第15話 突発性遺伝子変異症候群 その8
「いろいろあったなぁ」
こうして雅と話していると、一年ほど前にTSしてからのことが次々と思い出される。
死を希求するほどの苦しみを経て、実感のない姿に変貌したことを知らされたときの驚愕。
両親と初めて再会した時の胸の痛みと、和久が来てくれた時の喜び。
歯を食いしばって耐えたリハビリと地獄の個人授業。
復学してからの和久や十和との関係。
中学生活最後の数か月は、春に濃密な経験を与えてくれた。
「一時はどうなることかと心配したものだが……今のところは無事で何よりだ」
冷めたコーヒーを飲み干し、おかわりを電気ポットから注ぎながら雅はそんなことを宣わった。
当の本人としてはなかなか聞き捨てならないセリフである。
「TSした直後以外にも、無事じゃなくなる可能性ってあったの?」
つい尋ねてしまったところ、『もちろんだ』と返ってきた。
聞くんじゃなかったと後悔しつつも、ここで聞くのを止めたらもっと後悔しそう。
やむなく話の続きを促すと――
「身体が安定するかどうかというのは、こうして定期的に検査を続けていかなければわからないものだが……問題はメンタル面だ」
「メンタル?」
雅の言葉に首をかしげる春。
サラサラの黒髪が揺られて流れ落ちてゆく。
『ああ』と首肯し、おかわりのコーヒーに口をつけつつ雅は語る。
「性転換による精神への影響は甚大だ。小日向も両親に初めて再会した時はショックを受けていただろう?」
「ああ、まあ」
あまり思い出したくない話題だった。
視線を逸らせ、コーヒーを喉に流し込む。苦い。
「特に小日向の場合は第二次性徴期以降のTS、しかも突発性と来た。中学三年生ともなれば、十分に自我が構築されている時期だ。そんなタイミングでの性転換だぞ。下手したら人格が崩壊しかねないレベルだ」
言葉にされると想像以上にヘヴィだった。
『今さらではあるが』と前置きしたうえで雅は続けた。
「手元でデータ採取できなくなることは残念ではあるが……実はあの時、院内ではお前を地元から引き離す選択肢の方が推奨されていた」
「そうなの?」
「ああ。本来ならば小日向を支えるべきである家族や友人、学校の理解が得られないとなると負担が大きすぎるからな」
突発性遺伝子変異で急激に身体を作り替えられた春の場合はともかく、通常のTSにおいてはあまり身体的な問題は発生しない。
ただ……じわじわと変化していく自身の身体に恐怖を覚えたり、TSした後の日常生活に適合できず精神を病む事例が少なくないとのこと。
その場合に発症者の心の支えとなるべき人間もまた、同様にショックを受けていたとしたら……状況によっては自傷を経て自殺へ至る場合もあると言う。
春に関しては、意外と言うべきか元々精神的にタフだったのかは定かではないが、女性になった自分に恐れを抱いたりといった点では問題はなかった。
しかし、両親の対応がマズかった。春のいないところで事前に説明していたそうだが……結果は既に知るところである。
それはともかく――
「……自殺って」
絶句した。あまりに非現実的なその響きに。
しかし、その一方で納得する自分がいることを認めざるを得ない。
家族に拒絶された春は、しばらくの間生きる気力を失っていた。
あの状態のまま社会復帰を促されても、とても頑張ることなどできそうにない。
いくら日本がTS先進国だからと言って、いつまでも病院の世話になり続けるわけにもいかない。
行き詰ったそのときに『生きることを諦める』という選択肢はさぞや魅力的に映るだろう。それは容易に想像できる。
「こうして月イチで来てもらっているのも、データ採取だけでなくメンタルケアの意味合いもある」
「そうだったんだ……」
「幸いと言うべきか、小日向のメンタルはかなり安定しているがな」
あの眼鏡君のお蔭かね。
ズズズと音を立てながらコーヒーを啜る雅が呟いた。
確かに、と春も頷く。
