第17話 放課後モデル その2
イライラは持続し、そして伝播する。
生徒たちが昼食を経て休憩に入った昼休みの1年A組の窓際。自分の席で頬杖をついて窓の外を眺めている春の顔はブスっとしている。
本人は周りの人間に見られないよう顔を背けているつもりだけれど、窓に映った顔がバッチリ見られていて不機嫌がバレバレだったりする。
苛立ちを隠せていない春に声をかける者はいない。
「ねぇ、春、今日機嫌悪い?」
ただひとり、親友を自称するみちるを除いて。
そのみちるにしても、いつもの溌剌とした正面突破とはいかなかった。
実に彼女らしくない、おずおずとした尋ね方。
そして、その返答はと言えば、
「……別に、何でもねぇし」
答える声は愛想なく。
顔をみちるに向けようともしない。
この有様では何を言っても説得力ゼロなのだが、本人だけは気づいていない。
「本当に? なんかいつもと違う……」
後ろの席から食い下がってくるみちるの声はわずかに震えていて、これは流石に悪いことをしたかと春も反省。
大きく深呼吸をひとつ、ふたつ。新鮮な空気を体内に取り入れ、心を決めて体の向きを入れ替える。
「実はさ……」
今朝の一件――電車で痴漢されていた少女を助けたこと――を説明した。
被害者は同じ佐倉坂高校の一年だけど、そこまで教える気にはなれなかった。
たとえ名前を明らかにしなくても(聞いてないけど)、痴漢されたなんてことを吹聴されていい気はしないだろう。
何とも不公平で業腹ではあるが、そういう雰囲気があることは否定できない。
ついでに和久と喧嘩したことも黙っていた。こちらもわざわざ誰かに伝えたいとは思わなかった。
春の話を聞いていたみちるは、だんだんと眉を斜めに釣り上げて真横を睨む。
「男ってサイテー」
騒がしい教室に冷気マックスの声。
周りの男子たちがひゅっと表情を固めてしまった。
中には股間を押さえる者までいた。
「いやいやいや、何でこっち見るの、みちるさん」
隣でスマートフォンを弄っていた太一が手をぶんぶん振りながら、みちるに言葉を返している。
どう考えても完全にとばっちりだった。
「だって男子ってエッチだし」
「男がエロいのは否定しないけど、俺は痴漢なんてしませんし?」
「どーだか」
取り付く島もない。
先ほどまでの春よりも酷いかもしれない。
みちるの態度に呆れた太一は春に目で合図して、
「ちょっと春さん、コイツに何とか言ってやって」
「なぜそこで話を振られるのかはわからんが……みちる、普通の男は痴漢したいなんて考えてねーから安心しろ」
みちるの中で『男=エロい』の公式が成立する前に、友人である太一を一応弁護すると、みちるはようやく表情を崩した。
ちなみに春の中では『男=エロい』は否定できない現実として認識されている。
年頃の男なんてそんなものだ。元男だからわかってしまう。仕方がない。
「そうなんだ……ふーん」
みちるは何か口ごもってしまった。
おそらく『春は男のこともよくわかるんだね』とでも言おうとして止めたのだろう。
TS経験のある春に対して、みちるはそのあたりのセンシティブな話題に触れようとはしない。
春としては、そこまで気を遣ってもらわなくてもいいのだが。
「でも痴漢かぁ……そんな人と一緒の電車に乗るのってやだな」
「だよなぁ……」
電車通学の女子ふたり、思いは同じ。
そんな変態が身近にいると想像するだけで気が滅入ってくる。
いつ自分が痴漢されるかもと警戒していては身が持たない。
「みちるさんはともかく、春さんは痴漢にあったことってないの?」
余計なひと言を付け足しつつ尋ねてくる太一に、当のみちるの強烈な凝視。
バチバチと弾ける不可視の火花をスルーしつつ、
「ないなぁ」
「マジで!? どいつもこいつもどこに目ぇつけてんの!?」
「ちょっと太一、さっきと言ってること違わない? あとアタシはともかくってどー言うこと?」
みちるがキレた。
「あ、いや、ほら……みちるさんは毎日朝練があるじゃん? ラッシュ時には電車乗らないっしょ?」
ジト目で睨み付けてくるみちるから上体を引きつつ、いかにも『今思いつきました』的な言い訳を並べ始めた。
真偽はともかく太一の言い分には理がある。早朝から学校に詰めているみちるには通勤・通学ラッシュの経験はほとんどない。
みちるも落ち着いて椅子に座り直し、
「まぁ、春の気持ちもわかるかな。朝からそんなサイテーなことがあったら機嫌悪くなるか」
「だろ?」
納得したらしいみちるに追随しておく。
実際のところ、痴漢に対する怒りはとっくに鎮火してしまっているのだが。
春の心のモヤモヤの原因は別にある。ただ、それを誰かに話すことは躊躇われた。
例え友人のみちる達であろうとも。この件はここまでにしよう。
ひとり心の中で決意を新たにしてスマホをちらりと見てみると、昼休みはあと5分。
「わりい、ちょっとトイレ行ってくる」
「春、そういうの大声で言わなくていいよ……」
「おおう」
女子的デリカシーに疎いところがある春に、残念なものを見る目を向けつつ放たれたみちるのひと言が微妙に心を抉る。
見た目は容姿端麗でも中身が残念。こういうちょっとしたところでボロが出るのが春の弱点であった。
兎にも角にも、友人ふたりを置いて教室を後にしてトイレに向かう。みちるはわざわざ一緒に付いてきたりはしない。
女子は連れ立ってトイレに行くものだとばかり思っていたが……みちるのこういうところは、春にとっても好ましい気質だった。
昼休みの残り時間を気にしつつトイレを済ませて廊下を歩いていると……
――あれは……
1年B組の前にさしかかったあたりで見慣れた人影が視界に入り、角に身を隠す。
そろりと気付かれないように顔を出して様子を窺うその先は……
一方は短い髪を乱雑にカットしたシルバーフレームの眼鏡男子、和久。
そしてもう一方は、春と同じく腰まで届く黒髪が印象的な美少女、十和。
ともに春と同じ久瀬川中からこの佐倉坂高校に進学したふたりの友人が何やら話し合っている。
珍しい組み合わせだな、と春は思った。
春の記憶には、和久と十和がふたりきりという場面はない。
中学校時代も、高校に入ってからも。
「江倉君、あなたが………………して…………困るわ」
「すまん。俺には………………十束…………できない」
「そんなこと……言わないで。こういう………………」
――なんだなんだ?
