講師
土の地面に、固い空。
そこは地下室と言うよりは、地下空間と言うべき場所だった。
あまりの広さに、思わず息を呑んでしまう。
でも、これなら幾ら暴れても本当に大丈夫そうだ。
「じゃ、はやいところ始めようぜ」
広い地下室の中央に陣取り、凜くんは急かす。
僕たちも中央に移動して、魔術の習得を開始した。
「まず基本的なところから」
そう前置きして、話を進める。
「魔術を使うには、まず構築式を憶えなくちゃいけないんだ」
「構築式って?」
「ちょっと待ってね」
それを受けて、僕は妖魔化して狐の耳と尾を生やす。
そうして出した狐尾の先で、土の地面に式を描く。
「こういうのだよ」
見た目は複雑な魔法陣と言ったところかな。
「うげ、こんな複雑なのを憶えんのか?」
「そうだよ。空で描けるようになるまでね」
「これは、思ったより大変かも……」
そう。
魔術を習得するための道のりは、決して簡単なものじゃない。
構築式の暗記なんて、まだまだ序の口だ。
そして、これが憶えられないと、そこから先へは進めない。
「それで、式には四つの種類があるんだけど」
指を四本ほど立てて、話を続ける。
「対象を攻撃するための術式。回復させるための回式。護るための護式。そして、自分だけの唯式。いま描いた構築式は術式一号、飛火夏虫だね」
「ま、待ってくれ。いま一号って言ったか? じゃあ、こんな複雑なのと似たようなのを……」
「うん。たくさん憶えないといけないよ」
僕は幼少の頃から、構築式を頭に叩き込まれていたから、今では空で描けるけれど。
それをこの年齢から始めるのは相当の苦労が生じる。
正直、僕も一から憶え直せと言われたらと思うと、ぞっとする。
「……これを憶えたら、魔術が使えるようになるの?」
半妖が持つのは妖力だから、実際には妖術になるけれど。
ややこしいことになってしまうから、ここは魔術で統一することにしよう。
「一応はね。でも構築式を憶えたら、次ぎは魔術を顕現させて、それを更に洗練することになるから先は長いね」
「あぁー! いまからもう頭が痛くなってきたー!」
凜くんから悲鳴があがる。
この先に待ち受ける苦難に頭を抱えているようだった。
けれど、対象的に、愛海のほうは静かだった。
ただずっと、地面の構築式を見つめている。
「……ねぇ、透くん」
「なんだい?」
「この構築式は、攻撃の魔術なんだよね?」
「そうだよ。火で対象を焼き払う魔術なんだ」
構築式としては、これが一番すっきりとしたデザインをしている。
魔術師を志した者が、最初にぶつかる難関と言ったところだ。
「あのさ。私、これじゃなくて別のがいいな。ほら、前に私にしてくれた奴」
「前に……あぁ、回式のこと?」
「そう! それ」
そう言えば、愛海は言っていたっけ。
子供たちを護るために魔術を習得したいと。
なら、第一に憶えるべき構築式は、回式か護式のどちらか。
その中で、実際に体験したことのある回式を選んだ。
「チビたちが怪我をしてもいいようにね。もちろん、しないことが一番なんだけど。やんちゃな時期だから、どうしてもね」
「そっか。じゃあ、愛海は回式からはじめよう。でも、覚悟してね?」
「へ?」
「回式の構築式は、術式よりも複雑だよ」
人体を元通りに治す魔術なのだから、その分だけ複雑だ。
火を灯して飛ばすだけより、はるかに難易度が増す。
「任せて。絶対、憶えてみせるから」
けれど、そんなことなど気にした様子もなく。
愛海は憶えてみせると宣言した。
自信があるだけじゃない、必ず憶えるという強い意志が垣間見えた。
その思いがあるのなら、きっと愛海はやり遂げるはずだ。
「凜くんは、どうかな?」
「あぁ、俺はこれでいいよ。姉貴が守りで、俺が攻撃だ。役割分担が出来て、丁度いいや」
凜くんも、気がつけば頭を抱えるのを止めていた。
視線は一度もこちらに向けず、地面の構築式だけを見つめている。
二人ともやる気は十分、根気もありそうだ。
「じゃあ、二人にプレゼント」
そう言いつつ、両の手に妖力を集中させる。
これは魔術ではなく、転生狐として継承された記憶にあったもの。
まだ十全に記憶を見られる訳ではないけれど、簡単なものなら直ぐ見られる。
妖力は次第に形をなし、細長い棒となった。
「鉛筆代わりに使って」
「おう、サンキュ」
「ありがとっ」
二人は棒を受け取り、土の地面に式を刻む。
