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第10話 突発性遺伝子変異症候群 その3


 再び意識を取り戻した春樹(はるき)が目にしたのは、見慣れない天井だった。

 そう言えば入院していたのだと思い出させられる。(たち)の悪い夢のようだった。

 ようやく視力が回復するなり見せられた鏡。

 そこに映っていた美少女が、まさか自分だなんて。

 TSについては学校の保健体育の授業で習っていた。もっとも、真面目に聞いてはいなかったが。

 ことさら春樹が不真面目なわけではない。この点は誰も彼もが似たり寄ったりである。

 授業でTSについて習うのは中学生になってから。対してTSは主に第二次性徴期以前に発症する病気。

 学校で教わる頃には、すでにTSする心配などなくなっているのだから、なかなか身が入るものではない。

 ちなみに『小日向 春樹(こひなた はるき)』は今年中学3年生。とっくの昔にTSする時期は過ぎている……はずだった。

 これは夢だ。あるいはドッキリか、それとも何かの間違いだ。

 そう笑いたかったが、残念なことに身体どころか顔すらロクに動いてくれない。


「目が覚めたか。気分はどうだ?」


「……最悪です」


 かすれた声は春樹にとって聞き覚えのないものだった。すっかり声変りを果たしていたはずの自分のものではない声。

 自分の喉を通って口から漏れたその声は、掠れてはいたもののトーン自体はかなり高い。いかにも女の子らしい声だと思わされた。

 意識を失う前にも、雅医師に言葉を放っていたことを思い出した。あの時の違和感は、この声だったのだ。自分の喉を通って出た、自分のものとは思えない声。


「そうか……まぁ、最悪かどうかは私の話を聞いてから決めればいい」


 枕元の椅子に腰かけていた(みやび)医師が、再び目を覚ました春樹を刺激しないように、噛んで含めるように状況を説明してくれた。

 まともに身体を動かせない春樹としては、大人しく話を聞くしかない。耳を塞ぐこともできない。

 雅医師によると、学校で倒れた春樹は病院に運ばれるや否や遺伝子変異が始まった。

『突発性』と言われるだけあって身体変化の速度は速く、病院側は初期対応で出遅れたとのこと。それでも最悪の事態は避けられたらしいが。

 通常のTSであれば約1年かけてゆっくりと変異していく遺伝子が、そして身体が、春樹の場合は急速に作り替えられて行った。

 その期間は――わずか1か月。


「TSの発症率については授業で習ったか?」


「……たしか0.001%ぐらいだったような」


「そうだ」


 相当低い確率だ。最初に耳にした時は『ソシャゲのレアキャラのが全然マシじゃねーか』と笑っていた記憶がある。

 なぜ春樹がそんなトンデモ確率のくじを引いてしまったか、それは大した問題ではないらしい。可能性はゼロでないのだから。

 重要なこと、それは――


「ただでさえ第二次性徴期以降のTSは身体にかかる負担が大きい。それが突発性であったならなおさらのこと」


「……そんなにヤバかったんですか?」


 恐る恐る尋ねた春樹に、雅医師は首を縦に振った。


「この事例の場合、生存率は概ね10%といったところだ」


 世界中のTS研究によって導き出された、信頼のおける数字だと言う。

 その言葉を聞いたとき、春樹は『意外と高い確率だな』と思った。

 思って……その次の瞬間、目を剥いた。


「え、生存率10%!?」


 かすれた声が裏返った。

 TS発症率(0.001%)に比べれば大きな数字だったから、スルーしてしまう所だった。

 生存率10%と言うことは、裏を返せば致死率90%である。9割がた死亡するとか……

 ゾッとした。背筋を寒気が駆け上がる。死神の冷たい手が喉元に差し込まれていた、そんな感覚。

 雅医師曰く、昔大流行してニュースになったエボラウィルスが大体致死率90%とのこと。エボラの名前くらいは春樹も聞き覚えがあった。

 狂犬病は致死率100%らしいが、これはワクチン接種や治療を受けない場合で、日本人にとってはあまり関わりない数字。

 何はともあれ、第二次性徴後のTSはそこらの病気よりもはるかに死亡する確率が高い。と言うかほとんど死ぬ。

 TS発症率0.001%などという数字よりも、生存率10%という数字の方がよほどリアリティがある。驚きのあまり二の句が継げなくなってしまった。

 

