第12話 突発性遺伝子変異症候群 その5
毎日病室に足を運ぶ両親を遠ざけ、気力も活力も失った春樹。
どうすればいいのかわからないまま、もうどうにでもなれと放り投げることもできないまま、ただ時間だけが過ぎてゆく。
もどかしくも億劫な気持ちを抱えたままの、そんなある日のこと、
「そう言えば、小日向の友人が面会を希望しているのだが……」
両親を会わせた時の春樹のショックを思い出しているのだろう、雅の声に躊躇いを感じる。
自身の判断を悔いているようにも見受けられる。
「友人……って誰?」
「ああ、江倉君だったかな。眼鏡をかけた背の高い少年だ」
とりあえず、今日のところは帰ってもらったが。
そう続けた雅にぼんやりとした眼差しを投げる。
靄がかかったような頭の片隅で、久しぶりに耳にしたその名を反芻する。
「……和久か」
『江倉 和久』は『小日向 春樹』にとっての幼馴染。幼稚園の頃からの長い付き合いになる。
腹を割って語り合える親友……だった。互いの趣味嗜好から性癖まですっかり把握してしまっているほどの。
江倉家に泊まって、和久の部屋でエロ本談議に花を咲かせた日々が懐かしい。
正直に言えば、会いたい。
だが……
TSして初めて両親に再会した日のことを思い出さずにはいられない。
自分たちの子どもの姿を見て驚愕に目を見開いた両親の姿を。その姿から想起される心の内の動揺を。
もし一番の親友である和久に、あんな顔をされたら……想像しただけで怖気が走る。
喉が震える。しかし声は出ずヒューヒューと空気だけが出入りしている。
つい先日、過呼吸で倒れたばかりである。精神的なダメージがことさらに大きかったらしい。
そんな様子を見かねたのか、雅は少し異なる切り口の話を持ち出してきた。
「『会わない』というのも選択肢のひとつだ」
「……そうなの?」
「ああ」
そう前置きしてから雅が語り始めたのは、春樹の社会復帰プログラム。つまり『小日向 春樹』のこれからについて。
通常のTSの場合は、そもそも性転換までに1年近い期間が事前に存在し、その間に身の振り方をあらかじめ決めておくことが多いらしい。
ただ、TSはもともと発症する年齢が小学校低学年から高学年までの間であることがほとんどであり、あまり春樹の参考にはならないかもしれないとのこと。
発症者の大半は依然と同じ場所に戻って社会に復帰すると雅は説明を続けた。
「小日向の場合は、彼らより年齢が上になる。自我が強固に確立されている状態での性転換は、自身だけでなく周囲との軋轢を生む場合がある」
近年の国内においては第二次性徴期以後の性転換の事例も、そして生存している事例もほとんどない。
参考になりそうなサンプルは見当たらないが……それでも家族、友人、近隣の人づきあいなど、多方面でのトラブルが想定される。
今までは意識が回っていなかったが、将来の人生設計についても大幅な変更を余儀なくされるだろう。前途多難という他ない。
「事例そのものはほぼ皆無ではあるが……これまでの資料を紐解く限りでは、元のとおり生活を再開する以外にも、誰も自分のことを知らない土地へ移り住むという方法も考えられる」
「それは……無理だ。うちはまだローンが残ってるって言ってたし」
自分の口から零れた言葉に両親の顔が思い出され、胸が締め付けられるような苦しさを覚える。
たとえ息子と認識してもらえなくなったとはいえ、家族というものに対する漠然とした愛着は存在する。
両親が冗談交じりに家のローンについて語り合っていたのは……あれはいったいいつの頃だっただろうか。
何気ない日常の中で、ふと漏らされた両親の言葉が思い出される。いまだ中学生の春樹にはイマイチ理解が及ばない内容であったから聞き流してしまった。
いずれにせよ……春樹ひとりのために、小日向家の家計を極端なまでに圧迫あるいは破たんさせるような選択肢は選べない。
だが、春樹の懸念は想定済みと雅は小さく笑う。
「そうでもない。お前、中三だろ? 全寮制の高校に進学するって手がある。TS関連の場合、国から補助金が出るから心配はいらん」
「マジで?」
「ああ。日本は世界でもトップクラスのTS先進国だからな。TSに対する支援はかなり手厚い」
「そっか……」
「よそへ移って新生活をスタートさせる道を選ぶのであれば、地元の知り合いに今の自分の姿を見せる必要もない」
