39話 悪夢の区画に進入し
2018/01/02 イスハの心情描写修正(話の展開に影響はありません)
前)……それが普通の反応だろう。
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後)……それが普通の反応なのだろう。
前)……ちょうどいい。このくらい離れていれば彼らは安全だろうし、ここまでくれば俺だけでも充分だ。
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後)できればもっと近くまで運んでほしかった。あの境界の向こう側に飛び込まないといけない俺と比べれば、境界のこちら側はよほど安全だ。もっと境界に近づいても大丈夫だろうに……。
いや、ここまでとはいえ、運んできてくれた彼らに感謝すべきか。くそ、恐怖と怒りで余裕がないな。何かの弾みにカッとなりそうだ。こんなことでナイトメアに勝てるのかどうか……。とにかく急がなければ。
「ウーリッ!?」
間違いなくウーリの叫び声が聞こえた! 俺は身体を揺らしながら前方を凝視する。だが、まだ何も見えては来ない。
俺の焦りとは裏腹に、後ろの二人は俺の行動に不思議そうな意識を向けてくる。
「アア? どうした?」
「どうしたって、叫び声が聞こえただろ!? 俺が助けに行く相手の声だったんだ!」
「……叫び声? グド、聞こえたか?」
背後で首を横に振るような気配がある。……なに?
「今のが聞こえなかったのか?」
「聞こえなかったな。テメエの耳が特別優れているか、壊れているかのどっちかだろうよ」
「……」
確かにどこから聞こえたかよくわからない声だった。
まるでウーリが直接語りかけてきたかのような……。
そのとき、前方を注視していた俺はそれを捉えた。
「――何か来る!」
遠方の景色がぶれたかと思えば、それが波のようにこちらに迫ってくる!
後ろの二人に説明している暇はなかった。俺が短く警告を発した直後、それはこちらに届いていた。
[風亡]でかきわける風を突き抜け、ビリビリとした振動が俺たちを襲う。
「……っ」
「ぅお!? 落ちる落ちる!」
地響きのようなそれは、一秒ほどでやんだ。
空中だったのが幸いしたのか、浮遊岩から振り落とされるほどの衝撃ではなかった。ツリ目男が情けない声を上げていたが、俺たちは無事に今の衝撃を潜り抜けている。
とはいえ、今の衝撃は間違いなくウーリたちの戦闘の余波だろう。
くそ……! どっちだ!?
ウーリが攻撃を受けたのか!? それともウーリが死に物狂いで攻撃したのか!?
あの叫び声の意味は!? ウーリは無事なのか!? それとも手遅れなのか!?
ああ、気が狂いそうだ! まだ着かないのか!
瞑想と深呼吸で落ち着こうとするが、心をかき乱す焦燥感が消えることはない。
「ふーっ、ふーっ」と無理やりに精神を落ち着かせていると、後ろの二人から怯えるような意識が向けられてくる。
「お、おい、こんなところで暴れ出すなよ……?」
「……少し黙っててくれ。魔術の制御が乱れる」
「っ……おう」
[風亡]を維持しながら、俺はただ耐えるように待つ。
そして……何分間かの苦痛の時間を過ごしたころにようやく見えてきた。
地平線から姿を現したのは――黒い壁。
それは、見渡す限り左右に続いている。
あの壁は……区画の境界か? だが、境界そのものは透明のはず。
ということは……あちら側は、闇に包まれている?
だが、夢界ではあまりないことだ。お願いの区画にも魔界の区画にも夜は来ない。前世の区画には夜が来るらしいが……前方のあの闇はどうも雰囲気が違う。ただの夜ではなく、根源的な恐怖をかき立てるような闇だ……。
……まさか、ナイトメアがいる場所は、“悪夢の区画”だとでもいうのか?
ひたひたと恐怖が心の底から這い上がる。
さっきまでの焦燥感を上回るようにして、逃げ出したい気持ちがあふれてくる。
恐怖で決意が折れそうになる。
……おいおい、勘弁してくれ。ナイトメア本体だけでも恐怖がきついのに、“区画”にも恐怖の性質が備わっているというのか?
くそ……自分からあそこに飛び込まないといけないのか! やめてくれ。怖いものは怖いんだ。本当に行きたくないんだ。ほら、トラウマのときみたいに身体の震えが止まらないだろ?
頼むから、誰か俺を止めてくれ。俺の代わりにウーリをここに連れ戻してくれ。
本心から、誰かに代わりたいと願ってしまう。
前方の闇の中には、俺の前世のトラウマにすら匹敵する恐怖が潜んでいるように感じられた。
転生してトラウマの記憶は薄れていても、恐怖の味は本能が覚えている。
あそこに飛び込むのだと思うと、瞑想だけでは処理しきれないほどの怯えが心をがんじがらめにする。
「……ちくしょうッ」
逃げられたらどんなに楽か。
諦められたらどんなに健全か。
だが、だが……!
