第13話 突発性遺伝子変異症候群 その6
和久がやってきた日の翌日から、春樹はリハビリに熱心に取り組むようになった。
一日でも早く復帰するためである。両親の件で放心してからの遅れを取り戻すためでもある。
なお、当日は喜びのあまり熱を出し、和久の前でぶっ倒れてしまい、そのまま眠ってしまった。
もともと体力の低下以外は特に異常のない身体だったせいで、気合が入ってからは見る見る間に身体機能を回復していった。
それと同時に、雅によるマンツーマンの授業も開始。
TS時に倒れてからかなり時間が経過している上に、中学3年生の春には高校受験がある。
和久は地元一の進学校である佐倉坂高校を第一志望にしており、春樹も同じ学校を希望することにした。そこまではいい。
問題は……学校ではサッカー部での活動を中心とした生活を送っていた春樹の残念な成績であった。
希望進路を雅に告げた翌日に行われた実力テストの結果は目を覆わんばかりの有様。
真顔で高校浪人の可能性を告げられ、春樹は頭を抱えて絶叫した。
間違っても和久を『先輩』などと呼びたくはないのだ。目指すは現役合格。だったのだが……
「日本はTSに対する支援が充実してるって言ってたじゃん!」
「TS受け入れ態勢が整っている私立ならともかく、公立を第一志望にするなら実力で合格しないとどうにもならんぞ」
「マジかよ!」
叫んだところで現実は変わらない。辛くも嬉しいリハビリと地獄のような勉強の日々が幕を開けた。
日を置かず顔を見せる両親を遠ざけることもなくなった。
前向きに生きると決めた時から、両親に対する引け目のような感情も嘘のように消え去った。余計なことを考えている余裕がなくなったとも言う。
ポジティブに接してくる息子(娘?)に感化されたのか、小日向夫妻も徐々に新生した自分の子どもを受け入れることができるようになってきた。
まだ以前のとおりとまではいかないものの、一時のような危機的状況は無事回避することができたと言って差支えはなさそうだった。
そして――退院。良く晴れた11月の末日であった。
「今までよく頑張ったな」
「雅センセにはお世話になりっぱなしで、何とお礼を言えばいいのやら……」
「気にするな。これからも何かあったらすぐに連絡しろ」
入院中に春樹と雅は連絡先を交換していた。
朝から晩まで24時間、気になることがあったら相談に乗ると言われている。
「なんでこんなに良くしてくれるのか、わかんないんだけど……」
「私は医者でお前は患者、それで納得できないか?」
「う~ん……」
これまであまり医者にかかった経験のない春樹だったが、素直に頷くことはできない。
微妙な疑念が表情に出ていたか、雅は気だるげな雰囲気のまま苦笑を浮かべた。
「種明かしをしておくと、小日向のような第二次性徴期以後のTS事例は非常に少ない。これからも定期検診でデータを採ることを考えれば、多少の融通は、な」
春樹はこれからも月に一回は病院に訪れ、様々な検査を行うことになっている。問診は隔週でいずれも土曜日。
TS後の身体変化については未知数なことが多く、特に春樹は貴重なサンプルであるという。身も蓋もなかった。
おかしな薬やら実験に付き合う必要がない分、モルモットと呼ばれるほど酷い扱いではないらしい。
タダで健康診断してもらえると前向きに考えることにする。そうとでも思わないと、土曜日を潰されまくるのは結構しんどい。
「まぁ、いいか」
「それで、新しい名前にはもう慣れたか? 『小日向 春』ちゃん」
「ちゃん付けは止めてくれよ」
露骨に嫌そうな表情を浮かべると、雅はニヤリと笑った。
冗談のつもりだったらしい。真顔で言うのは止めてほしい。
社会復帰のためのリハビリや勉強を進める一方で、TSした春樹の新しい人生のために様々な手続きが並行して行われた。
名前もそのひとつ。春樹の名前は『小日向 春樹』の『樹』の字を取って『小日向 春』に変更されている。
これは役所にも書類が提出・受理されており、正式な変名である。
「別に女で『春樹』でもダメってわけじゃないと思うんだけど……」
「日本で『春樹』と言うと、某有名小説家が想起されてしまうからなぁ。男性名のイメージが強すぎる」
名前は個人を顕わす重要な記号だ。これを変更するかどうかは入院中に何度も面談を繰り返して決定した。
インターネットで検索してみたところ、女で『春樹』という名前がダメと言うわけではないらしいのだが……
検索結果は某小説家、出版社社長(いずれも男性)、そしてラーメン屋。そこに女になった自分の姿が連なることに違和感を覚えざるを得ない。
最終的には直感に従った。この美少女然とした外見に『春樹』と言う字面や音の響きがしっくりこなかった。
それでも生まれた時からずっと付き合ってきた名前に対する愛着もあり、元の名前から一文字削るだけにとどめた。
「いっそのこと、男でも女でも使える名前だったらよかった」
「生まれた瞬間の段階では将来TSするかどうかはわからんから、それはどうしようもないな」
君が子供を産むときは考えておくといい。
そんなことをつけ加えられてドキッとする。
「こ、子供って……」
春樹もとい春は服の上から自分の腹を押さえた。
