第一話「界渡り」
3歳児→5歳児に変更
――おかしい。俺、東野真はつい先ほどまで、高校で怒られない程度にさぼりながら授業を受けていたはずだ。
……それなのに、俺の視界は、まるで、人間の五感にはそれを受け入れるだけの器がないような、本能的な拒絶……もしくは生理的な嫌悪とでもいうべき、訳の分からないものに覆い尽くされている。正直訳が分からない。
最初は夢かと思ったこの光景だが、夢にしてはリアルすぎるその感覚に、俺はこの光景を現実と認めるしかなかった。
と、その時。
「あ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁぁ!」
耐え難い痛みが全身を襲う。
……更に、それを後押しするかの様に恐ろしい不快感。五感の大半が本能的な嫌悪を感じていて、ぼうっと意識だけが置いてきぼりにされてるような感覚。
かつての黒歴史もここぞとばかりに思い出し、ズタズタになった心を更にえぐる。そして、それらの記憶は肝心な時には忘却の彼方のくせに、こういう場面ではやけに鮮明に思い出されるのだ。
……あれは小学校高学年の修学旅行の時。テンションが無駄に高く、いじられっ子ですらウェイウェイしていたバスの中。旅館で抑えきれなくなったそれは行動として現れた。
風呂の時間。俺たちは猥談に興じて、ある種異常なほどの興奮状態にあった。悲しきかな、大半の人間は「特別」な状況に興奮し、踊らされるのだ。
勿論、それは理性で抑えることができよう。しかし、子供はより本能に忠実なのだ。
クラスの調子に乗った輩が、屋外にある露天風呂の柵を上って例の場所に特攻した。それを合図に特攻する彼の同士と、続けて聞こえる女子の悲鳴。
途中まで我関せずを貫いていた俺だったが、その時は周りに流され……ああああああああああああああああああああああああああああ!うわああああああああああああああああああああああああああああああああ! 頼むから思い出させないで!!!! 死にたい!! この世から消えてなくなりたい!! あの時はどうかしてたんだああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!
……死にたい。もうやめてくれ。ところでそう、あれは中学二年生の時。絶賛性の目覚めを感じてた俺だっあああああああああああ!! tがygっふぃうvっああああああああ!!!!!!!! やめてえええええええええええぇぇぇぇ!!!!
☆しばらくお待ちください☆
――なんだこれ。感覚はげんなりするし、心は削られるし、無駄に鬱になる。うん、最悪だ。心を折るためだけにあるじゃん。
それでも、この状況に慣れてきたのか生理的嫌悪を感じることはなくなり、脳の痛みも幾分か落ち着いてきた。
……脳の痛みは。
脳が鮮明になって気づいちゃったんだ。体からもボキィ!! グシャァ!! ブチブチブチッッ!!! っていう恐ろしい音と同時に、強烈な痛みを感じることにね。
……それも心が折れない程度に。
もうやめたい。終わりたい。この感覚から気を紛らわすためにエロ方面のことを考えようとしたが(性欲だけがほかの感覚よりも強いから、この状況もそれでどうにかなると思った)ムリゲーでした。例えるなら、全力疾走をしているときにそっち方面のことを考えているようなもんだ。唯一の武器? さえも聞かないなんて……
しょうがないから数を数えることにしたけど、百万ぐらい数えたところからやめた。まさか、現実で〇億年ボタン(か、それ以上に酷くね?)を体験するとは……本当に死にたい。心を自分で折りたい。
でもそれはできない。しようとしても、まるで何かから守られているように心はそれを拒絶する。やらないのではなく、何故かやろうとしてもできないのだ。無間地獄じゃん。
俺が何をしたっていうんだ。このしがない一高校生の俺が。
……この世の中はやっぱりクソゲー、ただの理不尽だ。呪っても呪い過ぎることは無い程に。
俺は怒り、惨めさ、憤り、後悔……そんな矛先のない負の感情をどうしようもできず、叫ぶしかなかった。
「もう……もう、やめてくれ――――――!」
……悲痛な叫びは、しかし誰に聞かれることも無く静かに消えていった。
それから俺は……悠久とも呼べる果てしない時の流れを感じて。
◇◆◇
それは唐突だった。
「怒り」が消えた。怒っても無駄だと悟ると驚くほどさっぱりと消えたのだ。少し諦めの面があったかもしれないが、それでも自分でも意外な程綺麗に消えた。
次に、「惨めさ」が消えた。これは時間の経過と共に消滅した。やはり実態のないものに起因する感情だったからだろうか。
