第11話 突発性遺伝子変異症候群 その4
TS直後の春樹は指一本動かせないほどに疲弊していた。
しかし身体は衰弱してはいたものの、どこも異常は見当たらない。
基本的には健康的な若者の身体である。点滴を外し、三食しっかり栄養のある食事をとっていれば、少しずつでも体力は回復してくる。
体力が回復してくれば、ずっとベッドに寝っ転がっているだけの生活は退屈極まりない。
さらに言えば、風呂やら下の世話まで看護師の世話になっているのは何となく気恥しい。
年頃の女子もとい健全な中学生男子としてごく普通の発想であった。春樹は雅にその旨を伝え、松葉杖を使う許可をもらった。
「くれぐれも無理はするな。体力は戻ってきていても、身体はまだ動くことに慣れていないのだからな」
雅はあまりよい顔をしてはいなかった。彼女は春樹に対してやや過保護な節がある。
何はともあれ経過は良好で、介助無しでも短時間なら(手すりや松葉杖を使ってではあるものの)病院内を歩き回ることができるくらいに復調を果たしたある日、毎日の検診が終わった後に、雅から両親との面会について相談された。
もちろん即座に了承した。
小日向家は両親と春樹の三人家族。これまでの春樹は部活に専念するあまり学業を疎かにしがちであり、その点で両親と喧嘩になったことはあるものの、基本的に家族仲は悪くない。
学校で倒れてからもうすぐ2か月が経過するが、その間一度も両親とは顔を合わせていない。『寂しい』などと口にすることはなかったが、『会いたい』と言う気持ちは強く持っていた。
そんな春樹に対して『わかった。日程を調整する』と答えた雅の顔に陰りが見えたことに、この時の春樹は気づかなかった。
面会は5日後の日曜日に設定された。春樹の両親は共働きで平日に休むことは難しい。それでも一人息子のことを思えば有休を消化することは可能ではあっただろうし、実際両親は即日の面会を希望していたが、そこまで気を遣わせることもないと春樹の側からあらかじめ断っていた。
いきなり入院してしまって、ただでさえ心配をかけているのだ。これ以上負担になることは避けたかった。
そして――いよいよ面会の時間。
シャワーを浴びて身づくろい(家族と会うだけなのに、若い看護士がやたらとうるさかった)を整えていると、春樹に与えられていた個室のドアがノックされ、雅の声が部屋の外から聞こえてくる。
「ご両親をお連れした。大丈夫か?」
「ああ、問題ない」
春樹の返事と共にゆっくりとドアが開かれた。そこに立っていたのはまごうことなき春樹の両親。2か月ぶりではあるが、少しやつれている点を除けば記憶にある姿とどこも変わりはない。
胸の中に郷愁に似た思いが膨れ上がってくる。その心が口を付いて零れ出そうとした、まさにその時のことであった。異変に気付かされたのは。
両親は病室内のベッドに腰かけていた春樹の姿を確認するや否や、左右の眼を限界近くまで見開いていた。その顔を見せられて、今にも開かれようとしていた春樹の口が閉ざされ、胸の内に言いようのない感情が膨れ上がってゆく。
「春樹……なのか?」
躊躇いがちに父が問う。恐る恐ると言った風体で。
春樹の耳に届いた声は、記憶にある父の声と同じ。
しかし、何かが違う。父のイメージと上手く重ならない。
そう、春樹は父のこんな声を聞いたことはなかった。
震えた声。自信がなさそうで、聞いている自分の方が不安になってくるような。
小日向家の大黒柱は、もっとどっしりガッシリしていたはずだ。
「あ、ああ。久しぶりだな、親父」
内心の動揺を抑えながら、できるだけ平静に答える。
その際に、自分の声もまた震えていることに気付かされた。
久々の再会に感極まっているのではない。そんな感動的なものではない。
背筋がゾクリと震える。寒くはない。部屋の空調は完璧だった。しかし……寒気が止まらない。
「春樹……春樹なの?」
母の声は動揺のあまりひっくり返ってしまっている。
『こら』と窘める父の声もまた、焦りを感じさせるもので……
春樹は内心の不安から目を逸らせつつ、ことさらに平静を装う。
感情と表情が乖離しつつある現状が、さらに心胆を寒からしめる。
「だからそう言ってるだろ、お袋」
うわ言のように『春樹なのか?』と問いかけてくる両親を軽くいなそうとした春樹は、ふたりの顔に浮かんでいる感情を理解してしまった。驚愕そして不審。怯えあるいは恐れ。それに類似した何か。
何度も春樹と雅の顔に視線を往復させている。雅はそんな両親に対して『間違いなくご子息です』と根気よく答えている。その顔に浮かぶ翳りに、春樹は漸く気がついた。
両親は――きっとこう言いたいに違いない。
『これが本当に私たちの息子なんですか?』
そこから、何を話したのか覚えていない。
長かったような短かったような。時間の感覚すら曖昧だ。
気が付けば両親は退室しており、病室には春樹と雅だけが残されていた。
枕元の時計を見たところ、10分ほどしか経過していない。
「えっと、あの……」
呆然としたまま言葉が続かない春樹に、頭をガシガシと掻きむしりながら雅が答えた。
珍しく苛立たしげな口調。その怒りは……きっと自身に向けられている。
「すまなかったな」
「え?」
「小日向があまりに普通にしているものだから、大丈夫かと思ったんだが……」
いったい何が大丈夫なのだろうか。
そう尋ねることはなかった。
春樹自身が一番よくわかっているのだから。
いつの間にか両手で身体を抱きしめていた。震えが治まらない。
「えっと……」
「TSしたばかりの頃の小日向と同じだ。君の両親も、息子がTSしたという事実を突きつけられて……面食らっているのだろう」
雅が言葉を選んだように春樹には感じられた。
本当は何と言おうとしたのだろう?