和久が来てくれなければ、あるいは和久を拒絶していたらどうなっていたか、あまり想像したくはない。
今ここに自分がのほほんと座っていられるのは、本当に多くの人間の助力の結果であることを実感する。
「復学してからも色々揉めただろう?」
「ああ、うん。でも和久や十和がいてくれたから何とかなったかな」
諸手を挙げて歓迎されたわけではない中学校生活のラストは、ほとんどが和久と十和と行動を共にした記憶しかない。
登下校、授業、休み時間、食事、トイレ、放課後、そして受験。学校に関わるありとあらゆる場面でふたりが春を助けてくれた。
親友として最も傍で春を支えてくれたのは和久だが、女になった春の全てをフォローしてくれたわけではない。
やや唐突感はあるものの、女性として自分と親しくしてくれる十和には、どれだけ感謝してもし足りない。
『ふたりがいてくれなければ』なんて、考えただけでもゾッとする。
「友人に恵まれたな。そういう奴らは一生の宝物だ。大切にしろよ」
「わかってるって」
「あと、感謝はちゃんと言葉にしないと伝わらないぞ」
「わかってるって!」
★
「高校に入学して一月ほど経つが、調子はどうだ?」
「別にどうにも。中学の時みたいに距離を置かれることは減ったかな」
「ま、人間は成長するからな。高校生ともなれば、しょうもないことをイチイチ気にする奴は減るだろうよ」
特に春たちが通う佐倉坂高校は県下一の進学校。
在籍する生徒たちも、それなりにレベルが高い。
十把一絡げだった中学時代とは全然環境は異なっている。
「最近はボッチどころか告白されまくりで、そっちの方がめんどくさい」
「ぜいたくな悩みだ」
大げさに肩をすくめてみせると、白衣の意思は苦笑で返す。
言われるまでもなく理解している。
理解しているだけで、納得しているかはまた別の問題だ。
「雅センセの高校時代はどうだったの?」
「ん? 私か……そうだなぁ、私も学生時代はかなりモテた方だぞ」
「やっぱり?」
元男子としても、現女子としても雅は魅力的な女性に見える。
やや退廃的な雰囲気といい、理知的なまなざしといい、とかく強く印象に残る。
その上、仕事ができて気遣いもできるとあっては、誰もが放っておかないだろうことは想像に難くない。
ついでに言うなら、県下最大の病院のトップの孫娘であり、現在は病院の一部門の長に収まっている。
血筋、財力、名誉、実力。その全てを兼ね備えているスペシャルな存在。今の春の周りにいる人間に例えるなら十和に近い。これでモテない方がおかしい。
「まぁ、女子高だったが」
「ああ、そういうのってあるんだ」
いつの間にか乗り出していた身体から力が抜ける。
なぜかオチがついた。
「あったなぁ」
「漫画の中だけじゃないんだ?」
「『事実は小説よりも奇なり』と言うだろう?」
「なるほど」
漫画と小説の違いはあれど、現実がフィクションを凌駕することはままあるらしい。
世の中は実に奇々怪々にできている。春もTSしなければ全く気付かなかっただろう。
「それで、どうなんだ? 気になる男はいないのか?」
「……別にいないけど」
何となく気恥しくなって視線を雅から外してしまう。
ウソをついているわけではないのだが……『後ろめたい』ともまた違う、どうにも言葉にならない感情が、勝手に春の瞳を動かしてしまう。
そんな春の様子を面白そうに眺めていた雅はフフッと笑い、
「だったら女子はどうだ。女同士も悪くないぞ」
「そっちも別に……」
その発想はなかった。
「なんだ、つまらん」
思いっきり呆れられた。
「センセを楽しませるために学校行ってるわけじゃないし」
などと言いつつも、『言い訳めいているな』と心の中で苦笑していると、
「生き方は自由だといつか言ったことがあったと思うが、別に恋愛を遠ざける必要はないぞ」
「それはまぁ、うん……」
図星を指されて思わず体を震わせる。
