。
軽く噴き出して言葉を返す。
「別に怒ってねぇし。あれは驚いただけだし」
「……本当か?」
ウソである。
ちょっと怒っていた。
ただ、それはすぐに終わると思っていた仕事が勝手に延長されたことに対して、反射的に怒りを覚えただけで、後を引く類のものではない。
それをわざわざ気にかけてくる和久の心配性なところがツボに入って笑ってしまった。
「全然、まったく、これっぽっちも怒ってない」
ふふーんと大きな胸を反らしてみせると、疑惑の眼差しを向けてきていた和久は『そうか、ならいい』とだけ口にして再び前を向いた。
その一連の流れに追従する形で――
「オレの方こそ悪かったな」
「……何の話だ?」
さっきとは逆の立場になった。
「今朝のことだよ。お前に当たっちまって悪かったって反省してる」
「ああ、そのことか」
眼鏡のフレームを右手の中指で持ち上げながら、
「お前の怒りはもっともなものだ。おかしなところはどこにもない」
和久の中にも、あの光景を見て怒りがあったということだろう。
ホッとした。あれを見て何も感じていないようだったら、これからの付き合いを考え直さなければならない。
「それでも不注意だったとは思ってる」
「まぁ、それは……な」
視線だけ春の方に向けて言葉を続ける。
「お前のことだから、ああいう手合いに怒りを覚えるのはわかる。昔っからカッとなったら身体が動くのもわかる。別にそれを咎めるつもりはない。ただ……」
「ただ?」
一拍の間を開けて、和久は大きく息を吐き出しながら言葉を紡ぐ。
「心配なんだ。お前が」
「別にそこまで心配せんでも」
咄嗟に反論してしまった春の言葉を耳にして、和久の視線が鋭くなる。
「言わなくてもわかってるとは思うが」
和久は語意を強めた。意図的なものだ。
こいつ結構怒ってやがるな、と春は肩をすくめた。
「お前の身体は以前よりもぜい弱だ。特に暴力への耐性は格段に低下している。俺が一緒にいるときならまだいい。問題は……お前がひとりになったときだ」
「それは……」
和久が傍に居ない。
そういう状況は普通に起こりうる。
朝は一緒に登校しているが、下校の際はそうはいかない。
帰宅部の春と美術部に所属している和久とでは学校を後にする時間が異なる。
帰りの電車で今朝のような痴漢を見つけてしまったら――
「春樹のことだから、俺がいなくても今日と同じシチュエーションを目の当たりにすれば、きっと助けに入ろうとするだろう。でも、そのときお前を助けてくれる奴が傍に居ないかもしれない。それが心配なんだ」
「……じゃあ、見逃がせって言いたいのかよ?」
拗ねた言葉が口を付く。
そんな春を見た和久は、静かに首を横に振った。
「そんなことは言わん。ただ……自分ひとりで動くだけじゃなく、周りの人間の力を借りてほしい」
「周りって、お前以外の?」
春の疑問に和久は頷く。
「ああ。お前と同じように痴漢を許せないと思う奴は居るだろう……というか、大半はそういう人間ばかりのはずだ。いいか、俺が傍にいる時は俺が助ける。だから、お前は俺がいない時のことを考えてくれ」
「……ああ、わかった」
半分は本気だが、もう半分はウソである。
和久の言葉の端々には、下校時のような細かい状況ではなく、これからの人生全体を見渡した意図が含まれているように感じられた。
でも、春には『和久が自分の傍にいない』というシチュエーションが当たり前になる未来がどうにも想像できない。
高校受験を控えた中学3年生の一学期あたりには、そういう流れがあったような気がするのだが……あの時はどうだっただろう?
あまり記憶が定かではない。TSした結果、和久と一緒の進路を選ぶことになったせいで、その辺は棚上げになってしまった。
でも――いずれその時はやってくる。高校生の春たちにとって次に控えているのは大学受験。
しかも画業を志す和久が目指すのは美大だ。絵心のない春にとっては縁がなさすぎる。今度こそ和久と道を違えることになる。
まだ3年ある。しかし、あと3年しかない。その時は刻一刻と迫っている。そういう話も意識せざるを得ない。和久も、その未来を想定しているのかもしれない。
「わかったよ」
もう一度、自分に言い聞かせるように口にする。
何度も繰り返していれば、それがいつかは真実になるとでも言わんばかりに。
正直なところ、あまりよくわかっていない。ただ、今それを言葉にすることは憚られる。
「だったらいい。この話はこれで終わりだ」
「そうだな。いつまでも意地を張ってばっかだと調子狂うわ」
「だよな」
互いに苦笑する。ホッとひと息、気が抜けた。
最寄りの佐倉坂駅にちょうど到着したところだった。
駅前は帰宅する学生や商店街に買い物に来た客でごった返している。
はぐれないようにと差し出された和久の手を握る。
高校一年生としては大柄な和久は手も大きい。
女子としては背が高めの春だが、手の大きさでは比べ物にならない。
和久の手を握っていると安心する。長年慣れ親しんだ親友の手。
「そう言えば、さっきは黙ってたんだけど」
「……何だ?」
「スカートの裾の話、織枝にもしたんだってな」
「ああ、アイツも……」
「『兄貴がめっちゃウザい』ってメッセージが来てたぞ」
春の言葉に和久がビシリと硬直した。
和久の妹である織枝は中学3年生。身だしなみには人一倍うるさい。高校1年生の春よりもずっとうるさい。
幼いころはずっと和久の服の裾を掴んで後をついてくるような内向的な少女だったが、最近はかなり色気づいてきた。
年頃の妹が、口うるさい兄に対して抱く反抗心の捌け口は、TSして以来ずっと春が担当している。
この兄妹こそ、春がいなくなってしまったら大丈夫なのかと心配になるくらいなのだが……
「……マジか」
「マジだ」
和久は空いている手のひらを額に当てて天を仰いだ。
「なあ、春樹」
「断る」
「まだ何も言ってないんだが?」
先ほどまでのシリアスな雰囲気はどこへやら、今、春の目の前にいるのは妹に悩まされる情けない兄貴であった。
「織枝を説得しろってんだろ? 無理だから」
「そこを何とか。俺たち親友だろ?」
「それはそれ、これはこれ」
TSして女になった春にしてみれば、織枝の言い分もわからなくはない。
中学3年生、15歳ともなればオシャレのひとつもしてみたくなるところ。
それをイチイチ兄貴に咎められていたら、イラっと来るのも理解はできる。
春のスカート丈にケチをつけてくるくらいだから、きっと和久は妹に対しても似たような注意をしているのだろう。
そりゃ反感も買う。
ちなみに春は元男子だが、この件に関しては和久の言い分はよくわからない。
ひとりっ子だから『妹』というポジションとの関係性が上手くイメージできないのだ。
だから『年頃の少女』として織枝を理解しようとする。
結果、織枝に賛同する形になってしまうのだ。
「お前はもう少し鷹揚にならないと、織枝に嫌われると思う」
「マジで!?」
「マジだ」
つないだ和久の手が、かすかに震えていた。
妹のことを大切に思っている兄だ。
こういう時、春は少しだけ織枝が羨ましくなるのであった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
感想、評価、ブックマーク等で応援いただけますと、ありがたく思います。
既に応援いただいている方には、引き続きお楽しみいただけるよう頑張ります。




