30話 恐怖の魔物に襲来され
「逃げるぞ! ラウレ、ミィク、恐怖の魔物がすぐにここに来る! 情報不足だ、あちらから仕掛けられるのはマズイ! 俺たちは転移で逃げる! ……いや、ミィクも転移で送ろう! それでいいか!?」
撤退の判断は一瞬だった。
敵の情報がない。今の俺で勝てるか不明。
一度偵察に行くべきなのに、相手から仕掛けられている。
こんな状況で戦うのは無謀だ。死ぬからではなく、負けて目的を果たせないことが最大の懸念。信念を貫くには、万全の準備を整えるべきなのだ。
転移で逃げるという判断に、ラウレはすぐにうなずきを返してくれる。
俺はミィクにも転移の意思確認を行った。彼もすぐに了承してくれるものと思っていた。
……だが、ミィクは肯定ではなく違う言葉を返してくる。
「一つだけ。あれがウーリトゥーリさまと敵対している理由はなんでしょう?」
なぜ今それを!? と焦りが思考を遮ろうとするが、努めて瞑想し思考をクリアにする。
焦りこそ無駄。逃げるだけならウーリの転移により一瞬で済む。ミィクの意図は定かじゃないが、長話でなければ問題ない。
俺はミィクに早口で返す。
「あれがウーリトゥーリの領域に入ったあと、ウーリトゥーリを敵視するようになった。それ以外の理由は知らない」
「そうですか……自業自得ではない、と」
「それより転移で送らなくていいのか?」という言葉を俺は飲み込んだ。ミィクの雰囲気がわずかに変化していたのだ。
「ふむ。あちらから来るのでしたら、仕方がありません。あれと関わることなく早くサミットに帰還し、新しい刀を愛でるつもりでしたが……敵に襲われて逃げる貴女方を目前で見過ごすのも具合が悪い。このミィク、助太刀しましょう」
いかにも心のこもった声で、しかし興味のなさそうな淡泊な意識を向けてくるミィク。
戦力としての彼は魅力的だ。さっきまでそれを期待していたのでつい歓迎したくなる。だが……彼が情によって動いていないのは明らかだった。彼が何を理由に動いているのか、俺にはわからない。
気まぐれか、それとも別の狙いがあるのか。なんにせよ、戦いの途中で鞍替えされてはたまらない。
俺は彼の真意を確かめようとして、その前にウーリに確認を取る。この際なのでウーリ呼びは解禁だ。
「ウーリ、襲撃まであとどのくらい?」
「――もうちょっとぉ!」
「ぎりぎりになったら教えてくれ」
「はぁぃ!」
……まだ会話の猶予はあるか。
俺はすぐにミィクへと会話の対象を戻す。
「あなたが俺たちに協力する理由を教えてくれ。じゃないと信用できない」
俺が端的に問えば、ミィクは少しだけ困った意識を向けたあと、涼しい表情を変えないまま答えた。
「シテアハネさまの教えには、文化の保護があります。そのためには、不当な暴力を許すなとも。
私には、貴女方が不当な暴力から逃げているように見えました。これを助けることは、貴女方のサミットへの訪問、および文化の発展を促すことに繋がると判断しました」
ミィクはもっともな表情で言ってのける。
だが、その意識は相変わらず冷めていた。どうにも本心を述べているようには思えない。
「建前はいい。本音はなんだ?」
突っぱねるようにして、きつく問いただす。
ウーリとラウレから不安そうな意識が向けられてくるが、ここで妥協するわけにはいかない。確かにミィクを疑い続けるのは彼の好感度を下げるだろうが、しかし伏兵を味方に入れるほうが怖いのだ。
ミィクはやれやれと首を振ると、感心するような意識を向けてきた。
「そこまでわかりますか。仕方ありません、話すとしましょう。
薄々察しているかもしれませんが、私は他人ごとに興味がありません。自分の身が安全ならそれで満足です。ただ――旅は道連れ世は情け。長生きの知恵と言いましょうか、情けは身を助けます。それがたとえ本心ではなかったとしても。……理由としてはその程度です」
涼し気な笑みに、自信の意識。……どうやら本気で言っているようだった。
背筋を寒いものが走る。
ミィクの在り方が、なぜか恐ろしい。
人に興味がないからこそ、助けることに理由を求めない。それは究極の献身でもある。
だが、目的なき献身は自殺願望とそう変わらない。
そんなのは建前だ、別の目的があるに違いない。そう言いたくなるが、しかし彼の意識が本音だと告げている。
空虚な献身。それは人を装う人外にしか思えないほど、無機的だ。
理解しがたい。
ゆえに、信用しづらいが……とはいえ、力を貸してくれるのは事実だろう。
感情的理由のない助力が処世術だというのなら、終始一貫してその主張を曲げることはないはずだ。一応、戦力として数えることはできる。
ならば――好機。
ミィクの力を借りられるなら、確実に恐怖の魔物にも勝てるだろう。