そして、最後に有りっ丈の時間を使って「後悔」が消えた。自分自身との向き合いなのでこれが一番長かった。
誰にだって黒歴史はある。失敗もある。そしてそれらは決して変えられないが、未来は変えられる。要するに過去をどうにかするのではなく、今の自分の過去の出来事の受け取り方を変えればいい。そう考え、過去の自分との折り合いをつけた。
(そう考えでもしなければ黒歴史に押し潰され精神的に逝ってしまいそうだった、というのもあるが)
白状しよう。俺は、小学生の時糞が付くほどのやんちゃだった。そのせいで、いろんな失敗を犯した。女湯に特攻したのもその一つだ。
中学生になると、自分が特別な存在だと思い込み中二病になって、痛々しい態度を同級生にもとった。あの頃の俺は、正直イカレていた。
クラスでも、「一匹狼の俺、超かっこい―!」とか平気で思っていたし、百均の玩具を少しいじって「死の黒」とか安直すぎるネーミングの銃を作っていた。……これでもまだマシな方なのだが。
それもあって、俺はクラスの目の上のたん瘤に成り下がっていた。当時俺は右を選ぶ九十九人と左を選ぶ一人なら、左を選んだほうがいいと思っていたのだ。
特別な力を持たない者が他人と協調せずに動いても当然の如く失敗するだけ。その通りなのは気取った代償に三年間で嫌という程学んだ。……今思うといじめられる要素が多すぎるぞ、俺。
さらにこれは中学も終わりの方だったが……俺は顔的には女六:男四の、中性的を通り越して女っぽく女装向きの顔をしていたので、ちょっとした好奇心……まあ、思春期にありがちな変身願望でもあったんだろう。ふざけて女装した写真を完全にアカウントから一人で作ったりして遊んでいた。
男性ならば一度は抱く妄想、所謂「自分がもし女だったら」というのを本気でやっていたのだ。
それだけならまだいい。しかし、それだけにとどまらなかった俺は、思いのほか好評だったこともあり、調子に乗って一人の人物を作り上げていた。
語尾が必ず「なのです」で終わり、天然でマイペース。オタク方面にも理解がある。勉強は少し苦手でかわいい。そんな画面の中でしか見れないような設定の18歳の少女。名前は自分の名前を安直に文字って橙野 真。会話をしたい、なんて言う相手にはお得意の「マイク壊れちゃった(><)」。
悪ふざけで始まった女装は、そんなこんなで完全に取り返しのつかないところまで来ていた。その後、俺は致命的なミスをして精神的に大きなダメージを受けたのだが……それは別の話だ。
ほかにも、小学校の時幼馴染からの「放課後校舎裏にきて」という約束をすっぽかすわ(名前は水……何とかだっけ? すっぽかしたのが原因で顔合わせづらくなって自然と会わなくなったが)、自分が主人公の小説を作るわ(完結後、なぜか人気が出て二百万pv辺りになってから怖くなって消した)、小六にもなって親と風呂に入るわ(これは何のひねりもない黒歴史だな)、とにかく数えきれないほどの失敗(最後のは違うが)をした。
しかし、それらの行為は今の俺にはなくてはならないものだったように思う。
やんちゃで失敗ばかりしていたので、どうしたら失敗しないで済むのかよく考えた。
尖ったことばかりしていたから丸くなっていった。
過去は変えられない。どんなことをしても、どんなに善行を積もうと、過去は襲い掛かってくる。
しかし俺はその全てを今の自分の材料であるとして、受け入れたのであった。
そこから先は、あっけなかった。どんどん負の感情は消えていき、最後の方には、不快な感覚を受け入れている自分がいた。
もしかすると昔の聖人はこの様な状態を「悟りを開く」と呼んだのかもしれない。……彼らと違い、俺は無理矢理悟らざるを得なかったのだがな。
……この状態を知った俺なら、これから先どんなに不愉快なことがあっても耐えきれそうな気がする。
どんな困難も、どんな惨痛も、無窮の時間を苦痛まみれで何の達成感もなく過ごした、この無限地獄が比喩でない時間よりはマシだといえるだろう。
そんな場所にいたら人間としてぶっ壊れると思うのだが……どういう風の吹き回しか俺は耐えきった。今後これ以上の苦痛はたとえ自分の手で直接首を絞めて自殺したとしても訪れないだろう。
——そんな事を考えていた俺だが、先の空間との別れは唐突に訪れた。
急に視界が開けたかと思いきや、瞬きをした次の瞬間周囲が白に染まっていたのだ。
これは……何が起こると考えるべきか。真っ先に思い付くのは天国、そして地獄だ。さっきの空間での体験が地獄そのものだったので後者はもうこりごりだが。
