第16話 放課後モデル その1
『放課後モデル』全8話の予定です。
女の子が泣いている。
小学生低学年、あるいは幼稚園くらいの年頃。
髪は長く、目蓋を擦る手の隙間から見える瞳は黒くて大きくて、そして潤んでいる。
右手には……首がもげてしまった人形をぶら下げていた。
――どこかで見たような?
誰だっただろう?
思い出そうとするも、頭の中には靄がかかってしまっているようで。
尋ねようにも声が出ない。モヤモヤしたまま眺めていると、少女の泣き声が一層大きくなる。
失礼な連想かもしれないが、真夏のセミを思い出させるその喧しさは、ちょっと鬱陶しい。
不意に、少女の隣りに人影が増えた。
年配の女性だ。その顔には見覚えがあった。母方の祖母だ。
年輪が刻まれた穏やかな表情。しかし眉を微かに寄せて咎めるような眼差しを向けてくる。
――ああ、夢か。
唐突な少女、音もなく現れた祖母。違和感の正体にたどり着いた。これは夢だ。
何故なら――母方の祖母は2年前に亡くなっている。葬式にも参列した。
夢と気付いたついでに、泣いていた少女のことも思い出した。いとこの紅葉だ。
同い年のはずの彼女がこんなに小さいということは――これは過去の記憶の再現なのだろう。
「春ちゃん。男の子はねぇ、女の子を虐めたらあかんよ」
窘めるような口ぶり。久しぶりの祖母の声は怒ってはいないが……少し悲しげではある。
そう言えば、ずっと昔に里帰りした時に、紅葉が大切にしていた人形を壊してしまったことがあった。
……何もかもが懐かしい。郷愁に胸を掻きむしりたくなる。
そっと伸ばされた手が、頭を優しく撫でてくる。
「……」
視界がぼやける。ふたりとの距離が離れてゆく。世界が色を失って落ちていくような感覚。そして――目が覚めた。
カーテンの隙間から差し込む光。枕元ではスマートフォンのアラームが鳴り響いている。
ゆっくりと上体を起こすと、ボリュームのある黒髪が重力に引かれて流れ落ちる。
胸元では、やはりボリューミーな左右の膨らみがその存在を主張している。
しょぼしょぼした目蓋を軽く擦って大きく背伸び。あくびをひとつ。
「……間が悪い夢だな」
『小日向 春』15歳。華の女子高生の朝の目覚めであった。
★
春はいつも早めに目覚ましをかけている。
TSする前はサッカー部の朝練のために、TSしてからは身づくろいのために。
女の子の朝の準備はいろいろと手間がかかる。シャワーを浴びて汗を流し、身体や髪を乾かして。制服ひとつとってみても男よりも着るのに時間がかかる。
高校に入ってからは弁当も自分で用意することになったから、さらにひと手間増えた。
それでも慣れてしまえばどうということもない。まぁ、眠いものは眠いのだけれど。
今朝はおかしな夢を見たものの、いつもどおりに朝食を摂り、家を出て学校に向かう。
ドアを開けて外に出ると、空はまばらに雲の散った晴れ。天気予報のとおりだった。
春の家がある羽佐間市から佐倉坂高校までは、電車で5駅。
家から最寄りの羽佐間駅までは徒歩で15分。3番ホームから電車に乗って佐倉坂駅へ。そこからさらに徒歩で15分。
目を覚ましてからシャワーを浴びても、頭はまだ正常に働いているとは言い難い。エンジンがかかるのが遅い日もある。
駅に到着すると、春と同じく佐倉坂を目指す学生や社会人たちがホームにたむろしている。通学・通勤ラッシュの時間帯だ。
彼らのうち約半分――つまり男どもは、春が駅に姿を現すと不躾な視線を投げてくる。悲しい男のサガだ。春にも経験があるからわかる。
いちいち怒鳴りつけていたら身が持たないのでスルーしていると、すぐ傍に音もなく気配が現れて、視線をシャットアウトする。
「うっす」
「おお」
振り向かなくてもわかる。和久だ。
「なんか眠そうだな?」
「まぁな」
気だるげな雰囲気を纏っている春よりも、和久の空気は重い。
心なしか顔色も良くない。常日頃あまり日を浴びない親友は、今日は一段と不健康に見えた。
「勉強のしすぎじゃねぇか?」
「お前は勉強しなさすぎじゃないか?」
「やってるっつーの」
高校に入ってから和久と一緒に電車で通学する日がほとんど。最近の和久の朝は大体いつもこんな感じだ。
中学校時代から朝は眠そうにしていることが多かった和久は、高校に入ってからさらにその度合いを増している。
何か悩み事でもあるのだろうか。それとなく尋ねてみてもはぐらかされることが多い。よくよく考えてみると、あまり和久から弱音を聞いた記憶がない。
とりとめのない会話のキャッチボールを繰り広げているうちに、ホームに電車が滑り込んでくる。
アナウンスと共に電車のドアが開くと、中から大勢の人間が吐き出され、代わりにホームにいた人間が詰め込まれる。
ドアが閉まって車両が走り始める。利用者に比して車両の容積は小さく、この時間帯はぎゅうぎゅう詰めだ。日本国内どこにでもある、ありふれた日常の一幕。
閉まったままのドアを背中にした春。その前には仏頂面の和久がいる。ついと顔を逸らして狭い車内に視線を巡らせていると……すぐ傍に居たひとりの女子が目についた。
おかっぱ頭に眼鏡、そして佐倉坂高校の制服。ネクタイの色は群青。春と同じ一年生だ。
それだけなら特に目を惹かれる部分はないのだけれど……気になるのはその顔あるいはその表情。
俯いた顔は蒼白で何かを堪えるようにきゅっと目蓋が閉じられている。その端には涙が浮かび唇を震わせている。