恋愛に対して臆病になっているのではないかと思う時がある。
男子に告白されても、それを受けれいてよいのか戸惑う自分がいる。
自分が男なのか女なのか、そのあたりの認識がまとまっていないというか……
身体は完全に女なのだが、心は普通に男だったころの延長である。
何となく男子を恋愛対象として見ることに抵抗を感じている。
告白されても胸がときめかないのは、その辺りに原因があるようにも思えてくる。
春の推測が正しいなら、今後どうすれば恋ができるようになるのか、答えが見えてこない。
「TSしたことで小日向自身も戸惑ってはいるだろう。自分は男なのか女なのか。周りも同じだ。小日向を男として見るか女として見るか、決めあぐねている者もいるだろう」
ひとの心は難しいな。
そう呟きつつマグカップを傾けた雅は、
「だからと言って遠慮することはない。お前はお前の思うが儘に生きればいいんだ。恋も愛も自由にな」
それを支えるのが自分たち大人だと胸を張った。
「私たち医師や小日向の家族、そして友人。お前を受け入れて共に生きる人間は大勢いる」
だから心配するな。雅の言葉に偽りの音色は混じっていない。
医師として、ひとりの人間として春のことを真剣に考えてくれている。
「だったらセンセがオレと結婚する?」
「私か? ふむ……ほかに相手が見つからないのであれば検討しよう」
「即答かよ。冗談だよ」
「ハハハ、冗談で済むことを祈っておいてやろう」
★
「春樹!」
病院を出た春を待ち構えていたその声。
振り返った先に立っていたのは、もはや見慣れた感のある幼馴染。
「和久? お前何やってんの、こんなところで。今日は部活じゃねーのか?」
「気が乗らんからサボった」
「……お前、サボりすぎじゃね?」
最近この親友は同じような言い訳をしきりに口走っている。
ひょっとして部活で何か嫌な目に遭っているのではないかと心配になる。
そう言えば……と美術部のモデルに誘われていたことを思い出す。
せっかくの機会なので、和久が部活に馴染めているかチェックしておこう。
本人の前で口にすると怒りだしそうなことを、胸の奥で隠れて誓う。
「何も思いつかないまま、ずっと真っ白なキャンバスを眺めているのは疲れるからな」
「そういうもん?」
「そういうもんだ」
何となくはぐらかされたような気がしてしまい、ついつい和久に向ける視線に訝しさが混じってしまう。
当の本人の表情は相変わらずの仏頂面で、その内側を窺い知ることはできない。
「ふーん、まあいいけど」
「それで、検査の方はどうだった?」
「別に。異常なしだってさ」
いつものとおりである。このやり取りも何度となく繰り返されている。
春の身体は健康そのもの。医師の問診でも異常は見当たらない。
くー、きゅるるるる
腹が鳴った。
月に一度の検査の日は、朝食を抜いている。
そのまま長時間の拘束があり、雅との面談の際に口に入れたクッキー程度では、健康な高校生の肉体に求められるエネルギーを補給することは叶わない。
ごく自然な生理現象として、春の身体は栄養を欲している。
「ラーメン食ってくか?」
「……おう」
ふたりで並んで駅前に向かう。顔が熱い。
春の前に広がるのは『小日向 春樹』と『江倉 和久』だったころから変わらない光景。
『小日向 春』と『江倉 和久』になっても変わらない光景。
これまでも、そしてこれからも……
見上げた空は青くて高く、遠くに向かって伸びていく一筋の飛行機雲が純白の線を描いていた。
これにて『突発性遺伝子変異症候群』は終了となります。
お読みいただきありがとうございました。
そして、ここまで読んでいただいた皆様にご報告があります。
何と……
ストックが切れましたm(__)m
次の話は現在執筆中でして、今後は書き貯め→掲載→書き貯め→掲載……の繰り返しになるかと思われます。
相も変わらずスローペースではありますが、これからも応援いただけましたら幸いです。