第14話 突発性遺伝子変異症候群 その7
「おはよう、春樹……じゃなくて春。……春?」
和久は春の姿を見るなり朝の挨拶をしたが、同時に首をかしげている。
春の名前が法的に変更されたことを知ってはいても、まだ慣れていないようだ。
クソ真面目な和久のことだから、ここに来るまでにきっと何度も練習しているはず。想像したら何となく笑えてきた。
当の和久は、微笑む春を前に何度も眼を瞬かせている。自分の視界に入っている春の姿を確認しているようにも見える。
「……呼び方は『春』でいいんだよな?」
「なんでもいーよ」
和久に『春』と呼ばれた瞬間、胸の奥に痛みが走った。
思わず顔を顰めてしまったせいか、春の顔に目線を固定していた和久が眉をピクリと動かした。
春は咄嗟に呼び名について誤魔化すことにした。
「おはよう和君。悪いけど……春のこと、どうかよろしくね」
「いえいえ、いつものことですから」
しっかりと頭を下げる母親にそんな返事をしている。
春の表情の変化に気付いても、あえて追及する様子はない。
あくまで春から言い出すまで話題にするつもりはないということか。和久らしいと思う。
それはともかく――
「何でオレじゃなくって和久に言うんだ?」
「お前が頼りないからだろう」
「はっきり言うなぁ」
この親友、容赦がなかった。
★
通い慣れた通学路も、TSしたせいか以前とは異なる景色に見えてくるから不思議だ。
実際に身長が10センチほど縮んでいるから、視線の角度がズレてしまっている。
病院でもリハビリしたものの、日常生活への復帰までにはいくつもの違和感をクリアしていかなければならない。
「それにしても……変わったなぁ、お前」
歩道の右側を歩いていた和久が、しみじみとそんなことを口にする。
前にも同じ言葉を聞かされた気がする。
「そうか?」
「ああ、可愛らしくなった」
「……おい」
つい口走ってしまったからだろうか、和久は歯に衣着せずに話しかけてくる。
ふたりの関係を鑑みれば当たり前ではあるのだが、『可愛らしい』なんて親友に言われたい言葉ではない。
しかし、よくよく考えてみれば和久が感心するのも無理はない。
ロングストレートの黒髪も、ノーメイクでナチュラルに長いまつ毛をはじめとした顔立ちも、そしてグラビアを飾りそうなナイスバディもこの男の好みのど真ん中だ。
以前徹夜で語り合ったエロ談義で、互いの性癖はすっかり筒抜け状態になっている。
「お前、オレを見て変な気を起こすんじゃねぇぞ」
「さすがにそこまで警戒されるとショックなんだが」
身体を抱きしめるように距離を開くと、親友は困った表情を見せた。
――冗談だよな、さすがに。
和久を信用する……ことにする。
見た目は美少女に変貌したものの、中身はガキの頃からずっと一緒だった『小日向 春樹』のまま。
いきなりエロい目で見られることには抵抗がある。多分お互いに。
「そう言えば、学校の連中はもう知ってるのか?」
話題を変えようとしたのか、唐突に和久が尋ねてくる。
少し考えてから――
「さあ、オレは何にも言ってない。学校にも行ってないから、この姿を見た奴は居ないんじゃね?」
手続きはすべて両親がやってくれた。春は何もやっていない。土日はずっと家に引きこもっていた。
和久をはじめとする友人とも、スマートフォンで連絡を取りあったりはしていない。
彼らはそもそも病院に尋ねてきたりもしなかったし……正直なところ、今の今まで忘れていた。
TS前から親しく付き合っていた連中には、あらかじめ伝えておいた方が良かったかもしれない。
今さらながらではあるが……新しい生活を始めるのなら、それなりに準備をしておくべきだったと後悔する。
「今のオレを見たらびっくりするだろうな」
「……そうだな」
ニシシと笑う春の隣りで、和久が何とも言えない表情を作っていた。
★
久々の学校は驚愕の連続だった。驚愕しているのは春ではない。
これまで女っ気のなかった和久の隣りに美少女(春)が歩いていることが、まず注目を浴びた。
案内された職員室で担任と顔を合わせたら驚かれた。
そして、数か月ぶりの教室――
「えー、と言うわけで夏ごろから入院していた小日向が今日より復帰することになった」
