第2話 ある女子高生(?)の日常 その2
「おっはよー!」
ガラッとドアが開く音に続き、1年A組の教室にハイテンションなみちるの声が響き渡る。
声と共に先陣切って勢いよく教室に入るみちると、気だるげに後をついてくる春のイメージは正反対。
まるで噛み合わないように見えるこのふたりの組み合わせも、すでにA組の面々にとっては見慣れたもの。
「おはよう」「うっす」「みちるん、はよー」
みちるの挨拶に答える形で教室の各所から声が上がる。
陸上部期待のルーキーは、その活発でアクティブな性質から教室でも人気が高い。
元気で溌剌、そして誰に対しても分け隔てなく明るい性格をもってして、クラスのムードメーカーとしての地位を築き上げている。
「十束さんも、おはよー!」
そのみちるの口から放たれたひと言で、春の朝らしい柔らかな教室の空気が、一瞬にして凍結した。
みちるの声の先に座っている一人の少女の纏っている雰囲気が、重量を増して教室を覆いつくす。
空気が重力に引かれて落ちる姿を、(みちる以外の)教室の誰もが目撃してしまった。
「……おはよう、湊さん」
重圧と静寂に支配された教室にあって、その声はひと際よく透る。
柔らかで穏やかな春の女神を彷彿とさせる声。それでいて鋭く冷たい冬の女王の風格を纏う声。
彼女の声は、矛盾した印象を併せ持つ。そこに違和感を感じさせない。
『十束 十和 (とつか とおわ)』
身長は春より少し高い。身体測定では163センチと記録されていた。体重はトップシークレット。
漆黒の髪を春と同じく腰のあたりまでストレートに垂らし、特別製のフランス人形を思わせる整った容姿に穏やかな表情を乗せている……が、薄く緑がかった瞳の奥が笑っていない。
つるりとした卵を思わせる白い肌はシミひとつ見当たらず、学校指定の制服の胸元は程よく盛り上がっており、全体的にスレンダーでバランスが良い体つき。
パッと見では欠点なんて思いつかないが……いささか愛想にかけるところがあり、ときおり本人の意思とは無関係に圧が強くなるところが玉に瑕と言ったところか。
今年度の佐倉坂高校入学試験の主席合格者であり、1年A組のクラス委員長であり、そして実家は地元の名家である。文武両道、容姿端麗、十和を褒め称える言葉は枚挙に暇がなく、教師たちの信頼も厚い。
春とともに新一年生二大美少女としてその名を馳せており、春と十和は今年の文化祭におけるミスコンの本命と囁かれている。
「おはよう、十束」
「おはよう、小日向さん」
所在なさげに手をワキワキさせるみちるを放置して、十和は春に軽く会釈を送る。春もまた軽く手を上げて挨拶を交わす。
春と十和、そして和久は同じ久瀬川中出身で、互いに知らない仲でもない。より正確に表現するならば……春にとって大切な友人である。
十和は近寄りがたいイメージはあるものの、誠実で心優しく気高い少女である。
ただ、何故か彼女はみちるに対してだけは当たりが強い。そこがよくわからない。
「小日向さん、少し眠そうね」
「まぁ、ちっとな」
春の顔をじっと見つめてそんなことを言う。
その声色には、先ほどのような隔絶した冬のイメージは感じられない。
女王の勘気はすでに去っている。緊張していた教室の空気が弛緩する。十和には教室を支配する存在感があった。
「なになに、どしたの春? 寝不足?」
「……なんでもねーよ」
横合いから訪ねてくるみちるを軽くいなし、活気を取り戻した教室の中、机の間を縫うように歩き――そして着席。
窓際の前から4列目が春、その後ろがみちるの座席である。
「いやー、さすがはみちるさん。マジリスペクトっすわ」
椅子に座るなりみちるの隣りに座っていた男子が声をかけてくる。やや軽薄な響きを孕む声。
整髪料で短めの茶髪をしっかりセットした、イマドキの高校生男子。
黙っていればイケメンで通る顔には、残念なことにだらしない笑みが浮かんでいる。
『高坂 太一 (こうさか たいち)』
みちると同じ中学校からこの佐倉坂高校に進学してきている男子で、当然のように二人は顔見知り――よりも深い仲のようであった。ただし本人たちは否定している。
佐倉坂高校は近隣では名高い進学校ではあるが、通っている生徒は全員が全員真面目な優等生と言うわけではない。
中には春やみちる、そして太一のように火事場のクソ(知)力で受験を突破した者も存在している。そう言った連中は得てして同類同士で徒党を組む。春たちも例外ではない。
「何その言い方、アンタ私のこと馬鹿にしてない?」
誰に対しても明るく話しかけるみちるだが、唯ひとり太一に対してだけは厳しい。
ふたりのやり取りを初めてみた者は、豹変と表現しても差支えないみちるの態度に面食らわされることになる。
そして、しばらく様子を見ていればそれが親しさを元にしていることに気付かされる。そういう関係である。
「いやいや、だって毎日あれだけ十束さんに跳ね返されてるのに、懲りずに突撃できるの、佐倉坂広しと言えどみちるさんだけっしょ?」
『ねぇ』と太一は春に同意を求めてきたので、頷いておく。
まったくもって春も同感だった。十和とは同じ中学で1年間、今年を含めて同じクラスで2年目の付き合いになる。
しかし、十和に対してあのように距離を詰める人間を他に知らない。