それを問いただすのは、とても恐ろしく感じられた。
ただ――別に聞く必要はなかった。両親の言葉の裏に、あるいは顔に書いてあったから。
『面食らっている』と言うのは随分とオブラートに包んだ表現だと思った。
きっと両親は、今の春樹の姿を認めたくないのだろう。自分たちの子どもであることを信じたくないのだろう。
「ご両親はこれからはしばしば病院に顔を出されるそうだ。ゆっくりと話し合っていけばいい。話せばちゃんとわかってもらえるはずだ」
「あ……うん……ありがと」
春樹の声は震えていた。両親と会うまでの高揚感はどこかに吹き飛んでしまっていた。
両親ならば、息子がTSしても見間違えることはない。
ひと目で自分たちの息子であることを看破し、生存を喜んでくれる。
そんな春樹の中にあったイメージは幻想に過ぎなかったと突き付けられた。
春樹はゴクリと唾を飲み、両手で身体を掻き抱いた。空調によって適温に保たれているはずの病室が、やけに寒く感じられた。
夢であって欲しかった。でも、これが現実だった。あまりにも非情だった。
★
雅の言葉どおり、両親はそれから毎日春樹の病室を訪れた。
会話はほとんどなかった。目を合わせることすら極稀で、すぐにお互いに視線を逸らせてしまう。
何を喋ればいいのかわからなかった。春樹も、両親も。
細い細い綱の上を、ギリギリバランスを取りながら歩いているような、そんな不確かな感覚。
迂闊なことを口にすれば、取り返しのつかないことになりそうで。
でも、ずっとこのままでいられないことは確実で。
どうすればよいのかわからないまま、ただ時間だけが過ぎていった。
「今日はいい天気ね」「ああ」
「病院の飯はマズい」「我慢しなさい」
「最近調子はどう?」「まあまあ」
一事が万事こんな感じ。会話がまるで続かない。
春樹が口を開くたびに、父も母も身体をビクリと震わせる。声をかけられることを恐れている。
息子だった(と聞かされている)ものから発せられる声が、息子の声ではなかったから。
春樹は、そんな両親の姿を見るのが辛かった。だから、日を追うごとに家族の会話は減っていった。
春樹も両親もTSの話題には一切触れることはない。ただひたすらに空々しい。
体調を崩すことが多くなった。用意された食事を残すことが増え、病院内を歩き回ることは減った。
あれだけ嫌がっていた風呂やトイレの世話も、看護師にされるがまま。一日の大半をベッドの上で過ごすようになった。
元気が湧かない。気力が出ない。ただ天井を眺めているだけの日が増えていく。
一時期は満開の花を思わせた鏡の中の美貌にも陰りが見え始め、どことなくホラー映画の幽霊じみた雰囲気をまとい始めている。
初めて鏡を鼻先に突き付けられたあの日より状態が悪化している。春樹自身がそう感じる。そして――それをどうでもよいと思っている。
雅をはじめとする病院側はこの事態を重く受け止め、何度も検査や問診を繰り返した。春樹の知らないところで医師たちはミーティングを繰り返した。
どこにも異常は見当たらなかった。
結果として『心因性のものだろう』と雅は答えざるを得なかった。
両親との面会がもたらすストレスが、春樹の心と身体を苛んでいる。
その事実は、ことさらに春樹を打ちのめした。何となく予想できていたからこそ、余計にショックだった。
質が悪いことに、体調不良を理由に両親との面会を拒むようになった。
良くないとわかっていても、両親に会うことが怖かった。
両親と顔を合わせることを止めている間だけは、体調がほんの僅かだが安定するのだ。
しかし、それは何の解決にもなっていない。春樹も雅も、誰もが理解している。
その上で、何の対処法も見いだせない。このままでは春樹はどうなってしまうのか。
不安ばかりが募っていく日々ではあったが、
「このことは両親には内緒で」
そう付け加えることだけは忘れなかった。
春樹の中には、まだ両親に対する想いは残っている。
捨て鉢になりながらも、何もかもを諦めきっているわけではない。
TS直後の会話記録を漁ってみても、春樹は従来のTSと比べても精神的には安定しているように見えた。
突発性遺伝子変異症候群、それも第二次性徴期以後に発症したという特殊事例の中でもかなり例外的なサンプルと言える。
自己の連続性や思春期の男女にまつわる不安は見受けられたが、それはごく一般的な同年代の人間が抱く悩みとさほど変わりはないように見受けられた。
だから、何かきっかけがあれば事態は好転するはずだ。少なくとも、雅はそう考えていた……らしい。