「……そっか」
雅の言葉を聞きながら、自分の身体を見下ろす。
艶を帯びた白い肌。豊かに膨らんだ胸の双丘。
枕元の鏡に映るのは、誰もが羨む美少女の容貌。
『小日向 春樹』と連続しない、どこか他人のような今の自分の姿。
別に恥じるものではない。しかし今まで『小日向 春樹』と親しくかかわってきた者たちに、女になった自分の姿を見せることには、いささかばかり戸惑いがある。
この姿を誰にも見せることなく、知られることもなければ、トラブルを起こすことなく全く新しい人生をスタートさせることができる。その言葉には抗いがたい誘惑が潜んでいる。
……でも……
「会いたい」
言葉が口を付いた。
胸の内から本音が溢れた。
寂しい。寂しい……寂しい寂しい寂しい寂しい。
何にも悪いことはしていないのに、なんて自分がこんな目に合わなきゃならないのか。
人の目を避けるように姿を隠さなければならないのか。辛い。理不尽だ。悲しい。
両親とだって、このまま別れるなんて絶対嫌だ。帰りたい。慣れ親しんだ自分の家に。
戻りたい。今まで何気なく過ごしてきた日常に。失ってから初めてその尊さに気付かされた。否……まだ失ってはいない。
「会いたい。みんなに会いたい……」
「なら、会ってみるか?」
その声は穏やかで優しかった。
まるで母が娘に掛けるような、そんな声色。
「……うん」
★
数日後の夕方、ぼんやりと窓の外を眺めていると、『和久がやってきた』とドアの向こうから雅が告げてきた。
胸に手を当てる。心臓がバクバクと鼓動を打つ。ポンコツか。
これまでにないほどの緊張が全身を苛む。口の中はカラカラで、思わず何度も唾を飲み込む。
顔が紅潮し熱を持つ。視界がグラグラと定まらず明滅を繰り返す。吐き気を覚える。
空調は完璧に制御されているというのに、シンプルな造りの病院服の下は汗がダラダラと流れている。
驚愕に見開かれた両親の顔が脳裏に蘇り、心と身体が悲鳴を上げている。
――落ち着け、落ち着け、オレ!
大きく息を吸い込もうとして――むせた。
ゴホゴホと咳き込んでいると、『小日向、大丈夫か?』などと雅の声が聞こえてきた。
まだ和久と顔も合わせていないというのに、この体たらく。
春樹自身、自分で自分に『大丈夫か?』と問いかけたくなる。
「だ、大丈夫……開けてくれ」
そう伝えると、ゆっくりとドアが開かれる。前回よりも控えめに、ゆっくりと。
もはやすっかり見慣れてしまった感のある雅の横に、長い付き合いになる背の高い男子がひとり。
和久。親友の和久だ。幼馴染の腐れ縁、親友の顔は――春樹を見て、驚愕に目を見開いている。
「あ……」
胸がキュッと締め付けられる。両親と再会した初めての日の、あの忌々しい記憶が脳裏にフラッシュバックしかけた、ちょうどその時、
「お前、ほんとうに春樹なのか?」
久々に耳にした和久の声がひどく懐かしく思える。
恐る恐ると言った風ではない。ごく自然に口を付いた純粋な疑問だった。
身体の不良が発症する前に、口が勝手に動いた。
「ああ、他の誰に見えるってんだ?」
「誰って……お前、マジか……マジなんだなぁ。原型留めてないぞ」
あまりにもあっけらかんとしたド直球だった。
普段はもう少し気づかいのできる人間だったと思うのだが……驚きすぎて言葉をオブラートに包むことができなくなっているようだ。
和久の横に立つ雅の顔が険を増す。あの日の繰り返しを危惧しているのだろう。
春樹は和久を見ていられず、膝の上で組み合わせた両手をもじもじさせながら、視線を宙に彷徨わせた。
左右の手を解き、意味もなく頭の後ろを掻いたり頬をポリポリと掻いたり。完全に挙動不審であった。
その間に和久は室内に足を踏み入れ、ベッドの傍までやってきた。背後ではドアを閉めた雅が厳しい支援をその背中に送っている。
お見舞いと思われる果物籠(中に後で買い足したと思われるチョコレートが目立っていた)を枕元の棚に置き、椅子に腰を下ろす。さらに顔を近づけてまじまじと春樹を見つめてくる。
「あ~、その、とりあえず無事で何よりだ」
「ああ、まあ……無事っつーか、無事だな。死にかけてたらしいし」
「マジか!? 聞いてないぞ、そんな話」
「生存率10%だったんだってよ」
「うわぁ」
ドン引きされた。
しかし、他にどう言えばよかったのだろう?
