3話 魔界に堕ちて
俺が鍛錬に使う広場に向かって走っていると、野生の少女鳥をちらほらと見かける。
ちなみに彼女たちは野生なので衣服を身につけていない。
つまり全裸だ。
いや、鳥に対して『全裸』という表現が正しいのかはわからないが、少なくとも少女の身体に体毛はない。秘められるべき場所が丸見えなのだからやはり全裸だろう。
だからといって興奮はしない。
前世の記憶があるから背徳的だと思うし、直視するのは申し訳ないが、それだけだ。
どうやら少女鳥の興奮対象は翼の羽色にあるらしく、俺も翼の色にテンションがあがるときがある。
それはそれで悲しいので抑えているが、とにかくそういうわけで野生の少女鳥が全裸であることは目の毒にならなかった。
まあ、目の保養にはなるのだが。
愛護ギルドの森の見回り業務はかなり人気らしい。
仕事で森に入れるのは羨ましいと養母ちゃんがこぼしていた。
俺が通る場所は、野生の少女鳥たちがもれなく道を譲るように避けていく。
それはまるで俺に敬意を払うかのようであり、実際に彼女たちの意識には俺に対する敬意があった。
鳥の群れにリーダーはいない。
彼女たちはバラバラに動き、ときに同じ行動をとって集団で動く。
そこに命令系統はなく、上下関係はない。
しかし奇妙なことに、愛護ギルドからは『ボス』と呼ばれる個体が存在していた。
それは最速の個体だ。
少女鳥は走る鳥だが、そのためか最速の個体に対し、他の少女鳥は敬意を表す。
これは野生にのみ確認される現象で、ペットの少女鳥はボスに対して無関心だ。
そして俺は、少女鳥のボスになっていた。
べつになりたくてなったわけではない。
必然ではあったのかもしれないが、意図したことではなかった。
俺はこの世界に転生したあと、やはり強さを求めて鍛錬を続けていた。
とはいえ信念のためではなかった。
前世は前世だ。
上の妹を亡くしたトラウマも、それを乗り越えるための信念も、すべては前世のもの。
前世では、『○○を守る』という信念に縛られて生きていたが、今世ではそれがない。
自由に生きようと思っていた。
しかしこの世界、現代日本に比べて圧倒的に命の危険が多かった。
獣でいえば、少女鳥の森の外から、熊や虎などの大型肉食獣が入り込むことがある。
野生の少女鳥をさらおうと盗賊が侵入することもある。
また、他の地域では魔術を使う獣――魔獣に襲われることがあるらしいし、まれに出没する魔物も油断できない。
力はあったほうがいい。
それに、前世では鍛錬に生きていた俺だ。
生まれ変わったからといってその習慣を止めるのは寂しく、自衛の必要性もあり、鍛錬がメインの生活を送ることとなった。
さて、強くなるにあたり、俺は方向性の転換を求められた。
この身体が人間のものではなかったからだ。
前世で培った武道の技……いってしまえば体術は、あくまで人間のためのものだ。
少女鳥の翼ではパンチを繰り出せないし、関節の可動域も異なる。
走りに特化した足で繰り出す蹴りは強力だが、それにしたって体術の蹴りとは動かし方が違っていた。
前世の体術は流用できない。それなら、この身体に適した戦術を選択したほうがいい。
俺は考えた。
短所を補うより、長所を伸ばしたほうが強いのはどこの世界でも同じだ。
少女鳥は走りに特化した鳥であり、それならと、俺は走りを極めようと思った。
そうして俺は、いわば少女鳥流の走術を一から作り上げた。
身体の動かし方を把握し、そこから導かれる効率的な動きを再現し、ときには結果から逆算して動きを学んでいった。
もちろん幼鳥のころは体作りを重視し、筋トレや柔軟を丁寧に行った。
それから走り込みをしたり、身体を研究したり、走術について考察したり、反復練習したり……走りに特化して徹底的に鍛え上げた。
そして、あれは生後三か月くらいだったか。
俺が森の中を鍛錬の一環として駆け回っていたところ、ある一匹の野生の少女鳥が俺に近付いて併走した。
気にせずにいたら、彼女は俺を追い抜き、見下すように鳴いたのだ。
その挑発に、俺は自分の実力を確認する意味もあって乗った。そしてぎりぎりではあったが勝利した。
異変はその直後に起きた。
俺たちの競争を見守っていたらしい野生の少女鳥が俺に群がってきたのだ。
なにやら祝福されているようだったので反撃するわけにもいかず、わけもわからずもみくちゃにされた。
それ以降、野生の少女鳥から親愛や敬意の念を向けられるようになった。
そのことを愛護ギルドに相談してみたところ、俺が少女鳥のボスになったことが判明した。
つまり、あのとき俺に勝負をしかけてきた個体がボスで、それに勝ったため、俺がボスになったのだ。
なお、それからも俺は走りを鍛え続けたのだが、その結果、明らかにおかしな速度に到達してしまっている。
体感で時速換算すると、野生の少女鳥の平均速度がだいたい時速50km。これだけでもなかなかのもので、前世のとある世界一の陸上選手は時速38kmだから、人よりは余裕で上だ。
そして前のボス、当時最速の少女鳥がおよそ時速70km。ちなみに森の中なので、障害物がなければもう少し伸びるだろう。
俺は生後三か月で前ボスに勝利し、あれから九か月がたった。
空気抵抗がきつくてそろそろ記録を伸ばすのは難しいが、現在、そこそこの力で走れば時速90kmは出る。
障害物を避けるのが大変でストレスなので、森の中で本気を出すのは控えているが、たぶん、本気でやれば時速100kmは出ると思う。
……ちょっと異常だった。
前世で筋肉のリミッターを外してもせいぜい時速50km。
速さだけで強さが決まるわけではないが、少女鳥の動体視力やら脚力やらを考慮すれば、とっくに前世の強さを超えていると思われる。
ちなみに魔術は使用していない。末恐ろしいことに、まだまだ伸びしろはあるらしかった。
いつも鍛錬に使っている広場に辿り着くと、胸騒ぎがした。
曇り空のせいで薄暗い。それが原因なのだろうか?