彼女の後ろには年嵩の男。手元の文庫本を読んでいるように見えるが、視線は女子の方にチラチラと向けられている。
空いた方の手が女子のスカートに伸ばされていて……
瞬間、カッと頭に血が上った。
春は、思いっきりその男の革靴に踵を落とし、捩じり込んだ。
狭い車内にくぐもった悲鳴。
カーブにさしかかった電車が揺れて、緩いブレーキ音。
「な、何をするんだ、君ィ!」
顔を真っ赤にして凄い剣幕で捲し立ててくる男を一瞥。
眼差しに目いっぱいの怒りを込めて。殴りつけてやりたい気持ちを抑えながら。
硬く握りしめた春の手は震えていた。
「ひ、ひぃっ!?」
ただのひと睨みで男はすくみ上る。
並外れた美貌に憤怒の感情を載せると迫力が凄いことになる。
春は十和からそのことを実地で学んでいる。
彼女には及ばないものの、春の顔立ちでも効果は十分。
きらめく怒りの眼光を向けられた男は口をパクパクさせて泡を吹いている。
「何をするんだって……てめぇこそ何してやがる!」
可愛らしい女子高生の声でも、腹の底から湧き上がってくるものであれば深く重く突き刺さる。
にわかに車内が騒然とする。ここに至ってようやく周囲の客も何が起きていたかを把握できたようだ。
いや、元から気付いていても無視していただけかもしれないが。そんな周りの無関心すら春の感情を苛立たせる。
「このまま警察に突き出して――」
残念なことに、春は言葉を最後まで続けることができなかった。
車内が急激に揺れ、次の駅に到着したことを告げるアナウンス。そして開かれるドア。降車する人の流れに乗ってしまった男との距離がみるみるうちに開いていく。
「あ、ちょ……待ちやがれ!」
待たなかった。待てと言われて待つ人間はいない。
おかっぱ女子に痴漢をはたらいていた男は車両を降りて、姿をくらましてしまった。
さらに新たな乗客が逆流してきて、追跡を阻害してくる。
怒りのやり場を失い、握りしめた拳を緩める。胸の内に溜まった熱い感情を大きなため息とともに吐き出した。
「……大丈夫か?」
ドアが閉じ、動き出した電車からホームを眺め――被害者の安否を気遣う。
春の傍で震えていた女子の顔にはようやく安堵の色が戻ってきていて。
それでも全身はいまだに強張っている。よほど怖い、あるいは辛い思いをしたのだろうことが容易に想像できてしまう。
「は、ハイ……大丈夫です」
「すぐに気づいてやれなくて悪かったな」
「い、いえ、そんなことは……」
おかっぱ頭の一年生は、何度も『ありがとうございます』と礼を述べてきた。
小さな声で何度も何度も。瞳を潤ませ、頬を赤らめさせながら。
和久は、そんなふたりを複雑な表情で見つめていた。
★
佐倉坂で電車を降りて駅から出ると、同じ制服を纏った学生たちが高校までの道のりに連なっていた。
駅から学校までは地名のとおり坂、それも上り坂になっている。緩やかな傾斜だが地味に脚にキく。
電車内の混雑に比べれば大分マシなその列に加わって歩いていると――
「春樹、ああいう時はだな……」
横合いから和久が咎めるような口調で語り掛けてくる。
「なんだよ?」
電車内での一幕を思い出し、腹立たしさまで蘇ってくる。
和久の声に含まれたわずかなトーンの違いが心を逆なでしてくる。
心の中に積もっていたイライラのせいで、声に険がこもる。
「あ……いや、そのだな。俺に言ってくれれば何とかするから」
春の声に不穏な気配を感じたか、和久は勢いを失ってしまった。
「別に俺がやってもいいだろ。早く助けてやらなきゃならなかったんだし」
「それは……まあ、そうなんだが……」
歯切れの悪い口振りが癇に障る。
隣りを歩いている男の顔を見上げると、何か言いたそうで我慢しているような。
心なしかその瞳には春を責めるような色合いが混ざっているようにも見えて。
「なんだよ、言いたいことがあるならハッキリ言えよ」
「……」
和久は何か言おうと口を開きかけたが、声を発することなく視線を逸らす。そして『悪かったな』とだけモゴモゴと口にした。
――何なんだよ、いったい!?
モヤモヤした気分が胸に溜まる。
前に進む足が早まり、乱雑なステップを刻む。
「お、おい、春樹。そんなに急がなくても」
「別に急いでないし。無理して付いて来なくていいし」
「お前なぁ……ったく」
お互いに駅を降りてからまともに会話することはなかったものの、和久はそれでも春をひとりにしようとはしない。
早々に追いついてきて、ふたりとも口を閉じたまま学校を目指す。いつもの慣れた距離感が、ささくれだった春の感情を更に煽ってくる。
そんなふたり――正確には物騒な気配を振りまく春――から少し距離を開ける生徒たち。触らぬ神に何とやらだ。
やがて周囲の喧騒が少しずつ大きくなるころには、目的地である佐倉坂高校が姿を現す。
春先には校庭を鮮やかに彩っていた桜の花は、とっくの昔に散って緑の葉を茂らせている。
青空のもと、葉桜の間を歩いていると、まばらに人影が散ったグラウンドが視界に入ってくる。
朝早くから練習に精を出していた運動部が、登校してくる生徒に合わせて校舎に入ろうとしている。そろそろ試合が近いとみちるが言っていた。気合が入っているのだろう。青春している。
そんな運動部員たちを眩しく見つめつつ昇降口に足を踏み入れて、無言で和久と別れてから下駄箱の蓋を開けると――
「あれ、またかよ」
上履きの上に、白い封筒が置かれていた。
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