そこにはかつてなかった子供をつくる器官が存在する。
検査の結果、機能は正常であることが確認されている。
つまりは……そういうことだ。
「まぁ、人生は自由だ。どんな風に生きるかは自分で考えるがいい」
★
数か月ぶりに返ってきた自分の部屋。
足を踏み入れて最初に感じたのは――匂い。
「臭い」
「アンタがいない間もちゃんと掃除してたのに、その言い草はないんじゃない?」
苦笑する母親。以前のようにギクシャクした間柄ではない。
しかし何故だろう。きれいなはずの自分の部屋の匂いが気になって仕方がない。
「週明けから学校でしょう? そんなに気になるなら自分で掃除しなさい」
「いや、別にそう言うわけじゃ……」
『冗談よ』と笑いながら母親は部屋から離れていった。
息子……ではなく娘の復学を目前として、親にはいろいろとやらねばならない事があるらしい。
ひとり取り残された春は、荷物を放り出しトスンとベッドに腰を下ろす。
懐かしの自室。その光景は以前とはわずかに異なっている。春の身長が縮んだせいだ。
巨人の部屋に迷い込んだ……は言いすぎだが、全体的にスケール感が合わない。見慣れたはずの天井が高い。
これからこの部屋で再び過ごすようになれば、いずれ慣れてくるのだろう。
「そう言えば、確かここに……」
ふと思い出したことがあった。
ベッドの下の棚を開け、中を弄っていると……手に感触。
「あったあった、これこれ」
引っ張り出してきたのは――エロ本であった。
倒れる寸前に購入し、結局一度も中を見ることなくベッドの下で眠り続けていたお宝。
ページを開くと、そこに広がっていたのは『小日向 春樹』の嗜好にあった美少女たちの露わな姿の数々。
「うんうん……うん?」
ページをめくる手が止まる。
「……なんか違うな」
首をかしげる。
そのまま空いた左手を両脚の付け根に持って行っても……特に反応はない。
春の思考は『小日向 春樹』だったころと変わっていないはず。
ゆえに春の嗜好も変わっていないはず。
現にカラフルに紙面を彩る美少女たちは正しく春の好みに合致しているのだ。
しかし身体は何の反応も示さない。これは一体どういうことだろう?
「う~ん、これは……」
雅に相談すべきか?
スマートフォンを片手に悩んだのはほんの一瞬。すぐに端末を枕元に放り出す。
「さすがに退院早々こんなことを聞くのはマズいだろ」
『楽しみにしていたエロ本を見ても何も感じません。どうすればいいですか?』
長い時間をかけて築き上げてきた信頼関係が瓦解しかねない質問であった。
普通にセクハラと取られても文句は言えない。
「こういうの、誰に聞いたらいいんだろう?」
心の底からの疑問であった。
心の底から、どうでもいい疑問でもあった。
★
バタバタとした週末はあっという間に過ぎ去り、いよいよ春の復学する日がやってきた。
復学先は春の希望どおり。もともと通っていた久瀬川中で、クラスも同じ3年1組。『小日向 春樹』だった場所に『小日向 春』として復帰することになっている。
自分で決めたことながら、緊張しないと言えばウソになる。昨晩はなかなか寝付けなかった。おかげで朝になってあくびが止まらない。
身に纏っている制服は男子用のそれではなく女子用。スカートの裾から入ってくる空気の冷たさに驚き、黒タイツを履いている。胸元が結構きつい。
鏡の前でくるりと一回転すると、ふわりとスカートが舞う。朝一でシャワーを浴びて身づくろいはしっかり整えている。準備は万全だ……万全のはずだ。
入院中に女子のアレコレについてもレクチャーを受けはしたのだが、いざ実践となると女子の朝準備がどのようなものかイマイチ理解が及んでいない。実践が足りなさすぎる。
――こういうの、誰に聞けばいいんだ?
それこそ雅の頭脳を頼るべきだろうか。
しかし春が聞いたところ雅の年齢は(自主規制)歳。
中学生とは感性が噛み合わない気がする……
「学校に付き添わなくて大丈夫?」
「別にいいって、さっさと仕事に行ってきなよ」
心配そうに追いすがってくる母親を軽くいなす。
ただでさえ小日向夫妻は春の入院中に頻繁に病院に顔を出していたのだ。当然仕事は休んでいる。
これ以上春がらみで休みを取らせることは気が引けた。職場での両親の心証が悪くなるのも困る。
「和久が迎えに来てくれることになってるから、心配ないって」
「そうね。和君なら安心ね」
自分の子どもより他所の子どものことを信頼するさまを見せられてモヤっとする。
無論冗談であることはわかっている。
(冗談だよな?)
母親の顔を覗き込んでみるも、表情はいつもと変わらず。
春を信頼しているのか、和久を信頼しているのかどうにも判断しがたい。
余計なことを考えるのは止めよう。この疑問を突き詰めてもロクな結果にならない。春は早々に思考を放棄した。
雑念を放棄すべく頭を軽く振るのと同じタイミングで、ドアのチャイムが鳴った。
――時間だ。
気合を入れるため、春は両手で挟み込むように軽く頬を張って玄関に向かう。
ドアを開けると、そこに待っていたのは背の高い男子。幼馴染の和久だった。
見慣れた(筈の)和久の顔が、やけに頼もしく感じられた。