周囲を観察しても異変はなく、考えても答えは出ない。
いつまでも気にしてもしょうがないので、俺はいつものように瞑想を始める。
立ったまま身体の力を抜き、意識を体内に向ける。
目の焦点は合ったり合わなかったり。
心を解放し、思考をクリアにする。
ここまでにコンマ一秒。
瞑想は前世からやっていた鍛錬の一つであり、俺の得意技でもある。
普通は環境を整えてゆっくり入っていくのだが、俺なら即時発動が可能。
精神疲労の回復や、思考を冷静にする効果がある。
また、【瞑想】の応用に【感知】がある。
【感知】はさらに[体内感知][環境感知][意識感知]に分けられる。
これらは俺の武器になるので、その基礎である瞑想を疎かにしないように、こうして鍛錬の初めに行うことにしていた。
あるがまま、雑念や感情を評価しない。そうして心が凪ぐ。
呼吸や鼓動を聞く。そうして身体の声を聞く。
森の音や匂いを感じる。そうして環境を感じる。
野生の少女鳥の視線を感じる。そうして意識を肌で感じ取る。
自然と一体になる。
……ふと、思い出すことがあった。
この世界には魔術が存在する。
そのことを知ったとき、俺は浮かれたものだった。
男であれば、魔術への憧れはあるものだろう。しかも俺には【瞑想】があり、【感知】がある。 たとえ独学でも魔力を感じ取る自信があり、魔力があれば魔術を発動させられると思っていた。
しかし、それは叶わなかった。
魔界堕ちの話を聞いたから。
『魔力の根源を見つけたとき、魔界に堕ちる』。
幼鳥だった俺は自分の弱さを理解していた。
万が一にも魔界堕ちするわけにはいかなかった。
養母ちゃんは、俺が一歳になったら魔術の使い方を教えてくれるという。
だからそれまでは、俺は魔術への興味を抑え、魔力を探ることを控えていた。
しかし俺も、気づけば一歳になる。
今日にでも、帰ったら養母ちゃんに魔術のことを相談しよう。
そう考え、俺は無意識に警戒を緩めていたのかもしれない。
心地よく瞑想していると、ふいに、身体の中を流れる不思議な感覚に気づいた。
瞑想中は心の状態が無に近く、その不思議な感覚をぼんやりと認識する。
ぼんやりとその流れを感じ、ぼんやりとその流れを追ってしまった。
そこにきて、あっ、と思い至る。
しかしそのときには既に、不思議な流れを生み出している一つの孔を見つけてしまっていた。
焦りとともに、俺は反射的に身構えた。
同時、身体が裏返るような気持ち悪さを感じ、それは一瞬で終わる。
わずかな浮遊感と、着地。
そして、音も匂いも風もすべてが様変わりしていることに気づいた。
油断なく見回せば……現実離れした景色だった。
大地の部分はまだ理解の範囲内だろう。
岩石砂漠、あるいは荒野。ごつごつとした岩場が見渡す限りに広がっている。
人の丈以上の大岩も転がっていて、まるで洪水があったようなまとまりのなさだが、それはいい。
空が……ここが元いた世界――現界ではないことをありありと示している。
虹色だった。
それもオーロラのような帯状ではなく、空一面が虹色だ。
オーロラで空を塗りつぶしたらこうなるだろうか。どこか猟奇的で、目が痛くなる。
遠くの空には島のようなものや、川のような水、岩の集まりが浮かんでいる。
それも同一平面にあるのではなく、高低差はバラバラで、三次元的だ。
なぜ落ちてこないのか。原理が不思議すぎて乾いた笑いが出る。
また、先ほど感知できるようになった魔力がここ一帯を満たしているのを感じ取れる。
しかも、どこもかしこも俺の体内魔力より密度が大きくて濃い。こういってはなんだが、俺の魔力はこの世界では塵のようなものらしかった。
非現実的な光景。
魔力に満たされた世界。
なるほど、十中八九、ここは魔界だろう。
そして認めざるを得ない。
俺は魔力を感知することに成功し、そして――魔界堕ちしてしまったのだと。
……俺は頭を抱えたくなった。
なお、本編は魔界。