「ミィク、その言葉信じるぞ」
「ええ、どうぞ」
「よし、それなら予定変更だ」
俺は彼を受け入れると、すぐにウーリへと指示を出す。
「ウーリ、ラウレを連れて逃げてくれ。俺とミィクで恐怖の魔物と接触する。もし万が一、俺たちが危なくなったら転移で俺たちを逃がして……」
「――コワイノがいるとぉ、能力使えないよぉ!」
「……そうか」
思いがけない言葉。
だがウーリの力添えがなくなる不安より、恐怖の魔物への怒りがこみ上げる。
……くそが。どれだけウーリを抑えつければ気が済むんだ。
「それなら、俺たちがあれを倒したあとに合流してくれ。それまでは待機で」
「はーちゃん……」
「大丈夫だ。こちらにはミィクがいる。それに万が一があっても、俺とミィクなら逃げられるだろう」
「わかったぁ! 死なないでねぇ!」
「……ああ」
俺は絞り出すようにして答える。
……ウーリが目の前にいなくて良かった。もし面と向かって話していたら、思わず視線を逸らしていただろう。
もちろん今回はミィクがいるので安心だが、しかし信念を果たすためなら死も覚悟することは変わらない。ウーリのためにもできるだけ死なないようにするつもりだが、ウーリを守るという信念と自分の命が天秤にかけられたなら、迷わず前者を取る。
いつか、死なないでというウーリの言葉を破るときが来るかもしれない。
「――あぁっ、コワイノもう来るよぉ!」
「了解した。ウーリはラウレを連れて行ってくれ」
ウーリの「はぁぃ!」という返事を最後に、ウーリとラウレの気配が消える。無事に転移したのだろう。
俺はミィクの隣に並び、恐怖の方角を見据える。
「最初はあれと少し会話したい。ウーリと敵対する真意を確かめる必要がある」
「ええ、構いません。私も貴女を手助けする正当性を確認するために、その会話を聞かせてもらいます」
手助けする正当性か。部外者の彼からすれば当然の主張だろう。
「ああ、そうしてくれ。
それで戦闘についてだが、俺の武器は走りだ。相手の攻撃をかわしながら接近し、最後は蹴りか魔術で相手を攻撃する。遠距離攻撃はできないのでそのつもりで頼む」
「そうですか。私も近接戦主体なので似たようなものです。見ての通り、刀で戦います。相手の攻撃を切り捨てながら近づき、最後は相手を斬り捨てます」
さすがは刀の魔王といったところか。何もかも切り裂くであろうその切っ先が俺に向けられなくてホッとする。
俺は了承を返すと、口をつぐむ。
そろそろ恐怖の魔物が来る頃だと思うが……。
しかし、恐怖の魔物がこちらに近づいてきている気配はない。
草の広がる丘陵地帯はいつものように晴れ渡り、温かな風がさらさらと音を立てている。
……嵐の前の静けさだろうか。
なんにせよ、まだ時間はあるのかもしれない。
作戦を立てておくべきだろうかと考えたとき、ミィクが穏やかな調子で口を開く。戦闘直前かもしれないのに、それを感じさせない相変わらずの態度だ。
「私も貴女も近接戦主体なので、両サイドから相手を攻めるのが良いでしょう」
……なるほど、相手の狙いを散らすのに有効か。
俺に共闘の経験は少ないから、こういうアドバイスは助かる。
「了解した。それでいこう。
……本当は俺一人でこの件を片づける予定だったんだが、あなたが協力してくれて助かった。おかげで命を懸けずに済みそうだ」
「そうですか、それは良かった」
嬉しそうな口調とは裏腹に、ミィクの意識は淡泊なままだ。
まだ状況が動きそうにないので、ミィクのそれに言及する。
「なんというか、そこまで演技できるのはすごいな」
「そう見えますか? そうかもしれません。貴女だからこそ言いますが、貴女の事情にはあまり興味がありませんので」
「……そうか。なにはともあれ、その力、頼りにしている」
「ええ、任せてください。これでも第四公魔ですから、私に勝てるのはシテアハネさまと、上三人の公魔ぐらいのも、の、で………………」
ミィクの言葉が途切れたことなど、気にしている余裕はなかった。
気づけば丘の下に、人影が一つあった。
俺は身構えようとして、咄嗟に身体がすくんだ。
心の底から猛烈な寒気が這い上がる。
理解不能の生理現象に頭が真っ白に染まる。
全身がぶわっと粟立つ。
あの人影から視線を外せないまま、膝をつく。
両翼で身体を抱く。身体の震えが止まらない、
頬が引きつって、あごが震える。涙が浮かぶ。
視野が狭まる。あれしか目に入らない。
喉がきゅっと締まり、動悸の音しか聞こえない。
心が悲鳴を上げる。
逃げ出したくて仕方がない。
あれの視界に入りたくなくて、尻もちをつきあとずさる。
……頼むから、こっちを見るな! どこかに行ってくれ!
