山中、霧と共に
どこか遠くに行きたかった。ずっとそう思っていた。自分の足で、自分の力で。誰もいないところに行って、誰も俺のことを考えなくてもいいように。体を動かしていれば何も考えずにいられたしその間だけ自由になれた。
姉さんのためでも、父さんや母さんのためでもなく。ただ自分のためだけに走りたかった。自分では気づいてなかったけれどきっと何よりも前からそうだったんだと思う。
だから。だから大丈夫だよと、枯れて壊れてしまった心の泉に今日もジョウロで水をやっている。小さく縮こまった自分を守るように。
それが壊れている事実には目を向けないようにして。
本日晴天なり。肌寒さはあるが気温湿度ともに快適の範囲内、風向風速は良好。絶好のアウトドア日和である。今日は久しぶりに部の通常活動に参加していた。といっても、テスト期間終わりだから参加人数はまちまちなんだが。
「フゥ、ハッ………フー……」
ひたすらに続く坂道で無心となり自分を追い込む。聞こえるのは規則正しく息を吸って吐く音に、チェーンが回る音。タイヤのゴムが時折ギュッ、ギュッと重たげに鳴っている。太腿がパンパンになっていくのを感じる。けれど心はそのずっとずっと先を向いている。
以前の自分では知りもしなかった景色。風の匂い。全身で感じる空気のやわらかさ。どこまでだって行くことができるんだと知っているから。
「はあ、ハァ………………よし……………」
みんなで出発してから大分経ち、時間は正午の手前。それにあと少しで昼休憩の地点だ。そう思い気合いを入れ直そうとしたとき違和感に気がついた。
「…………?」
つい数時間前にみんなでスタートした頃には出ていなかった霧が出ているのだ。しかもそれは少しずつだが次第に濃くなっている…。さほど高度がある訳でもないのに。なんかちょっとおかしいんじゃないか?他のみんなに知らせなくてはと、とにかく声を張った。
「っ………おーーーい!サイクリング部ッ!誰かついてきてるかーーーー!!」
だが、返事が返ってこない。待てど暮らせど後続には誰の気配もない。かと言って自分の前に誰かがいることも考えにくい。うちの部の中で一番速いのが自分であることは自他ともに認める事実であるし、実際今日俺を追い抜いていく姿はなかった。そしてこの小さな山では他に道があるはずもない。山肌も人工林に囲まれているし。何より走り慣れたルートなんだからコースアウトだって有り得ん話だ。
何にせよこの状況はまずい。どこかでみんなと合流する必要があるし、早くなんとかしないと…と焦りを覚え始めたところで思い出した。
「!……そうだ、そうだった」
気が急いてスマホの存在を忘れきっていた。ラインで連絡を取ればいいじゃないか。
だが、うちの部全員のグループラインで発言しても既読一つ付かない。通話を掛けてみても友人にも部長にも不通だ。圏外な訳でもない。
…というか、いや待てよ。周りに耳を澄ませても着信音や他の仲間らしき声どころか虫や鳥の声も木々の葉擦れの音も、川に流れる水の音だって何一つ聞こえてこないじゃないか!
どうして気づかなかった?さっきから静かすぎるのだ、いっそ不気味なまでに。
「いや、それは………………」
おかしい。そう言いたいのに、この奇妙すぎる状況に言葉が喉へ張り付いてしまったようでまるっきり動かない。霧は異様なまでにどんどん濃くなっている。何か考えなくては。なにかを。
口を開こうとしたその瞬間。
〜♪〜〜♪〜♪〜〜♪♪
通話の着信音だ。…でも俺のスマホの音じゃない!初期設定のままの音。
〜♪〜〜♪〜♪〜〜♪♪
「……………なあ!誰かいる?……部長?もしかしてトーヤ?」
返事は、ない。音が近づいている。
〜♪〜〜♪〜♪〜〜♪♪
「なあってば、………ふざけてる場合じゃないだろ!?」
足は止めているのに心臓の音がうるさい。背を伝う汗が妙に冷たい。
音が近づいている。
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「…おい?」
…音が止んだ。
奇妙な静けさ。本当は自分以外何もいないのでは?なんて非現実的な想定が駆け巡る。
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返事は、ない。
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………〜♪〜〜♪〜♪〜〜♪♪
4回目の音が鳴った。
「えっ───────」
驚きに強ばった手でスマホを取り落とした俺の、耳元で───────────