信念が……ウーリを守ろうとする心がっ……ウーリを見殺しにはできないんだよッ!
俺は絶大な恐怖に対抗するために、怒りを燃やす。
それは、俺しかウーリを助けに行く人物がいない状況に対してであり、あるいは、逃走を許してくれない自分の信念に対してであり、また、こんなところで逃げたがる自分の弱さに対してであり、そもそも、この恐怖を作り出しているナイトメアに対するもの。
正論でも逆恨みでも八つ当たりでもなんでも良かった。とにかく、心の絵図を恐怖に染めるわけにはいかなかった。
――怒れ! 猛ろ! 死をも超越する恐怖すら、弾き返してみせろ!
そうやって奮起していると、気づけば浮遊岩の速度が落ちていた。
振り返れば、ツリ目男と長髭親父が震えながら恐怖の方角を見つめている。
「な、なんだよあれは……なんなんだよこの怖さはよぉ……っ」
恐怖に歪む表情は、もうこれ以上進むことができないと訴えていた。
……それが普通の反応なのだろう。捨て身の覚悟をも、くじくほどの恐怖なのだから。
そうして、浮遊岩はついに止まった。
あの境界までは三キロメートルほどだろうか。できればもっと近くまで運んでほしかった。あの境界の向こう側に飛び込まないといけない俺と比べれば、境界のこちら側はよほど安全だ。もっと境界に近づいても大丈夫だろうに……。
いや、ここまでとはいえ、運んできてくれた彼らに感謝すべきか。くそ、恐怖と怒りで余裕がないな。何かの弾みにカッとなりそうだ。こんなことでナイトメアに勝てるのかどうか……。とにかく急がなければ。
「……運んでくれてありがとう。あとは俺だけで行く。おまえたちはここで待っていてくれ」
[風亡]の対象を浮遊岩から俺個人に変え、飛び降りようとする。
返事は期待していなかったのだが、ふいにツリ目男が呼び止めてきた。
「ま、待てよッ。あそこに行くっていうのか!? テメエ、狂ってんのかっ!? 死ぬ気かよッ!?」
「……じゃないと、あそこには行けないだろ」
「あっ、おい!」
今更な問答に声を荒げそうになるのを抑えて、俺は浮遊岩から飛び降りた。
……もう立ち止まるわけにはいかない。一秒でも早く、ウーリのもとに駆けつけなければ……。
落下中にも[負爆]で加速し、地面に着地してからもハイペースで加速してあっという間に最高速度に到達。
さっきの浮遊岩よりは劣るが、それでも時速150kmほどで走行する。
みるみるうちに近づいて大きくなる薄暗い境界の壁。
あの闇に飛び込む恐怖に本能が警鐘を鳴らし続け足を止めさせようとするが、そのたびに悪態をつきながら駆けていく。
そうして近づくにつれ……今走る地面に違和感を覚えた。
小石などが少なく、まるで多数の生き物に踏み荒らされたような跡。
それは前方の境界の壁へと絨毯のように続いている。
……ウーリの仕業か?
だとすれば……この多数の足跡は羊の群れ?
もしかすると、羊の群れを召喚して突撃したのかもしれない。なるほど、ナイトメアに近づく前ならノーリスクで召喚できるからだろう。
とはいえ……いくらウーリの羊の強さが異常だとしても、ナイトメアには敵わないだろう。ナイトメアには思考加速がある。瞬く間に、あの竜の頭で狙い撃ちにされて全滅させられるに違いない。
せめて時間稼ぎになってくれていればいいが……。
そう祈りながら走っていると、今度は境界の周囲の地面の色が違うことに気づく。
その地面の前で俺は減速して立ち止まる。何かの罠だったらマズイ。
変色している地面から熱気を感じた。見れば、一枚岩のように前方の境界まで続いている。その上には小岩どころか小石すら落ちていない。……まるで、できたてのアスファルトのようだ。
慎重に足を乗せてみれば、熱いが、焼けるほどではない。そして固い感触が足裏から伝わってくる。
これは……いったいどういうことなんだ? 地面が焼かれて冷え固まった?
