転生狐
憶えていたのは、死ぬ寸前の一瞬だけだった。
弧を描いた妖魔の爪が、僕の喉を引き裂いていく。
異物が過ぎ、遅れて痛みがやってくる。
身体に詰まった血液が失われていく。
その感覚は、まるで死を手繰り寄せているかのようだった。
もう助からないと本能が理解する。
身体が死を帯びて崩れ落ち、地面と衝突するまえに意識を失った。
目覚めることは、二度とないと思っていたけれど。
どうやら僕は生き返ってしまったらしい。
それも人間ではなく、妖魔として。
「どういう気分がするもんなんだ? 生き返るっていうのは」
鉄格子の向こう側から、そんな無神経な言葉が聞こえてくる。
視線を持ち上げると、僕を監視している魔術師の姿が目に映った。
無精髭を生やした中年男性。
その口元では煙草に赤く火が灯っている。
「……生きた心地がしません」
「はっはー、ナイスジョーク」
冗談を言ったつもりはないけれど。
「しかし、お前さんを見ていると疑わしくなるねぇ。かの有名な転生狐が、こんな十代の少年だなんてなぁ。レートで言や、SSってところだろ? それがねぇ」
「自分でもまだ信じられませんよ。自分が、妖魔だったなんて」
かつて一国を滅ぼしたとされる大妖魔。
討滅に成功したとしても、時代を経て蘇る規格外。
危険度SSレート妖魔が僕だなんて、誰が想像できただろう。
「……僕は、これからどうなりますか?」
「さてねぇ。まぁ良くて監禁。悪くて殺処分でしょ」
残酷な現実を、彼はあっけらかんと言い放った。
「……容赦ないですね」
「嘘ついてもどうしようもないだろうよ。それとも気休めでも、ここから出られるって言ってほしかった?」
本音を言えば、そうだ。
その場しのぎの嘘でいい。慰めでも構わない。
ここから出られると、元の生活に戻れると、そう言ってほしかった。
けれど、そんな未来はありえない。
沈み込む感情とともに、視線が下がる。
目が足下を見つめた時、金属が擦れた甲高い音が響く。
「おっと、来たみたいだな」
かつかつと足音を立てて、それは近づいてくる。
黒のスーツを身に纏う、妙齢の女性。
彼女が、僕の将来を告げる魔術師。
「お疲れ様でーす」
「お疲れ様です」
見張りの魔術師と軽い挨拶を交わし、彼女は鉄格子のまえに立つ。
「冴島透。貴方の処遇が決まりました」
返事をする間も、覚悟を決める暇もなく、彼女は告げる。
「本日をもって魔術師としての資格を剥奪。魔術界を追放とします」
魔術師の資格を剥奪。
魔術界からの追放。
それをまず受け止めて、後に続く言葉を待った。
けれど、いつまで経っても、続きが告げられない。
まさか。
「――それだけ?」
たったのそれだけ?
「あれま、随分と予想外な決定だねぇ。俺はてっきり殺処分かと」
「たしかに即座に駆除すべきだと訴えた魔術師も多くいました。が、冴島透に転生狐としての自我がないこと。これまでの魔術師としての社会貢献などを考慮し、魔術組合は冴島透に温情を掛けた、と言ったところですね」
魔術組合が僕に温情を?
それはすこし、不自然なように思われた。
自分で言うのもなんだけれど、僕はそれほど優秀だった訳じゃない。
平凡も平凡。
有象無象の枠にすっぽり収まるのがお似合いの魔術師だった。
そんな僕に、どうして。
「これは上の決定です。私はそれに従うまで」
その言葉とともに、鉄格子は開け放たれる。
戸惑いながら、釈然としないまま、僕は牢獄を出た。
出ることが許された。
「――あれから丸一週間か」
魔術界から追放されて七日が経った。
魔術師として積み上げて来たものすべてを捨てて得た自由。
その自由にも、すこしだけ慣れてきた。
「ん? 一週間前ってなんかあったっけ?」
口をついて出た独り言が、友人の冬馬に聞かれてしまう。
冬馬は魔術界の存在を知らない一般人だから、僕の身に起こったことを知らない。
僕がすでに人間ではなく、妖魔なのだと言ったら、どんな反応をするかな。
きっと精神病院に行けと言われるだろうな。
「いや、なんでもないよ」
適当にはぐらかして、弁当に手をつける。
昼休みは限られている。
ぼーっとしていたら、あっという間に次ぎの授業が始まってしまう。
「なぁなぁ。あの話、聞いたか?」
「どの話?」
流石にノーヒントでは言い当てられない。
「牙城がまた告白されたって話」
牙城。
牙城愛海。
クラスで、いやこの高校で一番と言っても過言ではないほど人気のある生徒だ。
クラスの女子代表のような存在でもある。
容姿が整っていて、運動神経が抜群で、からっとした性格をしていて、分け隔てなく人と接し、面倒ごとを進んで行う、誰からも好かれる人柄をした女子生徒。
本当に、彼女はこの手の話に事欠かないな。
「今度は三年の先輩だと」
「ふーん。それで、どうなったの?」
「いつも通り、撃沈したってさ」
話の結末は、いつも決まっていた。
牙城愛海に誰かが告白し、あえなく撃沈する。
今回も、例に漏れなかったみたいだ。
「この高校に限れば、かなりモテてた人なんだけどな」
「そうなんだ。なんで断ったんだろうね」
「さぁな。誰からでもばっさり断るらしいじゃん、牙城って。後輩、同級生、先輩、他校の生徒なんてこともあったっけ。ぜーんぶ、撃沈。その癖、男の影は微塵もないときた」
