第21話 放課後モデル その6
それはまだ春が佐倉坂高校に入学する前、久瀬川中を卒業するよりさらに前、正確にはクリスマスよりも前のある日のことだった。
下校中に、ふと通学路を離れた。
その日はたまたま和久も十和も傍におらず、春がひとりきりで下校していたのもよくなかった。
熱に浮かされたようにフラフラと歩き、吹き荒ぶ風に身を震わせてようやく正気に戻った。
周りはまったく見覚えのない街並みで、冬を間近に迎えた季節柄、日が暮れるのも早かった。
空は茜色を通りすぎて紫に、そして闇色に。見る見るうちに暗くなっていく世界の中で、春は雅の言葉を思い出す。
『誰も知らない土地でひとり新しい生活を始める』
視界に広がる寂しい光景が春の心の中で揺れる。
一度は跳ね除けた言葉の誘惑が再び蘇ってくる。
圧倒的孤独に飲み込まれそうになった、その時――
「春ッ!」
自分を呼ぶ叫び声にハッとして、声のした方に慌てて顔を向ける。
そこには細身で背の高い男の姿。幼馴染にして親友の和久がいた。
息せき切って春の傍に駆けつけてくる和久をぼんやりと見つめていた。
「ハアッ、はぁ……いったいどうしたんだ、こんなところで?」
「和久……」
和久は、すぐ目の前にやってくるなりゴホゴホと咳き込んだ。
苦しそうではあったが、声に怒りの感情はなかった。
そこにいたのは、ただ純粋なまでに春の身を案じている親友。
すっかり凍えてしまっている春を見るやポケットから財布を取り出し、道端の自販機からホットのお汁粉を購入。寒さにかじかんだ手に握らせてくる。
小さくなってしまった手のひらにすっぽりと収まる小さな缶。
じんわりと暖まっていく熱に、凍り付いたように固まっていた春の顔が、心が融けていく。
「和久……オレ、オレは……」
「落ち着け、春」
和久は震える春の両肩を抱きしめるように掴んでくる。
力強く、大きな手のひらの感触が柔らかい肩に食い込んでくる。
胸の内から込み上げてきた想いが、瞳から熱い雫となって沁み出してきた。
「……オレ、おれは、『小日向 春樹』は、いらない奴だったんじゃないかって……ヒック」
喉を鳴らしながら言葉を発するなり、左右の大粒の瞳から涙がこぼれ落ちる。
要領を得ない言葉と共に突然泣き出した春に動転させられた和久。ひとまずふたり一緒に近場の公園に向かった。
薄暗くなった空、点滅するボロい街灯のもと、ベンチに春を座らせて、自分もその横に腰を下ろす。
春の小さな手がお汁粉の缶を握っているのを確認し、和久は自分のポケットから取り出したハンカチを春に渡す。
缶から離した右手で未使用のハンカチを握り涙をぬぐう春を、何も言わずにただ見守っていた。
「それで……お前がいらないってどういうことなんだ? 怒らないから話してみろ」
落ち着いた声だった。あるいは落ち着かせようとしている声だった。
和久だって春と同じ中学3年生の少年に過ぎない。春の悩みが自分の手に余るものだったら……と躊躇う気持ちもある。
それでも、今ここで春を放置しておくという選択肢はなかった。子どものころから共に育った親友を捨て置けない。
自分に言い聞かせようとしているようにも感じられる和久の声に促されて、春は自分の胸に溜まっていたモヤモヤした感情を吐き出していく。
『小日向 春』がみんなに歓迎されることはありがたい。事前に聞かされていたネガティブな想定よりはずっと良い。
ただ、『小日向 春』をみんなが褒め称えるたびに、『小日向 春樹』だった過去の自分が否定されていくような気持ちが降り積もっていく。
そんなことはない。みんなTSのことを知ったうえで、春を受け入れようとしてくれているのだと何度も自分に言い聞かせてきた。
でも、それでも――
和久は黙って春の話を聞いていた。何と言えばよいのか迷っている風でもあった。
途切れ途切れだった春の述懐が終わった後も、しばらくの間沈黙し続けていた。
やがて、ひと際強い風が吹いて、ふたりはブルリと身を震わせる。
くしゅん。俯いたままの春の口から可愛らしいくしゃみが零れた。
春はお汁粉のタブを開けて小さな口に運ぶ。温かくて甘い。
ちびちびと喉に流し込んでいくと、身体の中から暖まってくる。
隣に座っていた和久は唸り声をあげ、乱雑に刈り込まれた後頭部を掻きむしっている。
やがて――
「わかった……いや、わかったと言うのは違うな。わからない。わからないが、ちゃんと考える。だから……」
今日のところは帰ろう。
和久は立ち上がって春に手を差し伸べてくる。
微かに絵の具の匂いが染みついた、見慣れた右手。
春は座ったままその手をじっと見つめ、そして手に取った。
★
「おはよう、春樹」
翌日、通学路で出会った和久の第一声がこれであった。
春は驚いて和久の顔を見つめたが、そこにはいかなる演技も焦りもない。
いつも見慣れたシルバーフレームの眼鏡が輝く仏頂面。
昨日の春の告白を聞いて一晩、考えた末の結論なのだろう。
和久は余計なことは何も言わない。もともと口数が多い方でもない。
春に説明を求められても答えないだろう。
「ああ、おはよう、和久」
だから、そのひと言。いつもと同じ朝の挨拶。