何度も描いたり消したりを繰り返す様は、在りし日の自分を見ているようで。
思い返す記憶と二人を重ね、すこし懐かしい気分になった。
それから構築式に関する質問に答えつつ、時間は過ぎていく。
「――あー、もう無理。気力が持たんっ」
ある程度の時が経った頃、凜くんは地面に倒れた。
暗記は気力との勝負でもある。
複雑な構築式をまえに、ついに精神が持たなくなってしまったみたいだ。
「頭からっぽにして、なーんにも考えたくねー」
「じゃあ、休憩にしようか。根を詰めすぎるのもよくないしね」
「そうするー」
天井を眺めたまま、凜くんはぴくりとも動かなくなった。
放っておいたら、そのまま眠ってしまいそうだ。
「愛海も休憩にする?」
「ううん、私はまだいいかな」
そう答える間も、愛海は棒を手放さない。
地面に構築式を描き続けている。
元々、成績優秀な生徒なだけあって、集中力の持続時間が長い。
「……うっし、休憩終わり」
「もう?」
「あぁ、寝てる時間がもったいねぇからな」
凜くんもすぐに起き上がって棒を握りしめた。
二人とも魔術に取り組む姿勢は見上げたものがある。
この様子だと思ったより早く、次ぎの段階に進めるかも知れない。
そうして時は過ぎて、二人の精神がへとへとになった頃。
地下室を後にした僕は、綺麗に洗濯された学生服を身に纏った。
風刃で破れていた箇所も、綺麗に縫い合わされている。
そのことに感謝の言葉を述べつつ、僕はグラウンドに足を下ろした。
「――じゃあ、今日のところはお暇するよ」
「昼も喰ってきゃいいのに」
「ありがとう、凜くん。でも、冷蔵庫に作り置きがあったのを思い出したんだ。今日中に食べないと痛んじゃうからね」
昨日の晩ご飯にする予定だったんだけれど。
色々あって今日の昼ご飯になってしまった。
かなり時間が経っているけれど。
まぁ、食べても大丈夫だとは思う。
「透くん。色々とありがとね。構築式、ちゃんと憶えておくから」
「うん、頑張って。二人ならきっとすぐに憶えられるよ。それじゃあ」
二人に手を振って、孤児院を後にする。
一人で歩く帰路がすこし寂しく感じるのは、きっと気のせいじゃない。
あの場所はとても居心地がよくて、ずっといたいと思ってしまう。
だから、無理矢理にでも理由を造らないと僕はたぶん家に帰れない。
たった一日いただけなのに。
もう自分の家より、孤児院のほうが比重が大きくなってしまっていた。
「さて、と」
自宅にまでたどり着き、扉に鍵を差し込んでひねる。
「……ん?」
いま、鍵の開いた手応えがなかった。
昨日の朝、学校に向かう際、たしかに鍵は閉めていたはず。
なのに、いまは開いていた。
何者かの手によって。
「泥棒……」
ふと脳裏に過ぎった推測に、警戒心が跳ね上がる。
まだ中にいるだろうか? それとも去った後だろうか。
幸い、盗まれて困るものは魔術で隠してある。
素人には、決して見つけられない。
問題は、まだこの一軒家にいるか否か。
「……行くか」
もしまだいたら、取り押さえて警察に突き出そう。
いなかったら、とりあえず警察に連絡か。
痕跡を追って自分で追いかけてもいいけれど。
後々の事情説明のことを考えると、自分から動くのは得策ではなさそうだ。
頭の中でいろいろなことが錯綜する中、ゆっくりと玄関を開く。
ここからではまだ誰も見えない。
玄関扉を閉めて、泥棒を逃がさないように鍵を掛ける。
それからゆっくりと廊下を渡り、居間のまえまで足を進める。
すると。
「――人の気配」
居間に誰かがいる気配がした。
間違いなく、不法侵入をしている何者かだ。
「……よし」
心の準備を終え、居間の扉に手を掛ける。
そして、一息に乗り込んだ。
「――あっ、先輩。帰ってきてたんですね」
「え、あ……」
乗り込んだ先で見たもの。
それは見知った顔の少女だった。
僕がまだ魔術師をしていた頃の後輩であるところの。
「花恋後輩……」
葉隠花恋、その人だった。
「なに……してるの? 僕の家で」
「えへへー。先輩を待ってるあいだ、お腹空いちゃったのでご飯食べてました」
食卓には、僕が昼ご飯にしようと思っていた作り置きが並んでいた。
すでに手がつけられているようで、半分ほどがなくなっている。
「ご飯まで炊いてるし……」
まるで我が家のように好き放題していた。
これ、いま、どういう状況なんだろう。
頭が混乱してきた。