あらかじめシミュレートしていたストーリーはとっくに頭の中からどこかに行ってしまった。
『照れくさい』と似て非なる感情に突き動かされて、春樹は後頭部を掻き続ける。
艶やかな黒髪に覆われた頭部は滑らかな手触りを返してくる。頭皮は柔らかい。
「……いや、すまん。まさか、そんなことになってるとは……」
「気にすんなって。今はすっかり元気だぜ。毎日ここで検査してもらってるしな」
強がりのピースを作って和久の鼻先に突き付ける。
和久の後ろでは、雅が何とも言い難い表情を浮かべている。
両親が初めてこの病室を訪れて以来、春樹の体調は思わしくない。
「念のために聞いておくが、本当に大丈夫なんだろうな?」
「大丈夫だっつってんだろ」
そう答え、ピースを崩して頬を掻きつつ視線を逸らす。
余計なことを口にして、あまり親友を心配させたくない。
強がりに過ぎないと自覚していても、譲れないモノがあるのだ。
幸いと言うべきか、和久はそれ以上突っ込んでは来なかった。
ただ、何か探るような目つきを春樹に向けてくる。疑念を隠そうともしていない。
後ろ暗いところのある春樹としては、どうにも背中がムズムズしてくる。
和久の視線を躱わしながら、やや空々しい会話を続けていると、
「しっかし、何から何まで変わっちまったなぁ……けど、春樹なんだなぁ」
「え?」
しみじみと吐き出された和久の一言が耳に引っかかり、思わず聞き返した。
和久の言葉は、前後で脈絡がなかった。
「オレが、オレだって?」
「お前、何言ってるんだ?」
シルバーフレームの眼鏡の奥で訝しげに眉を顰める親友の姿がもどかしい。
元々冷静で物事に動じない男ではあったが、今この時はその性格を恨めしく思う。
これは――問い詰めずにはいられない。
「いいから、オレが何だって!?」
「おいおいおいおい」
身を乗り出して和久の両肩を掴み、前後に揺らす。
それはもう力一杯に。腕が痛くなるくらいに。
しばらくされるがままになっていた和久は、
「いや、見た目は別人に変わっちまってるけど、後ろめたいことがあるときの視線の逸らし方とか、手元の癖とか。そういう所は変わってないなってさ」
「癖?」
問い返した春樹の言葉に、『ああ』と和久は頷いた。
「声までマジで女子なのな。でも喋りも春樹のまんまだ」
違和感だらけだけど、なんか安心した。
そう続けられた言葉が耳朶を打った。
限界だった。
冷静を装っていた(装えていたわけではない)顔はクシャクシャに。
眼前の親友に泣き顔を見せたくなくて、とっさに俯いて視界から隠す。
失われていた気力が、体力が胸の奥から湧き上がってくる。
「あ、おい、春樹!?」
両目から零れ落ちる熱い涙が頬を伝う。止まらない。止められない。
医師だけでなく両親すら気付いてくれない『小日向 春樹』を覚えてくれている親友がいる。
ただそれだけのことが、こんなにも嬉しいなんて。こんなにも心強いなんて。
和久が親友でよかった。自分の傍に居てくれてよかった。感謝の思いが黒目がちな瞳から、桜色の唇から形にならないまま零れてゆく。
胸の奥から湧き上がるそのままの感情を、言葉を紡ぐ。心からの言葉、真実の言葉を。
「雅センセ」
「ん、どうした、小日向?」
「オレ、この街がいい。元の場所に還る。絶対に」
「……そうか」
「えっと……どういうことだ?」
キョトンとした和久に『何でもねーよ』と誤魔化した。
TSしてから今まで頭のどこかにくすぶり続けていた想いが融けて消えていく。
双眸から涙を溢れさせながら、雅の言葉に何度も頷く。
溢れて流れ落ちる透明な輝きが、ベッドのシーツに染みを創っていった。