教壇から生徒に語り掛ける担任教師の声を、教室の誰も聞いていない。
みんなの興味は教師の隣りに立つ女子――つまり春に集中している。
「……あれが小日向!?」
「TSしたってマジかよ!? 俺たちもまだ安全じゃないってのか」
「めちゃくちゃ可愛い。おっぱいでかい!」
「でも小日向君よ」
「だが、それがいい!」
春を見たクラスメイトの反応は実に様々なものであった。一部聞き捨てならないものもあるが……
教室の中は騒然として収まりがつかない。
それでも担任に促されて春が口を開くとなると、サッと一同は静まり返った。
「えっと、小日向です。長い間入院してたけど、やっと退院して学校に来られるようになりました。残り短い学校生活だけど、よろしくお願いします」
そう挨拶してから頭を垂れるも――ノーリアクション。
何かミスをやらかしただろうかと床を見つめながらヒヤヒヤしていると、唐突に拍手が鳴り響いた。
窓際の一番後ろの席。和久だ。むすっとした表情を浮かべたまま両手を打ち鳴らしている。
少し遅れて、他の生徒も和久に続いた。あっという間に教室は歓迎(?)の拍手で満ち満ちてゆく。
「じゃあ、小日向の席は江倉の前で良いか?」
「あ、はい」
咄嗟に頷いてしまったが、和久の傍が一番安心することは確かだったので断る必要はなかった。
席に向かう途中で、ガタリと誰かが立ち上がる音がした。和久の右斜め前の席。
春の前に立ちはだかったのはひとりの女子。
同じ黒髪のロングストレートなのに、彼女の髪は輝きを纏っているように見える。
整いすぎと言っても過言ではない、どこか人形じみた顔立ちが眩しい。
クラス委員にして久瀬川中が誇るナンバーワン美少女。撃墜王『十束 十和』であった。
常日頃はあまり表情を載せることはないその顔は、今や大きく目が見開かれ、わなわなと唇を震わせている。浮かんでいる感情は――驚愕。
両親や和久ほど親しい相手ではないにしても……その表情は地味に効く。以前に両親から負わされた心の傷は、まだ完全には癒されてはいないのだ。
その整った顔をじっと見つめていると(以前はそんなこと畏れ多くてとてもできなかった)、ハッと何かに気付いたらしい十和は、慌てて表情を取り繕う。
初めて見たかもしれない十和の素の表情に、あっという間にクラスの委員長あるいは優等生の仮面が被せられる。
とは言え完全に感情を隠しきることはできていなかった。微かに潤んだ瞳と、うっすらと紅潮した頬は、直視することに罪悪感を覚えるほどに美しい。
「退院おめでとう。小日向君……小日向さん?」
透き通るような声をかけられてドキッとした春に、すっと差し出された十和の白い手。
何が起きているのか理解できない。ただのひと声で意識を持って行かれて、軽いパニック状態に陥ってしまった。
硬直から脱して唾を飲み込み状況をチェックしていくと……握手を求められていると気が付いた。春はスカートで拭った自分の手のひらを恐る恐る重ねる。
十和はそんな春の一連の仕草に軽く眉を寄せたものの、特に咎めるようなことはしなかった。
初めて握った十和の手は少し冷たくて、滑らかな肌触り。思わず手のひらを握りしめてしまう。
久瀬川中の男子全員が憧れるその感触は、『小日向 春樹』にとっては永遠に届かなかったもの。
「ありがとう。えっと、これからよろしく」
「ええ。わからないことがあったら何でも聞いてね」
十和の表情に柔らかい笑みが浮かぶ。戸惑い気味の他の生徒とは異なる、純粋な歓迎の笑み。
それが『十束 十和』との初めての会話であったことに気付いたのは、家に帰ってからのことだった。
★
『小日向 春樹』改め『小日向 春』の学校生活は順風満帆……とは言い難いものだった。
復学してからしばらくの間は、休み時間のたびに机を囲まれて質問攻めに遭った。
彼らは今頃になってTSした春を心配しつつも、自分が同じ目に合わないかどうか何度も何度も問いかけてきた。
春の心配をしているように見えるが、実際のところ彼らは誰よりも自分のことを心配している。そんなことは一目瞭然。無理もない。春だって逆の立場なら彼らと同じことを考えるだろうから。