それ以外に思いついたのは、ノリが軽すぎるかもしれないが、最近ハマってるラノベの異世界転生の案内をされる場所。簡単に言うと、「神の間」だ。
やはり前後関係を考えると、こちらの方がしっくりくる。
だって学校で黒板魔法陣からの異世界召喚ってテンプレじゃん。周囲に他のクラスメイトがいないことには疑問符が付くが……細かい事は気にしないことにしよう。
すると見るからに清廉な雰囲気の白い髪の美女、いや美少女が、荘厳な鐘の音と輝く光、そして舞い散る羽とともに……
……登場しませんでした。一番予想しなかった展開です。なんかテレパシーでしょうか、頭の中に直接声が響いてきます。手抜きなんですね。
「手抜きではない。時間がないんだよ」
それをてぬk「だから手抜きではないって!!」
……どうやら考えを読み取れるらしい。セクハラもへったくれもない糞仕様だ。
まあ普通人間である俺なんかの思考にはどうせ一銭の価値もないだろうし、どうのこうの言っても何も始まらない。とりあえずはこの……テレパさんに話を聞こう。
「ちょ!? 僕はテレパさんなんて安直な名前じゃないし、その呼び方はやめてくれ。
まったく……最近の人間は何をするにも尊大な態度をとって仕方ない……ゴホン、まずは自己紹介をしよう。僕は君の世界で『神』と呼ばれている存在だよ」
そこは簡単に察せられるよな。大体こんな空間、それこそ神でもいなければ存在しないだろうし。
「じゃあなんで最初にテレパさんなんて言ったんだ……
それはともかく、君は異世界に勇者として召喚されたはずだった。わかりやすく言うと失敗しちゃったのかな」
って……本気で異世界召喚だと!? 冗談だろ?
「いいや、冗談じゃない。君はクラスの皆と一緒に異世界に召喚される予定だった。でも、君は魔法陣の加護から離れてしまって失敗しちゃったんだ」
自称『神』から語られる衝撃の事実。
……歓喜すべきなんだろうか。夢にまで見た異世界召喚。
いいや、神は失敗と言った。現実は小説みたく都合の良いものでは無いし、詫びチートなんかないだろう。
……でも、わざわざ神が俺の所まで来るって事は……何かしらの対応を期待してもいいよな。
「ちなみに君が地獄とか言っていたのは『界渡り』……平たく言えば世界と世界の間の旅かな……を、ほぼ保護なしで行ったからだよ。普通は何重にも保護をするんだけど、君の場合『一番大事なところ』だけしか保護を受けていなかったみたいだし。それでも普通は消滅するよ。現に君の肉体は前とは別人になっているし」
……ん? 俺ってそんなことされていたのか? というか別人ってことは容姿も変わってるのか?
「察するにどんなに辛くても心の根本的なところは『折れなかった』んじゃないかな。恐らく無間地獄って感じだったんだろうね。まあ、きみの適応力、動じない心のお陰でもあったりするんだけど」
そうだったのか。
「まあ、それしたの僕だけどね」
はあ!?
「さらに言えば僕、精力とか子だくさんの神様だから」
も、もしかして
「君が性欲絶倫なのもぼくの加護の副作用だろうね」
……話は終わりだ。呪い殺してやる。
「ちょちょちょ、ちょっと待ってよ! 僕自体こんなことになるなんて予想してなかったんだ! そう、ほんの出来心でやったんだ。
なんとなく地球に行ってたんだけど、君はなんとなくポテンシャルが他の人よりも高かったんだ! それで面白そうだからなんとなく気まぐれについ……いや僕だって君が損しかしないようなことはしてないよ? その時君が死にそうだったから僕は加護を掛けたのだし、現に君は先の界渡り、僕の加護のお陰で生き永らえてるじゃないか」
なんとなくが多いし、疑問しかない言葉だな。一体どこまでが本当なのか……まあいい。今はそれより大事な話が有る。
結局どうして異世界召喚からも省かれた俺なんかと、精力と子宝の神様が話してるんだ。
「いやあ、僕はそんなことをして、さすがに何も感じないような無慈悲な神でもないわけよ。そこで、せめて異世界でも生きていけるように、ちゃんとしたところに送り届けようと思うんだ。このままではどこかやばいところに行ってしまいそうだしね」
……変なところに送ったら承知しないぞ。それこそやばいところからやばい力でお前を殺してやる。それ専用の宗教も作って。
「大丈夫。常識には少し疎いけど、僕が知る限りその世界ではかなり強い人の近くに移動させるから……おっとどうやらそろそろタイムリミットのようだね。
無理やり界渡りの空間に干渉してるから制限時間があるんだよ。こればっかりは仕方ない。
最後に……そうだね、君の今の状態について話そう。ズバリ、君は人間を辞めてる」
ファッ!?