漏れ聞こえてくる声は小さくて、ふたりが何を話しているのかは判別できない。
もっと接近すればどうにかなりそうではあるものの、一度こそこそ隠れてしまったのがよくない。
咄嗟に身体が動いてしまった結果ではあるが、今さらながら二人の前に姿をさらす気にはなれない。
付け加えるならば、ふたりの会話を盗み聞きしていることがバレるのは避けたい。
遠目に見た感じでは、ふたりともやけに深刻そうな表情を浮かべている。
見たこともない組み合わせ、見たことのない表情、見たことのない雰囲気。ヘヴィでシリアス。
ただならぬナニカが進行している予感に春は背筋を震わせる。
「とにかく、俺ももう少し…………てみる」
「頼むわよ。あなた………………なんだから」
まごまごしているうちに和久と十和の密談は終わっていた。何を話していたのか、物凄く気になる。
そのまま教室に引っ込んだ和久を追うのは物理的にも心理的にも無理として……いずれにせよA組の教室には戻らなければならない。
何気ない風を装ってB組の前を通過。チラリと視線を室内に投げてみると、やはりマジな顔を浮かべたままの和久が席に腰かけている姿が視界の端に映る。
周りのクラスメイト達も、その空気に飲まれたように声をかけようとしていない。
終了寸前の昼休みの喧騒の中、B組の教室にぽっかりとエアスポットができてしまっている。微妙に異様な光景であった。
……あちらをつつくのは難しそうだ。それに、今は和久と口を聞きたい気分ではない。
――これは仕方がないな、うん。
視線を前に戻し、頭の中で適当な理論武装をでっちあげて十和の後ろにつく。
念のため少し距離を開けておく。十和のひとりごとが聞こえてきたらいいなというくらいの希望をもって。
あまり接近しすぎて聞き耳を立てていたことがバレたら怖いというのが本音だ。
しかし――春の目論見は呆気なく崩れ去る。
「あら、小日向さん」
十和は突然振り向いた。
あまりに自然すぎる一連の動作。
春と十和、ふたりの視線が絡み合う。
先ほどの深刻な表情などまるで見間違いだと言わんばかりの穏やかな笑みを浮かべた十和の顔を見ていると、春の方が顔をカーッと紅潮させてしまい、同時に頭の中が真っ白になった。
何か言わなければならないという気が急く一方で、喉に言葉が引っ掛かってしまい、余計に考えがまとまらなくなる。軽いパニックに陥ってしまった。
その結果――
「あ、おお? 十束、奇遇だな?」
驚愕と動揺を隠しきれないまま、おかしなことを口走ってしまった。
十和の反応に全く対応できていない。
あのタイミングで振り返ることが想像できていなかった。
と言うか、予備動作がなかった。後ろの眼でもついているのではないかと疑いたくなるノーリアクション。
「奇遇って……小日向さんは何をしてるの?」
明らかに胡乱げな眼差しを向けられる。軽く眉をひそめているだけなのに迫力が凄い。
きっと本人にその気はないのだろうけれど、威圧感半端ない。
微笑みを浮かべているのに、瞳の奥が笑っていない。頼むから、その顔を止めてほしい。
そんなことを口にしたら、さすがの十和でも機嫌を害するだろうから言わないけれど。
「何って、オレはトイレに行ってただけだけど?」
ウソはついていない。
それだけではなかったけれど、都合の悪い部分は誤魔化しておく。
キョドり気味の春を見て、十和は大きくため息ひとつ。
「小日向さん、そういうことはあまり大きな声で口にするものではないわ」
「あ、はい」
みちると同じことを言われてしまった。
会話の選択肢を間違えてしまっただろうか。
早く教室へ戻ろうと促す十和に対する有効な反論は思いつかないし、もうすぐチャイムが鳴ることも確か。
やむなく十和の後をついてA組に戻る。艶やかな十和の黒髪からふわりと柔らかい香気が漂って、春の鼻先をくすぐってくる。
ドアを開けて教室に足を踏み入れるころには、和久と十和が何を話していたのか尋ねようなどと言う気持ちは、すっかり頭の中から消え去っていた。
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……昨日のあとがきは何であんなこと書いたんだろう? その場のノリって怖い……