「え? ダメかな? 十束さん凄くきれいだし、お友達になりたい」
おかしなポーズを決めるみちるの言葉には裏がない。
素直な心持ちで、同じクラスの仲間として親しく付き合いたいと考えているようだ。
それは、ひとりの人間としては実に健全な思考回路であると言えるだろう。
春も友人のこういったポジティブさは見習いたいと常々思っている。
「いや、ダメってことはないけど……ちょっとは凹んだりしない?」
「凹んでたら十束さんと友達になれないじゃん」
――いや、まーそらそうなんだが……
春と太一は顔を見合わせ、きょとんとしたみちるにふたり揃って視線を送る。
元々アグレッシブな性格ゆえの反応なのだろう。懲りるということを知らない。
そして、それは決して悪いことではない。
「そう言えば、春って十束さんと同じ中学だったんだよね?」
いつも普通に挨拶してるし。
みちるがそう続けると、春は微妙に顔を引き攣らせた。
「まぁな」
「十束さんと仲いいよね?」
「……普通じゃね?」
詰め寄ってくるみちるから視線を逸らしたその先には――表情を凍り付かせた十和の姿。
正面を向いたまま凄まじいプレッシャーを放っている。『余計なことは言うな』とその背中が語っている。
哀れなのは十和の周りに座っている生徒たちだった。どうしようもない。春は何も悪くないのだが、心の中で彼らに詫びた。
「どうやって十束さんと仲良くなったのか、コツを伝授してはもらえんかのう」
「コツっつーか、別に何も。十束はいい奴だし」
曖昧に言葉を濁す春の視線の先で、十和はガタッと音を立てて席を立った。
教室の空気がまたもや凍り付く。夏に向かって温度が高まっているはずなのに、1年A組にはブリザードが吹き荒れている。
クラス中の視線が春と太一に集中した。誰もが『はやく何とかしろ』と目で訴えている。
気のせいだろうか、十和の身体は小刻みに揺れていた。噴火前の火山を彷彿とさせるその姿。おそらく距離が離れているせいで見間違えているのだろう。春はそう思うことにした。
「ま、ま、待て、ちょっと待て」
それは……いったい誰に向けた言葉だろう。
春は自分で口にしていてよくわからなくなってきた。
正面のみちるに語り掛けているようでいて、実際は遠くで聞き耳を立てている十和に聞かせようとしているような気もしてくる。
「アタシ、十束さんに嫌われてるのかなぁ」
「……いや、別にそんなことはないと思うぞ」
消沈しかかったみちるに、つい本音を零す。
「十束は……何つ~か、その……えっと、そう! 『押してダメなら引いてみろ』みたいな感じで」
いったい自分は何を言っているのだろう。
春は自分で口にしていてよくわからなくなってきた。
みちるを慰めているようでいて、実際は十和の機嫌を損ねないよう言葉を選んでいる……つもりだった。
……あまり適切な表現ではなかった気がする。
「世の中誰もがみちるさんのテンションについていけるわけじゃないってことじゃね?」
瞳をウルウルさせ始めたみちるを止めにかかるふたり。結果は――太一の脳天にチョップ。
『うごぉ』呻きつつ、太一は手刀が直撃した箇所を押さえる。
「何それ、アタシが暴走してるみたいじゃん」
ぶーっと頬を膨らませるみちるを見て、春は左右の瞳を丸く見開いた。
――いや、暴走してるじゃ……
口にしかけた言葉を飲み込んだ。
これは誰の得にもならない言葉だと悟ったから。
代わりに――
「……多分、距離感を計りかねているんじゃないかと思うんだが」
「距離感?」
不思議そうに首をかしげるみちる。
春としては上手いこと言ったつもりだったのだが、理解されなかったようだ。
どうやって説明したものか腕を組んでしばし黙考。
そして、
「まだ知り合って一か月ぐらいしかたってないしさ。グイグイ来られると面食らう、みたいな?」
「え、一か月あれば十分じゃない? アタシと春はもう親友じゃん?」
そう答えるなり、ギューッと抱き着いてくるみちる。『違うの?』と濡れた瞳と共に無言で訴えられれば、無下にもできない。
彼女にとって一か月は友人関係の構築において十分な時間であるらしい。
これまであまり友人を作ってこなかった春としては、どちらかと言えば十和に賛成したいところではあるが言葉にはしない。
一方で、そんな春だからこそみちる並みに距離を詰めてくれる相手の方が相性はいいのかもしれないと思うこともある。人間関係は難しい。
遠くで十和が席につき大きく深呼吸している姿が見て取れた。身体の震えは治まっているようだが、その背中から内に秘めた感情を窺い知ることはできない。
彼女の前に座っている生徒が一度も振り返ろうとしないところが非常に引っかかるのだが……
何はともあれ――
「大変だな、太一」
このコミュ力モンスターみちるとずっと顔を突き合わせてきたと言う男に、感嘆とも慰めともつかない言葉をかけた。
「わかってくれます、春さん?」
「ああ、まあ、ちょっとだけ?」
みちるを通じて知り合った仲だが、太一とは気安く話すことができる。
この手のチョイ軟派系の男子は本来苦手なはずなのだが。
人は見かけによらないということを思い知らされる。ちゃんと話せば意外と気が合う奴もいるのだ。
「あ~、春さんのおかげで今日も一日頑張れそう」
「太一うるさい」
陸上部で鍛えられたみちるの足が、隣の机を蹴り飛ばした。