他のことなどどうでもいい。
あれから逃げるためなら、自分以外の全てを差し出したくなる。
どこかに隠れたい。だが隠れる場所はない。
足腰に力が入らず、焦燥がこみ上げる。
……俺は取るに足らない相手だから!
見逃してくれ! 俺以外を相手にしていてくれ!
俺以外なら殺してもいいから!
どうか、命だけは……! 俺の命だけは助けてくれ!
――俺の命?
まともな思考ができない頭の中で、何かが引っかかった。
――それで助かってどうする。
ウーリが死んでもいいのか? 信念は?
「……ッ!」
途端、すべてを思い出した。
自分が恐怖に支配されていることを理解する。
同時、むやみやたらと怒りがこみ上げた。
……くそがッ!
あいつ、いつの間に現れやがった!
というかこれ! こんなのありえないだろ……ッ!
俺が信念すら忘れて怯えるなんて、異常すぎる!
ふざけた能力しやがって、くそったれが!
俺は相手をきっと睨みつける。
尻もちをついた状態からよろよろと立ち上がるが、依然としてこの質量を持ったような恐怖は健在だ。身体の震えは止まらないし、力が入りにくい。身体の制御もうまく働かなくて、重心がぶれる。信念のことがなければ、身体を縮こませて震えていたくなる。
しかし、その理不尽さをばねにして怒りを燃やす。
だが……怒りに身を任せてもいけない。
頭に血がのぼれば敵の思うつぼだ。思考は単純化し、簡単な罠にも引っかかるようになる。
冷静さを欠けば、勝てる戦いにも勝てなくなる。
――瞑想。
感情はそのままに、頭の中は冷静に。
……さて、俺の敵はどんな奴だ?
努めて無感動に、丘の下の人影へと視線を向ける。
ついに姿を現した恐怖の魔物。その身長は高く、170cm以上あるだろう。白いローブに全身を包んでいて、フードの下の顔は影になっている。だが顔はフードに完全に隠れているわけではない。奴の顔をよく見ようとして注視する。
……なんだ、あれは。モザイクのような黒いモヤが顔にかかっていて、表情の判別もできない。不気味で気持ち悪い。恐怖がこみあげてくるので、すぐに視線を他に移す。
ローブはだぼついていて、性別不詳。ローブの白地には幾何学模様が描かれているが、その意味は読み取れない。そして今更だが、その背中から黒い翼がいくつも伸びていることに気づく。
……七対の黒翼。それもカラスのような整った翼ではなく、羽の生え方が乱雑でおどろおどろしい。飛翔能力を失っただろうそれは、堕天使を彷彿とさせる。それらは左右に大きく広がっていて、身体を大きく見せているのか蜘蛛の巣のような不快な圧迫感がある。
恐怖で曇っていた目にも、相手の姿がハッキリと見えるようになってきた。だんだんと心の視野が戻ってきたように感じる。
あれがまだこちらに意識を向けてきていないことも、心理的余裕を生み出している。
今のうちにあれの力を測っておくべきだろう。
俺は魔力感知に意識をやり、同時に武術的な勘からもあれを観察する。
……予想していた中で、最も楽なのは大魔だった。
もちろん恐怖の能力は厄介だが、恐怖で心身が鈍るなら、それを踏まえて動けばいい。俺一人でも倒すことはできるだろう。
最もありえそうなのは、公魔だった。
そうなると今の俺だけでは厳しい。俺も走術と魔術をかけ合わせて公魔と対抗できるだろうが、それは良くて対等を意味する。
ましてや公魔が武術も身に着ければ、ミィクのように俺より強くなるだろうし、能力の相性によっても俺の立ち位置は容易に格下に転じる。信念を果たすためには確実な勝利が望ましいため、今の俺だけで立ち向かうのはまだ不安だった。
そこにきて、ミィクの力を借りられた。
そうなると公魔相手でも不安はない。
たとえ恐怖の能力があっても、たとえ武術を身に着けていようと、勝てるだろう。そう思っていた。
「……ぁ」
自分の感覚を疑った。
何度も魔力感知と勘を働かせた。
しかし、いくら繰り返そうと結果は変わらなかった。
……愕然とした。
そんなこと、ありえるはずがなかった。
しかし俺の感覚によれば、明らかだった。
あれの魔力密度も、強者としてのプレッシャーも、間違いなく――ミィクより上だったのだ。




