始動
「くわァーっ!」
事務机の回転椅子にもたれながら大きく両腕を伸ばした俺は、大欠伸で思わず外れそうになったアゴを右手で支える。「アゴ男!」などと近所の正直なお子様達に指さされたら、繊細な俺のハートはペシャンコのズタボロだ。心のケア全治二週間、なんてことになった日には、せっかくおさらばした引きこもり生活に逆戻りしてしまう。慎重に手の平で確かめると、華奢な俺のアゴは、定位置にちゃんと収まっていてホッとする。
「いいご身分ね、屋秀。外ではマジメなサラリーマン達が、汗にまみれて働いているっていうのに」
年の頃は30前後か、俺の机の左奥の、どでかい脇机付きデスクの肘付椅子に腰掛け、ブラインドタッチでパソコンのキーに白い指を滑らせているキリッとした美女が言う。ウェーブのかかった栗毛色の髪と、バブル時代を彷彿とさせる赤のボディコンスーツを身に纏い、これまた真っ赤なハイヒールの長い足を組みながら、こちらを見ている深い緑の瞳。
言われて居住まいを直したのは、このキラキラ眩しい異国の美女が、俺の上司だからだ。とは言え、決して鬼のようではなく、ウィットと皮肉に富んだ、心優しい?上司である。
「いやァ、オレ達が暇ってことは、世の中が平和ってことで、いいことじゃないんですかィ?」
ここはルーマー探偵事務所、この世にはびこる怪奇に挑む、超常現象捜査の日本支部である。メンバーは所長のヴァレンティーナ・ネルソン、所員のこの俺古本屋秀、以上2名の精鋭部隊だ。探偵事務所と名乗っているが、家出猫の捜索や浮気の調査は専門外だ。だから看板も上げていない。
「まっ、そうですわね。でもこのままじゃ、秀に差し上げるお給料が無くってよ」
「えェっ、それは困っちまいます。オレ、せっかく正社員になれたってんで、初月給でお袋にホテルのディナーを御馳走するって言っちまったんですよオ。このままじゃオレお袋に、アンタの言うことは嘘ばっかり!ってホントに愛想尽かされちまう」
「じゃあ、いつまでも寛いでないで、キリキリ働きなさい。お客が来ないならあちこち駆け回って、御用聞きに行ってくることですわよ」
見た目はインターナショナルだが、使う言葉がえらく昭和チックだ。一体どこで高度経済成長時代の日本語をモノにしたのだろう?もしや、実家の執事が我が国の企業戦士だったのか?
中学高校とだらだら過ごし、仕事もアルバイト経験のみで負け組確定の俺とは違い、ヴァレンティーナは英国のさるジュエリーデザイナー一家のお嬢様である。とあるパーティーで彼女のドレスに料理をぶちまけたのがきっかけで、目の飛び出るようなクリーニング代を支払う替わりに、俺はここへスカウトされたのだった。
「へいへい、わかりやした。行けばいいんでしょ?しかし、そんな簡単に見つかるもんですかねエ」
俺は椅子から立ち上がり、表通りに面した窓から空を眺めた。
六月だというのに、窓の外は雨雲一つ無い晴天で、日差しは真夏のように眩しい。
「いやア、こんなおてんと様の下を歩いたら、すぐ日焼けしちまうなア」
何せ家の中にいる時間が長かったため、色白で日に焼けるとひりひりするのである。
「ぶつぶつ言ってないで、お出掛けなさい!」
ちょっと呟いただけなのに、ホントいい耳してらっしゃるゼ、所長様。
行ってきますと声をかけ、アンティークな木製の重い扉を開けて、薄暗い階段を足取り軽く降りていく。一階はカフェ「突撃」で、森のくまさんのようなマスター久木田さんがおいしいコーヒーを入れてくれるのだが、コーヒーが苦手な俺はスルーして通りへ出る。午後のオフィス街は、太陽光をギラギラと反射し、陽炎のようにゆらめいていた。