「界渡りの時に肉体が作り替えられたんだ。君も界渡りの途中肉体がボキボキなってたのは感じただろう? 見た目は人間の5歳児くらいかな。……成長はするよ?」
まじか……最後に爆弾落としてきやがった。人間を辞めてる……か。どんな方向にやめているのだろう。
一番に思い付くのは身体能力だが、それじゃあ捻りが無い様にも思える。
まあ知らない女性の乳を吸わなければならない年齢じゃなかっただけましと言えよう。転生系の主人公がよくやってるけど、多分あれはその手の性癖が無ければ拷問だ。
「君の異世界での生活が平穏なことを祈ってるよ。それでは、機会があったらまた会おう! アデュー!」
直後、白い世界は音もたてずに流れる水の如く崩壊していき、俺の意識もドバっとダムが決壊したかの様に情報量の海に飲まれて、それからプツリ、と途絶えた。
◇ ◆ ◇
知らない光景、心当たりの無い忠告。
風が吹いている。弱い筈なのにさあっと鳥肌が立つ様な悪寒を感じさせる風が。周囲は何も無い草原で。
目の前には輪郭線の定まらない、顔を鉛筆でグシャグシャに塗り潰された奴が立っている。
そいつは表情を見せることもなく女の声で一方的に語り掛ける。
「君はこれから行く異世界で何かを手に入れ、何かを失うだろう。
君は恵まれてる。異世界召喚の事実からもそれは理解できるだろう。でも、それはとても脆い。大事なものを失いたくなければその事実を忘れるな。幸せの山からどん底の谷に落ちることとなる」
語り終わってどこか満足そうに去っていくと、どこからともなくまた、同じ奴が現れる。
そうして、何をすることもなく、目の前の何かは語り掛ける。
「君はこれから行く世界で何かを手に入れ、何かを失うだろう。君も、ご都合主義は起こらない主義だったからそんなことは判ってるはずだ。
でも、異世界召喚……その考えだと最上級にありえない事が起こったって事実がその考えを歪めてる。
最後の最後、そんな得体の知れない代物には絶対に頼るな。それまでに折れても立ち直る心になれ。何度でも立ち上がるんだ。言いたいことはそれだけだ」
語り終わって入れ替わった目の前の何かは酷く平静に、あくまでそれが役目だという風に語り掛ける。
「君はこれから行く世界で何かを手に入れ、何かを失うだろう。
さて、君はどうだか知らないが、『俺』は『俺』ではなかった。それはどうしようもなく残酷な事実で、酷く心を壊されたよ。では質問だ。答えなければ最後、後悔が君を埋め尽くす。
君は……本当に君か?」
止めろ、やめてくれ。こんなの界渡りより、あの時より……全てを失った時より惨い。
ん? あの時? あの時ってどの時だ? 全てを失う? ここに肉体は五体満足に存在してるのではないか。それにまだ一連の出来事で何を失った訳でもないはずだ。
こんな説教めいたこと、はっきり言ってどうでもいいはずなのに。これじゃあまるで思考に横槍を入れられてるようではないか。こんなの、俺じゃない。俺じゃない。俺じゃない俺じゃない俺じゃない俺じゃないオレジャナイ……
思考が勝手に先行する違和感に、まるで先の言葉通り自分が自分じゃない様な気味の悪さを覚え、とんでもない吐き気を催すが……それでも目の前の何かは語り掛ける。
「君はこれから行く世界で何かを手に入れ、何かを失うだろう。それは現時点では想像もつかないことかもしれない。しかし、これだけは忠告できる……裏を返せばこれくらいしか俺にはできないんだが……気の利いた小言は趣味ではないし、いくらでも俺はいる。そんな物は他の俺に任せよう」
不快感を耐えることで一杯一杯で質問なんかできる状態じゃなかったが、精一杯精力を振り絞ってなんとか質問をする。
「ちょ……ちょっと待てよ……お前等は一体何なんだよ!」
しかしそれに応えることも無く、目の前の何かは唯、語り掛ける。
「君が行く世界。そこには『魔法』なんて小洒落たものはあっても……
……『奇跡』なんてものはない」
目の前の何かは語り掛ける。
目の前の何かは語り掛ける。
目の前の何か……ハ………………・・・・・・・・・・・・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
風が、酷く不健康そうに吹き抜けた。
◇◆◇
「……………………目の……前?」
気が付くと、目の前には誰かが、顔を覗き込んでいた。