わけがわからないが、ここで立ち止まっている暇はない。大丈夫だと判断し、俺はすぐに駆け出す。
境界は目前だ。
観察すれば、境界の向こう側は暗くても完全な闇に包まれているわけではなく、近くならハッキリと見えるようだ。……それでも精神的にきついが。むしろ何も見えないより不安をかき立てられる。近くが見えるぶん、視覚に頼ってしまい、闇を強く認識してしまうからだ。いっそ目をつぶったほうが精神的には楽だが……。
ただ、俺の動体視力を活かすには目をつぶるのもマズイ。遠くのものは【感知】で把握し、近くに来た攻撃などを視認する方向でいくしかないか。
というか、これ、やっぱり悪夢の区画だ。くそ……。
光源がないのに、近くだけハッキリと見えるなんておかしい。ただの夜じゃない。そういう闇なんだ。
他にも仕掛けがあるかもしれないが……とはいえ、いくら仕掛けがあろうと引き返すわけにはいかない。
怖くて仕方がないが、ウーリの安否が気がかりだ。このままあの中へ突っ込もう。
俺は不測の事態にも対応できるように減速しつつ、いよいよ境界の向こう側へと慎重に進入した。
感知を全開にして境界を潜り抜けたときだった。
全身の肌が粟立つ。
「――!」
咄嗟に横に飛びのいた。身体も重い。身体に変調をきたしている。
なんだ、これは……!
てっきり攻撃の予兆かと思ったが、意識感知に反応はない。
一度立ち止まると、周囲を警戒しつつ体調を確認する。
……息苦しい。身体が震えて鳥肌が治まらない。身体も重い。
まるで、恐怖に完全にとらわれたような状態だ。
しかし、恐怖の強度は変わっていない。いや、現時点でも最上級のそれだが、必死に抵抗して侵食率を心身の半分ほどに留めている。ここにきていきなり体調が悪化するなどおかしい。
「……まさか」
今度は体内ではなく、周囲の環境に感知の意識を向ける。
すると……判明した。
なんのことはない。
酸素濃度が低く、気温が低く、重力が大きいだけだった。
この環境そのものが、恐怖の生理反応を引き出すように設定されていたのだ。
愕然とする。
なんて……ふざけた環境か。
普通の人間では移動すら困難だろう。息苦しくて寒いだけなら山の高所でも体験できるが、そこに身体の重さも加わるのだ。歩くだけでも体力を消耗し、高山病にかかりうる。走るなどもってのほか。ましてや、戦闘などできるはずもない。
しかも、それは恐怖がない場合の話だ。絶大な恐怖が支配するこの場所は、とても人間が活動できる環境ではない。
たとえ人間とは身体の作りが異なる魔物であっても、この恐怖と環境の二重苦は耐えがたいだろう。少なくとも、公魔レベルでなければ臨戦態勢に入ることすら許されないに違いない。
この“悪夢の区画”の徹底ぶりに、乾いた笑いが漏れる。
ここまで恐怖を強制するのかと。ナイトメアとの戦闘をどれほど難しくすれば気が済むのかと。
本当に……自殺だ、こんなもの。この区画の中でナイトメアに戦いを挑むなど、自殺志願者ですら恐れて命乞いをするだろう。
それなのに……。
……ウーリは、俺を守ろうとしてこの先に向かったんだよな。
「くそ」
何度目かもわからない悪態をつき、俺は駆け出す。
――風亡、身体強化。
息苦しさがどうした。俺の呼吸器ならまだまだ余裕だ。
肌寒さがどうした。走っていればどうせ熱くなる。
身体の重さがどうした。[負爆]ほど難しい魔術を使わなければ[身体強化]を併用して筋力を底上げできる。特に問題はない。
この程度で俺は止まれない。止まるわけにはいかない。
それより、早くウーリのもとに辿り着かなければ……。
俺はアスファルトのように固い地面を駆けていく。
[風亡]越しではあっても、タッタッタッと俺の駆ける足音が不気味によく響き、闇の向こう側へと伝わっていく気がする。
これもまた恐怖心をあおってくるが、そんなことよりも……。
……静かすぎた。
そういう環境なのだろうが……あまりにも、音がなかった。
……それはつまり、ウーリの戦いが終わっているということではないのか?
「っ! ウーリッ!?」
俺はその可能性に気づくと同時、叫んだ。
すぐそこまで迫っている恐怖の発信源へと一直線に駆けていく。
……間もなく、ナイトメアの魔力を感知し、遠目にそれの姿をぼんやりと視認した。
相変わらず恐怖と強さの存在感が際立っているが、今はそれに構っている余裕はない。
「ウーリッ! ウーリ、どこにいるッ!?」
目を見開いて周囲を探せば……いた。
ナイトメアの正面、数メートル先。
薄暗くて、寒くて、物理的な重圧すらかかる固い地面の上。
そこには……敗者として這いつくばうウーリの姿があった。