「文字どおり『九死に一生を得た』わけだ。それをどう思うかは君の判断に任せるしかないわけだが……」


 五体満足で拾った命を再び捨てるような真似はしてほしくないな。

 雅医師は穏やかな声で、そう締めくくった。



 ★



 急激に作り替えられた結果として春樹の身体は相当に消耗してしまっていた。回復しなければ、ひとりで動くことすら叶わない。

 雅医師をはじめとする病院スタッフに介助してもらわなければ、日常生活もままならない。

 自分以外の人間とかかわる過程で、自分の身体がすでに以前のソレとは全く異なっていることを認めざるを得なくなった。

 もし、宇宙の果てや無人島にひとりっきりだったら、別に自分が男であろうが女であろうが気にならなかっただろう。あまり想像できないが。


 背が低くなった。

 もともとの春樹の身長は170センチを少し超えたくらい。

 中学生にしてはやや大きめだったその身体が、今では160センチくらいに縮んでいる。正確には162センチ。

 身体検査は毎日のように行われて、データは随時記録されている。春樹本人の希望があれば、いつでも見せてもらえるとのことだった。

 何はともあれ、身長が10センチも縮んでいることは、地味にショックだった。

 手足の長さが違う。届くと思って伸ばした手が戸棚やナースコールに届かなかった。テーブルから落ちかけていたコップを拾おうとして失敗したこともある。

 目の高さが違う。以前よりも見上げることが多くなり、首筋が地味に痛い。

 そして体つきも違う。

 サッカー部で汗を流して鍛えてきた、日に焼けた身体ではない。

 積もったばかりの新雪のように真っ白な肌。どこもかしこも柔らかい身体。

 股間に男のシンボルはなく、代わりに胸には豊かに膨らんだ二つの丘――それはかつて憧れてやまなかった至福――が存在感を放っている。

 もちろん顔も変わっている。

 長いまつ毛に縁どられた眼差し。すーっと通った鼻梁に、桜色の唇。いつの間にかめちゃくちゃ伸びていた髪は腰まで届く漆黒のストレート。

 かつての『小日向 春樹』の面影はどこにも見当たらない。

 初めて雅医師に鏡を突き付けられた時は、頬がこけて目の下にクマがあり、肌は荒れ放題で髪はボサボサ。

 以前に和久と一緒に見たホラー映画のヒロイン(?)の幽霊を彷彿とさせられる姿をしていたものだが、点滴が外れ、味気ない代わりに栄養バランスをしっかり考えられ病院食で腹を満たしているうちに、見る見る間にその姿は変貌していった。

 風呂に入る際に服を脱いで鏡を見ると、そのスタイルの良さにドキッとさせられる。『ナルシストかよ』と笑っていられたのも最初だけ。今の春樹は頭のてっぺんから足のつま先まで文句なしの美少女だった。それこそ自分で自分に見惚れるくらい。おかしな気分になりそうなので、極力鏡は見ないようにしている。

 ただ……なんとなく今の美少女然とした姿と以前のスポーツ少年だった姿が春樹の中で繋がらない。


「夜に眠って朝に目が覚めたとする。昨日の自分と今日の自分が同一人物であることは証明できないだろう?」


「姿かたちは一緒じゃん?」


「一卵性双生児だって姿かたちは同じだろう?」


「それはそうかもしれないけど……なんか適当に誤魔化そうとしてない?」


「別にそういうつもりはないのだがなぁ……つまり小日向は自分の連続性に疑問を抱いているわけか?」


 入院生活が長くなってくると、最初は医師と患者として構築されていた春樹と雅の関係もより近しいものに変化していった。

 雅は暇があれば春樹の部屋を訪れて頻繁に会話を交わす。

 ほかにやることはないのかと尋ねてみたところ、雅はこの病院におけるTS関係のトップなのだと言う。

 突発性遺伝子変異症候群を発症した春樹にかかわる様々な問題は、現在の彼女にとって最優先になっているらしい。

 春樹の病室で雑談に興じるのも、コーヒーをがぶ飲みし茶菓子をポイポイ口に放り込むのも、テレビや漫画を見るのも業務のうちだと言っていた。

 最後の奴はどう考えても関係ないだろうと思うのだが……


「専門的なことはわかんないけど、多分そんな感じ」


「ふむ……」


「たとえばさぁ、オレがTSしている間の映像とかないわけ?」


 一か月かけて身体が作り替えられたと聞かされている。

 春樹自身にその記憶はないけれど、ここが病院であるならば記録が残っていてもおかしくはない。

 医療関係のドラマで手術中の記録をカメラで撮っているシーンを見た憶えがあった。


「あるぞ、映像」


「それ見せてくんない?」


 尋ねてみると、雅は露骨に渋い表情を浮かべた。


「やめとけ。別に脅すつもりはないが、あれは一生もののトラウマになるぞ」


「……マジで?」


「マジだ」


 雅の眼は本気だった。

 春樹が初めて顔を合わせてから、多分一番本気。

 普段は飄々としたところのある雅にそんな顔をされてしまうと、どうしても見たいとは言えなくなってしまう。

『自分の姿かたちが急激に作り替わる過程』を何となくイメージしてみたが……どう考えても要モザイクなグロシーンだった。

 雅の言うとおり、見ないで済むなら一生見ずに済ませたい。むしろ見なければならないであろう病院スタッフが気の毒に思えてきた。


「ダメか~」


「しかし連続性か……ふむ、確かに気になるところではあるだろうな。何か考えておこう」


 何だか真面目に考えこんでしまった。

 適当に口にしただけだったのだが、専門家にとっても琴線に触れる部分であったらしい。


「連続性か……」


 その言葉が一番しっくりくる。

 今の自分が『小日向 春樹』であるという実感が、どうしても持てなかった。

 赤の他人と言うわけではないが……どうにも実感が持てない。

 なまじ並外れた美少女になってしまっただけに、余計に平凡な容貌だった『小日向 春樹』との乖離がひどい。

 せめてどこかに男だったころの面影が残っていればいいのだが……

 いっそのこと『他人の身体を乗っ取っている』と言われた方が、まだ納得できたかもしれない。


 悶々とした心持ちの中で日々は過ぎ行き、ようやく家族たちとの面会許可が下りた。

 その言葉に喜ぶ春樹は気づいていなかったが、許可を出した当の本人である雅の顔色は冴えない。

 まるで梅雨時分のどんよりした曇り空のよう。

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