恋人がいる訳でもないのに、告白はすべて断っている。
妙と言えば妙だけれど。
まぁ、そういうこともあるんだろう。
好きになった人としか付き合わないとか、そんな理由かな。
まぁ、僕も彼女のことをよく知っている訳ではないから、印象でしか語れないけれど。
「噂じゃ、誰が牙城を射止めるかで競争してるみたいだぜ」
「へぇー」
「へぇーって、興味ないのかよ」
興味があるかないかで言えば、ない。
僕の頭は魔術師関連のことでいっぱいだ。
色恋沙汰に割いている余裕はない。
「別に僕たちには関係ないでしょ。牙城さんが誰を好んで――」
「――なになに、私の話?」
不意に、声がかかる。
噂をすれば影が差すとはよく言ったものだ。
驚いて、言葉が途切れてしまった。
「いま私の名前、呼んだでしょ? なんの話?」
「いや、えーっと」
助けを求めるように、冬馬に視線を送る。
すると、冬馬はすこし思案したような素振りを見せ、口を開く。
「あー、あれだよ。また告白されたんだな、って話」
まさかのドストレートだった。
もっとこう良い感じに誤魔化してくれるのを期待したのに。
「あー、その話ね。やだなー、もう噂になってるんだ」
牙城さんは困ったような顔をした。
まぁ、困るよね。そりゃあ。
「実際のところ、なんで断ったんだ?」
「冬馬っ」
「いいじゃん、この際だし」
デリカシーってものがないのか、この男は。
男女間のデリケートな部分にズケズケと。
「あははー、そうだなー」
牙城さんは視線を逸らすように、明後日の方を向く。
「私なんかには、もったいないからかなー」
私なんか?
「――愛海ー、昼休み終わっちゃうよー」
「あー、ごめん。いま行く」
友達からお呼びが掛かったようで、牙城さんはほっと安堵した。
聞きづらいことを聞いてしまって、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
「呼ばれちゃったから、じゃあね」
「うん、また」
そそくさと牙城さんはこの場をあとにした。
「冬馬」
「うん?」
「もうちょっと、気を使える人になろう」
ちょっとしたハプニングがありつつも、昼休みは終了した。
午後の授業も滞りなく消化され、憂鬱な放課後がやってくる。
放課後は苦手だ。
授業を受けたり、休み時間に冬馬と話をしたり、そうしている間だけは自分の置かれた現状を忘れることができる。
けれど、放課後になればそうはいかない。
重く、苦しい現実が、僕の背に覆い被さってくる。
「じゃーな、また明日ー」
「うん、また」
帰路の途中で冬馬とも別れ、完全に一人きりになる。
こうなるともうダメだ。
思考は、悪いほうへと向かっていく。
「……はぁ」
僕は魔術師になるべくして生まれ、そう育ってきた。
僕にとって魔術師とは生きる目的だ。
けれど、いまではそれがごっそりと無くなってしまっている。
これまでのすべてが無為に帰したいま、僕はなにを支えに生きていけばいい。
今更、人並みな夢なんて見られない。
ぐるぐる、ぐるぐる、思考は巡る。
「――ん?」
不意に、思考が途切れて我に返る。
妙な気配を感じたからだ。
自然と足が止まり、周囲に警戒の糸を張る。
魔術師として生きてきた性が、無意識に動き出す。
「妖魔……数は、四体……近いな」
微かに感じ取れる情報を読み取り、妖魔の存在を確信する。
現在の時刻は夕日に染まる逢魔が時、妖魔が出やすい時間帯だ。
四体くらいなら、いても可笑しくはないか。
「でも……やけに活発に動いているような」
これは、そう。
まるで、狩りをしているような。
「――不味い」
気がつけば、僕は走り出していた。
誰かが妖魔に襲われているかも知れない。
そう思考が至った直後には、足は地面を蹴っていた。
僕はもう、魔術師ではないというのに。
「ここかっ」
気配を辿り、薄暗い路地に侵入する。
すると、すぐに妖魔の姿を確認した。
四体の妖魔。
その先には幾つもの傷を負った少女もいた。
「グルルルルル……」
四足歩行の獣型。
見た目は中型犬と大差ない。
レートはCか、それ以下だろう。
「この程度の妖魔なら」
彼らは僕を認識すると、すぐに地面を蹴る。
一斉に僕へと飛びかかり、その牙を剥く。
「――」
僕はすでに人間じゃない。
人の形をしてはいても妖魔だ。
自身に宿った妖力を高めれば、かつての姿を僅かにだが取り戻す。
在りし日の妖狐、転生狐に。
「尾槍」
背後より現れるは、黒の狐尾。
四つに分かれた黒き尾は、それぞれが槍となって一閃を描く。
鋭利なる黒の閃は、牙を剥く妖魔のことごとくを貫いた。
か細い断末魔の声が、尾の先で響いて途切れる。
なんとか、倒せたみたいだ。
「ふぅ……」
大きく息を吐いて、黒い狐尾を操る。
僕の意思に従い、尾は貫いた妖魔を地面に捨てた。
大丈夫、操作はできている。
尾は完全に、僕の支配下だ。
そのことに安堵していると。
「――冴島くん?」
血塗れの少女から、名前を呼ばれた。
名乗ってもいないのに。
つられるように、少女を見る。
改めてみた彼女の容姿には、見覚えがあった。
「牙城……さん?」
牙城愛海。
その頭部には、なぜか獣耳が生えていた。
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