第4話 言い掛かりの痴漢冤罪 Ⅲ
周囲の人々は、すっかり足型の付いてしまった少年のそのハンカチを記憶していたようで、そして、それが彼の無実の証拠そのものであると認めたことから、場の空気は彼を責め立てるものから、擁護するものへと変わっていく。
彼の目からは涙が流れ出してきた。
彼は嬉しくて泣いている。感激して、感謝して、泣いている。しかし。ここで舞い上がりはしない。勝ち誇りはしない。未だ完全に勝ちを掴んだという訳ではないと知っているから。
当然のように
「はあ、あんた何言ってんのぉ?」
化粧臭い女はガンを飛ばしてくるが、女の子はそれに怖気づくことなく、
「この人は痴漢じゃありません! 痴漢じゃない人を痴漢だって嘘つくのって、犯罪ですよ」
毅然とした態度で言い放った。その小さい体のどこにそのような勇気が込められているのか不思議な程に。
すると、女は逆上して拳を振りかざし、
「ふざけんなよ、このガキがぁぁぁっ!」
彼女を殴ろうとしてきた。急なことだったので駅員はそれに反応できず、汚い拳が女の子にぐんぐん迫る。彼女は目を瞑って顔を逸らし、回避行動も取れず、竦んでいる。
それは、彼が警戒しつつも望んでいた展開の一つ。女の発言力が消えるからだ。しかし、そんな風に打算的で冷徹である彼は、自身を助けてくれた彼女が殴られるのを黙って見ているだけなんてできない位には勢いと熱で動いてしまう性でもあった。
利用はしても、切り捨てたり見捨てたりはできないのだ。
(させるかよぉ!)
少年は、女の子と女の間にさっと入り、
ビキィィンンン!
(想定してたから、なぁ! それに、分かってたのに打たせた。俺自身の為に。自分勝手に。だからこそ、この子にそれを届かせないようにするのは義務だ)
放たれたそれを彼は握り止めた。
メリメリメリ!
「おいおいおい、そりゃ、無ぇだろう? あんた。口封じなんてよぉ。これであんたの罪状、増えたぜ。脅迫罪、暴行未遂、いや、俺が受けたから、未遂じゃなく、暴行罪、だな。それに元からある、俺にしでかした痴漢でっち上げ、虚偽告訴罪。これだけ証人がいて、しかもあんたは現行犯。詰みだ、詰み」
思った以上に痛む左手掌。だが、彼は堪えて、女の右手拳を、逃さないように握り続けながらそう言った。
(予想していたのよりずっと痛ぇなぁ……。恐らく罅までは入ってはいないだろうが。こうやってこの女の拳を振り払われない程度には強く握っていられているからな。この子を巻き込んだ、餌にもした形になった以上、この女に逃げられる訳にはいかない。ここでケリを付ける!)
そして、周りの空気は更に彼に都合良く傾いた。
明らかにこの女が悪い、と、周囲の人々の誰が口に出そうが一切問題ない風に。周囲は女を強く睨む。野次も女に対するものに変わっている。
そして、いつの間にかやってきた女性警官に気付いた彼は、取り抑えを任せようと、女の拳から手を放し、引き渡した。
左手掌に走る鈍い痛みが思ったよりきつかったので彼は顔をしかめる。そして、
(にしても……痛ぇ……。ん……?)
女の右手の指の根元辺りに小さな指輪が嵌っていることに気付き、
(この女、結婚指輪をサック代わりにして人殴ったのかよ……。これ俺が盾にならなかったら物凄く不味かったんじゃあ……。それに、今やってきた警官、恐らく、俺が疑われてる段階で誰かが呼んだんだろうな、きっと……。危ねぇ……。もう少し手間取ったら、こっちが詰むとこだったじゃねえか……)
酷い寒気が背筋を走るのを感じたのだった。
「どうやら勘違いみたいですし、穏便に済ませましょうよ、ね」
どうやら事無かれ主義であったらしい駅員は、そう言いながら彼の肩をポン、ポン、と叩いた。
「……」
女に対しては怒りを露わにした彼であったが、流石にこれには唯、怒る気も失せ、呆れ果てるしかなかった。
(まあ……取り敢えず、冤罪は晴れたし、これ位しゃあねぇ……。それより、この子にちゃんとお礼しないとなぁ)
そして続けて、
「ほら、貴方も、謝りましょう。ねっ」
この調子である。駅員は作り笑顔で女に微笑み掛けるが、
「ああん、黙れやぼけぇ!!! もうちょいでそこのガキから金せしめられそうだったってのによぉぉぉおおお!」
女が現した本性の餌食となる。
ガッ、バキィィ!
履いていたハイヒールの靴で駅員の足を思いっきり踏みつけられ、骨砕ける音と共に、
「ぅ、あぁあああああああああああああ――――」
駅員は呻き声を上げながら地面に転がり、のたうち回る。
そして、
「うるさいわねぇええ、男のくせにぃいいいぃぃぎゃあぎゃあとぉぉおお!」
女は喚きながら追撃をかました。
ボボキィィ!
女に爪先で胴体をサッカーボール蹴りされ、自身の肋骨が砕ける音が鳴り響いた駅員は、
「あああああああ、ぶほぉ、おえぇぇぇっ、げほ、げほっ、うぁあぁぁぁぁ……」
叫びと共に、血混じりの吐瀉物を苦しそうに吐きながら、地面をのたうち回った。
幾ら何でもやり過ぎである。周囲はそれを見てドン引きしている。駅員の無礼な態度の被害に遭った彼ですらその例外ではない。
(おいおい、キチガイかよ、この女……。やられた駅員も大概……だなんて、こんなの見たら言えねぇ……)
そうして女は、明白な加害者となり、この場での発言力を完全に失い、彼の身の潔白が完全な形で証明されることとなったのだった。
そこまでいくと後は早い。
余りに突然のことで、女性警官も反応が遅れたが、女の蹴りによって地面をのたうち回ることとなった駅員を見ていて我にかえったようで、漸く女を地面に押し伏せ、手錠を掛けた。
そして、女はパトカーに、やられた駅員は救急車に乗せられ、周囲の人たちははけていった。
その頃になってやっと駅長が出てきて、彼と彼女は頭を下げらる。
そして、駅舎へと移動し、学校や親への連絡等、その場でやってしまわなければならない必要最低限の事後処理に二人はそれぞれ取り掛かった。
彼は少しそれに手間取り、早く終えていた彼女が、頼んだ訳でもないのに、彼が出てくるのを待っていた。
「おっと、待たせてしまったか……」
申し訳なさそうに少年が言うと、
「いいえ、そんなことはないですよ。ちょっとお話したいな、と思ってたので」
女の子は笑顔でそう言った。
だから、当然、二人は話をする流れになる。
雨はもうすっかり止み、空は晴れ渡っていた。