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悲歌の林檎   作者: 森れい
1/1

1すりかわり

 

               ―ヘスペリデスの園

黄金の林檎の木を守るために百頭の怪龍を置いた



 親しい人の薄桃色の横顔が、撫でるように瞼をかすめた。ぱっちりと涼しく開いた瞳、赤い花のような唇、蝋を塗ったようなやわらかい艶を帯びた黒髪。

 自分でも気づかないうちに、僕は目の前にその人の容を描いていた。そうしながら、空っぽになった胸が生き生きと騒ぎ出すのを、悲しいような喜ばしいような曖昧な気持ちで感じていた。

 じきにひどい眠気が頭にのしかかってきた。やがて幻は遠くなって、まるで夜霧の中にとろとろと揺れる灯のようにぼんやりと霞んでいった。

 刹那、僕はひどい戸惑いに胸をもがれて、いくらもまどろまぬ内にふっと目を開けた。

 その時、はるか天海から、底気味の悪いかすかな響きが聞こえたのだ。

僕は枕からは顔を離さずに、温い布団から片手だけをほうり出して咄嗟に杖を探った。

―町は紅蓮に燃えて火龍の黒い影が空高く無数にうごめいていた。狂犬のように地を駆ける兵士たちは龍の生温かい返り血に晒され、赤く爛れたような姿はその勇ましさとは真逆に痛ましくも思えた。やがて龍が退くと、全ての者が息を殺したような深い静寂が町の上に張りつめた。

頭をたたき割られる様なひどい臭いと黒煙の立ち込める街を洗うように、しょっぱくて冷たい天海雨がしとしとと降り出した。

必死に考えようとしたけど、心の中は空っぽだった。鼻の奥が急に熱くなって、漏れ出した涙が歪めた顔を伝い落ちて行くこそばゆさが妙に煩かった。僕は虚無になりながら、しばらくの間、亡骸の山の前にぼんやりと立ちすくんでいた。

抱き起そうとしても、鉄のようにずっしりと重くなった親しい人の身体は動かなかった。無気力になってうなだれると、ほの赤くすすけた顏が目の前にぴったりと張り付いた。その放心したような、眠るような表情が妙に愛おしくて、僕はもう一度、力いっぱい彼女の身体を抱き振った。でも、名を呼んでも、湿った前髪の絡んだ頬の筋肉ひとつピクリともしない、古びた布のようにその身体は亡骸のなかにぐしゃりと頽れたまま、まるで動かなかった。

―中途半端に目覚めた頭の中を、かつての記憶が容赦なくよぎっていった。

また龍の声が天海に渡った。僕は跳ねるようにベットから起き上がると、冷たい空気の張りつめた闇の中へ青白い光の点った杖を掲げながら、窓の前まで歩み出た。

ガラスにはさらさらした雪の粒が白くこびりついて外の事は覗い知れなかった。窓をいっぱいにこじ開けると、雪は降り止んで外は凄い星月夜だった。金と銀の星屑が宝石を散り敷いた様にキラキラと瞬いて、月は凍ったような鈍い光を放ってはるか天海の闇の彼方にぼんやりと浮かんでいた。

ふと、その白い月光の中を、弾のように小さな影が真っ直ぐに滑り落ちていくのを見た。

「人……?」

 まるで自分の身体から心だけがすり抜けて、その影に吸い込まれていくような不思議な感じがして、その言葉は全く無意識に声に出された。顔の皮膚をはぎ取るような鋭く冷たい夜の空気の中に、吐き出した息が白く凍って掻き消えていった。人の様な……、それは確かに人影に見えた。

そしてその軌道に重なるように、眩いばかりの光の球がチカチカと瞬きながら舞い落ちた。それは口に青い炎を蓄えた大きな火龍が、彗星のように闇夜をうち照らしながら人影を追う光景に違いなかった。風よりも早い翼が仄かな月光を受けてきらめき、白銀の残光が漆黒の中に尾を引いて美しく流れた。

衝動が筋肉と骨と内臓を一瞬転に駆け抜け、爪先から頭の先に向かって電撃のようにビリビリと飛び出していくのを感じた。それと同時に、胸が焦げ付くような、怒りに似た息苦しい感情が僕の中に膨れ上がった。

気がつくと僕はドアの前に立っていた。途中、階段を降りる時に何かにつまづいて肩をぶつけたかもしれない。僕は外套も纏わずに、ただその衝動に任せてドアから飛び出すと、横殴りに吹き付ける白々しい寒風を避けるために深くうつむきながら月の光る方へと走った。


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