お互い十年以上を共にした親友同士。
言葉は少なくとも、互いの心は通じ合っている。
自分のことを『春樹』と呼ぶ、そこに込められた意図を正確に受け止めた。
――俺は、『小日向 春樹』を忘れない。俺たちはずっと親友だ――
その日から、和久は春のことを『春樹』と呼び続けている。
誰に窘められようとも、訝しげな視線を浴びようとも。
そんな親友がひとりいてくれるだけで、春は少しだけ前を向いて歩くことができるようになった。
自分がTSしたことを、『小日向 春』になったことを受け入れて。
★
――考えてみたら、ずっと和久に世話になりっぱなしだよなぁ……
昔のことを思い出していたら、何だか呆れてくる。
もともと試験勉強は頼りっきり。受験の時も前日まで面倒見てもらっていた。
TSした後も、春の中に『春樹』がいることに気付いてくれたのも和久だ。
そして蔑ろにされる『小日向 春樹』の名前を呼び続けてくれるのも和久だ。
昔に遡ってみても、現在に戻ってみても、和久無しでは今の春は立ち行かない。
今朝の喧嘩にしても、和久は純粋に春の身を案じていただけだ。
以前の『小日向 春樹』に比べて、『小日向 春』は身体能力でほぼ全面的に劣っている。
それは身長や手足の長さだけに限ったことではなく、体力、腕力など様々なカテゴリーに及ぶ。
身体的な変化を頭で理解し『小日向 春』として生きることを受け入れても、特に感情的になったときには『小日向 春樹』の感覚で動いてしまうことがある。
その危うさについては和久だけでなく十和や雅からもたびたび指摘されている。それでもつい……ということがある。
男の『小日向 春樹』が痴漢に喧嘩を売るのと、女の『小日向 春』が喧嘩を売るのとでは安全性の面から見ても格段に違う。
か弱い『小日向 春』の身体では、痴漢と争ったときに危険が及ぶ可能性が高い。だからこそ和久は春を窘めた。わかっている。
――わかってはいても納得はできねぇ……
「どうした、小日向君?」
眠気混じりにぶすっとした表情を浮かべていると、美佐希から尋ねられた。
しょぼしょぼ落ちかけていた目蓋がパッと開き、慌てて首を横に振る。
「あ、いえ、何でもないです。何でもないない」
「そうか? いやに機嫌が悪そうだったが……」
気づかわしげに眉を寄せる美佐希。
「休憩する?」
美優希がチョコを構えている。
キャンバスの前で絵筆でも鉛筆でもなくチョコを構えている姿は、ちょっとシュールだった。
あと……何だかおかしなポーズをつけている。お菓子を構えながら。
右目の蒼がキラリと輝いた。割とどうでもいい。
「全然大丈夫です。バッチリ」
「動かずに座っているだけでも結構疲れる。休憩は必要」
そう言うなり美優希は自分の口にチョコを放り込んだ。
勝手に休憩するつもりらしい。
妹に便乗して、姉の美佐希も大きく背筋を伸ばしている。
和久も鉛筆を下ろして眼鏡の位置を直している。
美術室を覆っていた緊迫感のあった空気が弛緩している。
何だかモデルを続ける雰囲気ではなくなってしまった。
「すんません、オレのせいで」
「いや、どっちにせよ一度休憩を入れるべきではあった」
美佐希に指さされた先にある時計を見ると、約一時間くらい経過している。
半分居眠りしていたとはいえ、かなり長い時間だった。
授業一コマよりも長い間座っていたせいか、身体がバキバキになっている。
「あれ、もうこんなに」
「集中していた証拠。ハイ、ご褒美」
美優希の声に振り向くと、口の中にチョコが飛び込んできた。
甘味が疲れた体に心地よい。
「あとどれくらいでできそうなんですか?」
甘さに緩んだ心のままに、なんとなく尋ねてみると……
「え? ああ、まだ下描きすらできていないからな。全然終わらない」
「は?」
春は思わず首をかしげた。
ずいぶんと悠長な話をあっさりと。
まるでそれが当然であるかのように答えられてしまった。
「絵なんてそんなすぐに描けるもんじゃない。小日向君にはこれからもモデルをお願いすることになるから、よろしく」
「は?」
言われたことが即座に理解できなかった。
「ちなみに油絵だから、塗るのもかなり時間かかる」
「えっと……一時間くらい?」
春の問いに美優希は首を横に振った。
「乾かすだけでも一週間。何回も重ね塗りするから、その分おかわり盛り盛りで」
ワンモアプリーズ。
美優希は可愛らしいアクションを決める。
ただし無表情だった。
一時間どころか一週間たっても終わらないなんて、そんなこと――
「はぁ――――――!? おい和久、聞いてねぇぞ」
「……すまん」
和久は顔を背けて春と目を合わせようとしない。
申し訳ないとは思っているらしい。
橘姉妹の手前遠慮しているが、本音では今すぐ駆け寄って頭をしばいてやりたい。
さっきまでのセンチメンタルな感謝の気持ちはどこかに吹き飛んでしまった。
「ずっと拘束するつもりはないから、安心してくれたまえ」
「安心できるかぁ―――――!!!」
春の絶叫が美術室に響き渡る。
しかし、その声に答える者はいなかった。
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