人に物を教えるのは得意ではなかったが、雅に習った知識をたどたどしく披露すると感嘆のため息とともに称賛を受けた。学校では教えない保健体育TS編である。
興味を持った生徒の中には、春の話を聞いた後に自分で図書館なりインターネットで調べ始める者も現れた。身近な事例を見て学習意欲が刺激されたようだ。
入院中に雅とシミュレーションした限りでは、TSが原因でクラスメイトをはじめとする周囲の人間との関係が悪化する可能性も検討されていたが、幸いなことにその手の問題は起きなかった。
それでも、和久を除く以前からの友人とも、他のクラスメイトとも微妙に距離が開いてしまったことは否定できない。ネガティブな意味ではなく、互いにどのように接するのが正しいか、測りかねているといったところ。
体育の時間も困った。女子が春と一緒に更衣室を使うことに難色を示した。
今でこそ見た目は女子になってはいるものの、元は男子だった春の視線が気になるのだと言う。
こちらの問題については、春も『わかるわ』と納得せざるを得なかったので、特に反論はしなかった。
だからと言って男子と一緒に着替えるわけにもいかず、最終的に教員用の更衣室を借りることになった。
卒業まであまり時間がなく、体育の授業もそれほど多いわけでもない。久瀬川中には春以外のTS経験がある生徒はいなかったし、そういう生徒が大挙して入学する予定もなかった。当座をしのげば問題はなかろうという判断だった。
更衣室の件に限らず不自由を覚えることはなくもなかったが、そんな春の近くには――常に和久がいた。そして十和の姿もあった。
「小日向さんはどこからどう見ても女子なのに、ひとりだけ更衣室を使えないなんて……」
春の代わりに憤然とする十和を宥めることが増えた。
体育の授業の時は十和がずっと傍に居てくれた。
ペアを組めと言われれば、十和が組んでくれた。
男子と一緒に体育を受けるわけにはいかない。和久を当てにできないこの時間、十和の存在は春にとってありがたいことこの上なかった。
「十束がいてくれるお蔭で、助かっているな」
和久も、そう認めている。
いつの間にか、春を中心に和久と十和の3人でグループを作って行動することが多くなった。
復学当初に比べればほかのクラスメイトも落ち着いてきたとはいえ、完全に元どおりと言うわけにはいかない。
卒業まで時間もなく、関係を修復するところまでは至らなさそうであった。
「あ、ああ」
自然体で語り掛けてくれるふたりの存在が、春にとってどれほど心強いものだったかは言葉にできない。
ただ、親友の和久が傍に居てくれるのはわからなくもないが、十和が何を考えているかはいまいちピンとこない。
TSする以前にはほとんど関わりのなかった相手なのだ。同じクラスではあったものの、一度も会話したことがなかった。
『十束 十和』は同じ教室に籍を置いていても、どこか遠くの世界の住人なのだと認識していた。
それは、春以外のクラスメイトもきっと同じ。十和は孤高の存在だった。
名家のお嬢様にして文武両道、容姿端麗。教師と言わず生徒と言わず絶大な支持を集めている女子。
誰とでも分け隔てなく関わる反面、誰とも深く付き合うことはない。
数多の告白を退けている件は、もはや伝説になっている。
そんな十和が春を気にかけてくれる理由が思いつかない。
「十束は、どうしてオレに良くしてくれるんだ?」
一度、そう問いかけたことがある。
十和は少し困った顔をして、言葉を探しているように視線を宙に彷徨わせて――
「誰かと仲良くなるのに理由はいらないと思うけれど」
そんな風に宣わった。
十和の言い分は至極当然のものではあったが、何かを隠しているようにも感じられた。
TSしてから(正確には両親の一件があってから)人の表情や感情について意識するようになった春は、そこに些細な違和感を捕えた。
それでも十和から悪意は感じられなかったし、いつか時が来れば話してくれるだろうと自分を納得させた。
せっかくの仲良くなった大切な友人との関係を自分から破壊するような真似はできなかった。
なお……十和とはそれからずっと親しい付き合いが続いているが、この謎についてはいまだによくわかっていない。